第二十二話 それぞれの決意
交易都市ヴェルミナから王宮へ戻った時、リリアの体は、まだ自分のものではないように重く感じられました。
馬車を降りた足は確かに地面を踏んでいるのに、胸の奥だけが、あの黒い靄の中に置き去りにされたままのようでした。
倒れていた兵士。
リリアの浄化は、その兵士を治すことなく、跡形もなく消してしまいました。
その光景が、何度も胸の奥に蘇ります。
自分は、助けたのではなく、殺してしまったのではないか。
遺体すら家族へ帰すことができなかった……。
その思いが、リリアの心を締めつけていました。
離宮へ戻るために歩き出した時、背後で鎧の擦れる音がしました。
護衛の兵士が、ただ位置を変えただけでした。
それなのに、リリアの肩はびくりと震え、蒼月の毛並みに指を絡めていました。
すぐそばにいたエレナが、その反応に気づきました。
ほんの一瞬、痛ましそうに目を伏せます。
蒼月は背後の兵士へ視線を向け、低く喉を鳴らしました。
兵士はすぐに足を止め、深く頭を下げました。
「申し訳ございません」
リリアは慌てて首を横へ振りました。
「いえ……大丈夫です」
そう答えても、声はかすれていました。
誰かが悪いわけではありません。
護衛の兵士は、ただ役目を果たしているだけです。
それでも、背後から近づく気配に、体が勝手に強張ってしまうのです。
ヴェルミナで掴まれた腕の痛みも、逃げようとしても動けなかった恐怖も、まだ体の奥に残っていました。
エレナはリリアの少し後ろへ回りました。
兵士たちに目配せをし、リリアの背後に不用意に近づかないよう示します。
その配慮に気づいたリリアは、申し訳なさそうに小さく唇を噛みました。
けれど、エレナは何も言わず、ただ前を向きました。
離宮の部屋へ戻ると、そこには王妃ヴィクトリアが待っていました。
知らせを受けて、先に来ていたのでしょう。
いつものように穏やかな姿で立っていた王妃を見た瞬間、リリアの中で、張り詰めていたものがふっと切れました。
「王妃様……」
声にした途端、涙がこぼれました。
止めようとしても、止まりませんでした。
王妃ヴィクトリアは何も問い詰めず、ただ両腕を広げました。
リリアはその胸へ、縋るように身を寄せました。
「私……助けたかったのです。助けたかったのに……」
それ以上の言葉は、涙に詰まって続きませんでした。
王妃ヴィクトリアは、リリアの背に手を添えました。
「ええ。分かっています。リリアさんは、助けたかったのですね」
その優しい声に、リリアはますます涙をこぼしました。
蒼月はすぐそばに立ち、扉の方へ耳を向けたまま、低く喉を鳴らしました。
リリアを傷つけるものがこの部屋の中にないと分かっていても、今のリリアの涙そのものが、蒼月には許しがたいもののようでした。
王妃ヴィクトリアは、蒼月の気配にも怯えることなく、リリアを抱きしめたまま言いました。
「今日は、何も考えなくてよいのです。今はただ、ここで休みなさい」
リリアは小さく頷きました。
けれど、涙はまだ止まりませんでした。
それから数日、リリアは王妃ヴィクトリアや侍女たちに見守られながら、離宮で過ごしました。
体の重さは少しずつ引いていきましたが、胸の奥に沈んだものまでは、簡単には消えませんでした。
ある日の午後、リリアは王妃ヴィクトリアに招かれ、王宮の庭にある茶室で茶をいただいていました。
窓辺には淡い光が差し込み、白い陶器の茶器からは香草を混ぜたやわらかな香りが立ちのぼっています。
王妃ヴィクトリアは、リリアを急かすことなく、いつものように穏やかに向かい合っていました。
蒼月はリリアの足元に伏せ、時折、扉の方へ耳を向けています。
王宮に戻ってから、蒼月は以前よりもさらにリリアのそばを離れなくなっていました。
「リリアさん、少し顔色が戻りましたね」
王妃ヴィクトリアがそう言うと、リリアは両手で茶器を包みながら、小さく頷きました。
「はい。王妃様が気にかけてくださったおかげです。最初の二日は、少し体が重かったのですが、今はもう大丈夫です」
「無理をしてはいけませんよ。あなたは、自分が思っているよりずっと大きなことをしたのですから」
その言葉に、リリアは視線を落としました。
大きなことをした。
そう言われるたびに、誇らしさよりも先に、自分の未熟さを思い出してしまうのです。
「でも、私は……自分だけの力で、あんな広い範囲に浄化を届けたわけではありません」
王妃ヴィクトリアは、リリアを見つめました。
リリアは少し迷い、それでも正直に続けました。
「アステル様の助けがあったからです。あの時、私ひとりでは、きっと途中で倒れていたと思います」
蒼月の耳が動きました。
リリアはそれに気づき、足元の蒼月へ手を伸ばしました。
「私は、まだまだ未熟です。力があると言われても、それをちゃんと扱えなければ、誰かを助ける前に、自分が動けなくなってしまいます」
王妃ヴィクトリアは、すぐには慰めませんでした。
ただ、その言葉をきちんと受け止めるように、一度頷きました。
「そう思えることも、大切な強さですよ」
「強さ、でしょうか」
「ええ。自分にできることと、まだ足りないものを見つめられる人は、きっと成長できます。けれど、成長するためにも、休むことを忘れてはいけません」
「はい」
リリアは素直に頷きました。
その返事に、王妃ヴィクトリアは少しだけ微笑みました。
「それで、リリアさんはそろそろ修練に戻りたいのですね」
リリアは驚いて顔を上げました。
「分かるのですか」
「分かります。先ほどから、あなたの目がそう言っています」
王妃ヴィクトリアの柔らかな言葉に、リリアは頬を赤らめました。
「すみません。休ませていただいているのに、落ち着かなくて」
「謝ることではありません。あなたに必要なのは、閉じ込められることではなく、守られながら前へ進むことです」
その言葉は、リリアの胸に染み込みました。
守られながら前へ進む。
それなら、自分にもできるかもしれないと思えました。
王妃ヴィクトリアとの茶の時間を終えたあと、リリアはすぐに部屋へ戻ることができませんでした。
休むことの大切さは分かっています。
けれど、胸の奥に沈んだ重さだけは、どうしてもそのままにしておけませんでした。
リリアは蒼月とともに、星術院へ向かいました。
アステルはすでにヴェルミナから戻って以降の記録を整理していたのか、机の上にはいくつもの書類と、魔法陣の写しが広げられていました。
リリアが入室すると、アステルはすぐに顔を上げました。
「リリア殿。体調は戻られましたか」
「はい。体は、もう大丈夫です」
そう答えたものの、声は思っていたよりも小さくなりました。
アステルはその返事だけで安心した様子は見せず、リリアの表情を確かめました。
「では、心の方はどうですか」
リリアはすぐに答えられませんでした。
「アステル様。お聞きしたいことがあります」
「何でしょう」
「あの時、私が浄化の光を向けた兵士の方は……どうなってしまったのでしょうか」
アステルの表情が、引き締まりました。
リリアは両手を握りしめました。
「私は、あの方を助けたかったのです。苦しんでいるのなら、少しでも楽にしたくて、浄化をしました。けれど、あの方は治るどころか、黒い靄になって消えてしまいました」
言葉にするほど、胸の奥が痛みました。
それでも、聞かずにはいられませんでした。
「私が、消してしまったのでしょうか。私が、殺してしまったのでしょうか」
部屋の中に、重い沈黙が落ちました。
アステルはすぐに否定しませんでした。
軽く慰める言葉では、リリアの苦しみには届かないと分かっているようでした。
やがて、アステルは口を開きました。
「リリア殿の浄化が、あの兵士の命を奪ったのかはまだ断定できません」
リリアは息を止めるようにして、アステルを見つめました。
「……そうなのですね」
「ええ。ただし、残酷な言い方になりますが、あの時点であの兵士は、すでに普通の意味で生きている状態ではなかった可能性が高いのです」
「普通の意味で……」
「黒い瘴気に深く侵され、人としての形をかろうじて保っていただけだったのでしょう。リリア殿の浄化は、その中に巣食っていたものを祓いました。けれど、祓ったあとに命をつなぎ止められるだけのものが、もう残っていなかった」
リリアの指先が震えました。
「では、私は……間に合わなかったのですか」
アステルは、ゆっくりと頷きました。
「そう考えるのが、今のところ最も近いと思います」
その答えは優しくありませんでした。
けれど、嘘ではないことが分かりました。
リリアは唇を結び、目を伏せました。
「もっと早く浄化できていれば、助けられたのでしょうか」
「それは、まだ分かりません。黒い瘴気がどの段階まで人を侵すのか、どこまでなら浄化によって救えるのか、私たちはまだ知らないことが多すぎます」
アステルは机の上の記録紙へ視線を落としました。
そこには、ヴェルミナで使われた魔法陣の一部が写し取られていました。
「だからこそ、調べなければなりません。あの黒い結晶が何を生み、黒い瘴気が人をどこまで変えてしまうのか。そして、リリア殿の浄化がどこまで届くのか」
リリアは震える息を吸いました。
「私は、また同じことが起きた時、助けられるようになりたいです」
「そのために、力の使い方を学ぶ必要があります」
アステルの声は静かでしたが、そこには確かな重みがありました。
「リリア殿の力は、治癒とは違います。傷を塞ぐ力ではなく、穢れや瘴気を祓う力です。だからこそ、相手の中に命が残っていれば救いになります。けれど、瘴気に喰い尽くされたあとでは、祓うことしかできない場合もある」
リリアはその言葉を、ひとつずつ胸の中で受け止めました。
自分の力は万能ではありません。
救いたいと願えば、必ず救えるものでもありません。
その事実は苦しかったけれど、知らないままでいるよりはずっとよいと思いました。
「アステル様。ヴェルミナで、私の浄化が広い範囲に届いたのは、アステル様の魔法陣があったからですよね」
「その通りです」
アステルは頷きました。
「あの魔法陣は、リリア殿の力を無理に強めたものではありません。リリア殿の浄化を受け止め、流れを整え、必要な場所へ届けるためのものです」
リリアは自分の手を見つめました。
あの時、掌からあふれていった光。
その光が兵士を救えなかったことは、きっと忘れられません。
けれど、だからこそ、次に同じことが起きた時に何も知らないままではいたくありませんでした。
「私は、まだ未熟なのですね」
「未熟であることは、恥ではありません」
アステルは言いました。
「大切なのは、自分が何を知らないのかを知ることです。リリア殿は今、それを知ろうとしている。それは、とても大切な一歩です」
「私、あの時のアステル様のようになりたいです」
アステルは少しだけ意外そうに目を細めました。
「私のように、ですか」
「はい。自分の力だけで何とかしようとするのではなくて、何が起きているのかを見極めて、必要な場所へ力を届けられるようになりたいです。誰かを助けたいと思うだけでは足りないのだと、分かりました」
その言葉を聞いて、アステルの表情が和らぎました。
「それなら、学びましょう。リリア殿が自分の力を正しく知り、正しく使えるように、私もできる限りお教えします」
リリアは胸の奥に残る痛みを抱えたまま、それでもはっきりと頷きました。
「はい。お願いします」
リリアは少し迷ってから、もう一つ気になっていたことを口にしました。
「アステル様。あの黒い結晶は、今どうなっているのですか」
アステルの表情が、引き締まりました。
「現在は、星術院の奥で強力に封印しています」
「封印……」
「ええ。通常の保管では危険です。あれが何であるのか、どのような影響を周囲へ及ぼすのか、まだ分かっていないことが多すぎます。ですから、今は調査よりも封じ込めを優先しています」
リリアは、ヴェルミナで見た黒い結晶を思い出しました。
ただそこにあるだけで、空気が冷たく沈んでいくような、胸の奥を押さえつけられるような気配。
あれが王宮の中にあるのだと思うと、背筋に小さな寒気が走りました。
「危なくは、ないのですか」
「現時点では、封印は安定しています。星術院の者にも、許可なく近づくことを禁じています」
アステルは机の上の書類を一枚引き寄せました。
そこには、幾重にも重ねられた封印式らしき図が描かれていました。
リリアには細かな意味までは分かりませんでしたが、その線の複雑さだけでも、どれほど慎重に扱われているのかは伝わってきました。
「次に封印を開ける時には、リリア殿にも立ち会っていただくつもりです」
リリアは驚いて顔を上げました。
「私も、ですか」
「はい。あの結晶に対して、今のところ最も明確な反応を示したのはリリア殿の浄化です。もちろん、無理に触れさせるつもりはありません。ですが、封印の内側で何が起きているのかを確かめるには、リリア殿の感覚が必要になる可能性があります」
蒼月が、低く喉を鳴らしました。
それは明らかな警戒でした。
リリアが危険なものに近づくことを、よいとは思っていないのでしょう。
アステルは蒼月の反応を受け止めるように、続けました。
「蒼月が警戒するのは当然です。ですから、その時は決してリリア殿を一人にはしません。封印を開ける前に、退避の手順も、結界も、すべて整えます」
リリアは蒼月の首元に手を添えました。
蒼月の蒼い瞳が、じっとリリアを見返しています。
リリアはその瞳を見つめ返し、安心させるように首元をゆっくりと撫でました。
「蒼月、大丈夫。心配してくれて、ありがとう」
そして、もう一度頷きました。
「本当に、ひとりでは近づきません」
蒼月はしばらくリリアを見ていましたが、やがて低く息を吐くように鼻を鳴らしました。
納得したわけではないのでしょう。
けれど、リリアの言葉だけは受け取ったようでした。
アステルはその様子を見届けてから、書類を丁寧に閉じました。
「黒い結晶については、焦ってはいけません。今は封印を保ち、情報を集め、必要な準備を整える段階です」
「はい」
「そして確認の時が来たら、リリア殿にも見ていただきます。その時、何か違和感があれば、どんな小さなことでも伝えてください」
リリアは胸の奥に残る不安を押さえながら、はっきりと頷きました。
「分かりました」
リリアは少し迷いました。
黒い結晶のことも、消えてしまった兵士のことも、今は王国全体に関わる大きな問題です。
そのあとで自分の願いを口にするのは、少しだけためらわれました。
けれど、どうしても聞かずにはいられませんでした。
「アステル様。最後に、私事になってしまうのですが……お願いがあります」
「何でしょう」
アステルは急かすことなく、続きを待ちました。
リリアはそばにいる蒼月を見ました。
その姿を見て、リリアは小さく息を吸いました。
「交易都市ヴェルミナへ出かける前に、蒼月の呪いについて調べてくださるとおっしゃっていました。もし可能でしたら、そのことも引き続きお願いできないでしょうか」
蒼月の耳が、動きました。
アステルの視線も、リリアから蒼月へ移ります。
「もちろんです。蒼月の呪いについては、すでに星術院の古い記録をあたらせています」
「本当ですか」
リリアの声に、わずかな安堵がにじみました。
アステルは頷きました。
「ただ、まだ分かったと言えるほどのものはありません。蒼月にかけられているものは、通常の呪いとは性質が違います。軽々しく断定すれば、かえって道を誤ることになります」
「そう、ですよね」
リリアは蒼月の首元を撫でました。
「急ぎたい気持ちはあります。でも、無理に何かをして蒼月を傷つけることだけはしたくありません」
「それが正しい判断です」
アステルの声は穏やかでしたが、はっきりとしていました。
「蒼月の呪いについては、慎重に調べます。古い文献、星術院に残る封印術の記録、過去の魔物や瘴気に関する報告も含めて、可能な限り確認しましょう」
リリアは胸の前で両手を重ねました。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらです。蒼月のことは、リリア殿だけの私事ではありません。この国にとっても、非常に重要なことです」
その言葉に、リリアは少し驚きました。
アステルは続けました。
「蒼月は、ただの護衛ではありません。リリア殿を守り、黒い瘴気にも反応し、人には分からないものを感じ取っている。蒼月の状態を正しく知ることは、これから起きることを見極める手がかりにもなります」
蒼月の視線が、アステルへ向けられました。
警戒とも、見極めともつかないその眼差しを、アステルは正面から受け止めました。
「もちろん、蒼月を調べるという意味ではありません。蒼月を縛っているものを調べる、という意味です」
リリアはその言葉に、ほっとしたように頷きました。
「はい」
「何か分かり次第、必ずお伝えします。ですが、リリア殿も約束してください。焦って蒼月の呪いに触れようとはしないこと。ひとりで試そうとはしないこと」
リリアは蒼月を見ました。
蒼月の蒼い瞳が、まっすぐにリリアへ向けられています。
その視線には、リリアが自分を顧みずに踏み込むことを許さない強さがありました。
リリアは微笑みました。
「約束します。蒼月を助けたいからこそ、無茶はしません」
蒼月は低く鼻を鳴らし、リリアのそばへ身を寄せました。
アステルはその様子を見届けてから、話を続けました。
「では、まずは一つずつ進めましょう。黒い結晶のことも、蒼月の呪いのことも、別々に慎重に向き合うべき問題です」
「はい」
リリアは深く頷きました。
答えのない問いばかりが目の前に並んでいます。
けれど、ひとりで抱え込まなくていいのだと思えるだけで、胸の奥にあった重さが少しだけ和らいだ気がしました。
翌日、リリアは久しぶりに修練場へ向かいました。
王宮の修練場には、まだ朝の涼しさが残っていました。
石畳には薄い光が差し込み、鍛錬用の木剣や短剣が整然と並べられています。
リリアが蒼月とともに姿を見せると、すでに待っていた騎士団第二隊隊長エレナがこちらを振り返りました。
「体調は戻ったようですね、リリア殿」
「はい。ご心配をおかけしました」
リリアが丁寧に礼をすると、エレナはいつものように無駄のない視線でリリアの立ち姿を確かめました。
「顔色は悪くありません。足の運びも鈍ってはいないようです。では、今日から少し内容を増やします」
「内容を、ですか」
リリアが瞬きをすると、エレナは修練場の奥へ視線を向けました。
そこには、ひとりの若い娘が立っていました。
騎士のような鎧は身につけていません。
動きやすい濃色の服に、短い外套を羽織っているだけです。
けれど、その立ち姿には隙がありませんでした。
ただ立っているだけなのに、足の置き方も、肩の力の抜き方も、普通の侍女や見習いとはまるで違います。
蒼月が低く鼻を鳴らしました。
警戒というより、相手を測るような反応でした。
「彼女は、ミラ・ファルク。私が腕を買っている者です。密偵としての訓練を受けていますが、接近戦、とくに組手では隊の中でも抜きん出ています」
ミラは、音もなく一歩進み出ると、リリアへ一礼しました。
「ミラ・ファルクと申します。リリア殿の修練を補佐するよう、エレナ隊長より命を受けました」
「リリア・グランベルです。よろしくお願いします」
リリアが礼を返すと、ミラは表情をほとんど変えずに頷きました。
その落ち着き方があまりに自然で、リリアはかえって背筋を伸ばしてしまいました。
「リリア殿には、これから剣や短剣だけではなく、掴まれた時、間合いを詰められた時、倒されそうになった時の対処も覚えていただきます。それと、リリア殿が王都の外へ出る際には、ミラを侍女の一人として同行させます。表向きは侍女ですが、実際には近接護衛です」
その内容はリリアにとって十分に心強く、同時に少し緊張するものでもありました。
「私が、組手をするのですか」
「そうです。賊は、正面から礼儀正しく剣を構えてはくれません。あなたを狙う者がいるなら、手首を掴む、口を塞ぐ、背後から押さえる、そういうやり方を使ってきます」
ヴェルミナでの出来事が、リリアの胸をかすめました。
腕を掴まれた感触。
逃げようとしても力では敵わなかった恐怖。
蒼月が来てくれなければ、自分はどうなっていたのか。
思い出すだけで、指先が冷たくなりました。
あの時の恐怖を二度と繰り返さないためにも、リリアは自分の身を守る術を覚えなければならないと思いました。
「分かりました。お願いします」
リリアがまっすぐに答えると、エレナは小さく頷きました。
「では、まずは簡単な受け身からです。相手に手首を取られた時、力で引き抜こうとしてはいけません。相手の力の向きに逆らわず、体をずらし、関節の弱い方へ逃がします」
ミラがリリアの前に立ち、ゆっくりと手首を取ります。
強くはありません。
けれど、リリアが反射的に引こうとすると、まるで動きませんでした。
「えっ」
「力で逃げようとすると、こうなります」
エレナが淡々と言いました。
「では、体を半歩こちらへ。手首を回して、相手の親指の隙間へ抜く」
リリアは言われた通りに動こうとしました。
半歩。
手首を回す。
相手の親指の隙間へ。
頭では分かっているつもりでした。
「こ、こうですか!」
リリアはそう言いながら、手首を回そうとしました。
けれど、体はまったく別の方向へ動きました。
勢いよく自分の腕を引いてしまい、足がもつれ、そのままミラの方へ半分倒れ込むような形になりました。
ミラは涼しい顔でリリアを受け止めました。
あまりにもきれいに受け止められてしまい、リリアは一瞬、自分が何を失敗したのかも分からなくなりました。
顔を真っ赤にしたリリアを支えたまま、ミラは何事もなかったように姿勢を保っていました。
次の瞬間、エレナの口元がほんの少しだけ緩みました。
ミラも、表情を崩さないようにしているつもりなのか、目元には小さな笑みが浮かんでいました。
「……いえ。今のは、逃げるというより、私に飛び込んできた形ですね」
ミラがそう言うと、リリアの顔はさらに赤くなりました。
「す、すみません」
「受け止める訓練にはなりました」
ミラの淡々とした返事に、エレナがとうとう小さく息を漏らしました。
蒼月は呆れたように長い尾を一度だけ揺らしました。
「違います」
エレナは、笑みを抑えながらも、きっぱりと言いました。
「けれど、倒れ方は悪くありません。まずは転んでも怪我をしない方法から覚えましょう」
リリアはまだ頬を赤くしたまま、それでも小さく頷きました。
「はい。お願いします」
ミラはリリアを立たせると、今度は少しだけ柔らかい声で言いました。
「大丈夫です。最初からできる方はいません。何度でも受け止めます」
その言葉に、リリアは少しだけ肩の力を抜きました。
その様子を、蒼月は少し離れた場所から見ていました。
ヴェルミナから戻ったばかりの頃、蒼月は何度も考えていました。
――このままリリアを王宮から連れ出してしまった方がよいのではないか。
リリアは、怖い思いをしても、傷ついても、立ち止まろうとはしません。
自分の未熟さを知れば、もっと学ぼうとします。
誰かを救えなかった痛みを抱えても、次は救えるようになりたいと願います。
その強さは美しく、だからこそ、蒼月には不満でもありました。
人の思惑も、貴族たちの議論も、黒い結晶の不穏な気配も、リリアには重すぎる。
リリアを傷つけるものがここにあるのなら、自分がそのすべてから遠ざければいい。
そう思ったのは、一度ではありませんでした。
けれど、リリアは逃げることを選ばず、震えながら前を向き、自分にできることを増やそうとしていました。
蒼月は、ゆっくりと尾を揺らしました。
不安が消えたわけでも、人の都を信じきったわけでもありません。
けれど、リリアがここで前へ進もうとするなら……
――今は、その道を奪うべきではないのだろう。
そう思ってもなお、リリアをこの場所から連れ去ってしまいたい気持ちは消えませんでした。
――もう少しだけ、この場所で見守ろう。そのかわり、リリアを傷つけるものがあれば、今度こそ自分が必ず守る。
蒼月は顔を上げました。
修練場の朝の光の中で、リリアはもう一度ミラの前に立っています。
その背中はまだ頼りなく、けれど確かに前を向いていました。
蒼月はその姿を見つめながら、深い蒼い瞳を細めました。
リリアが歩もうとするかぎり、自分はそのそばにいる。
たとえ人の都がどれほど騒がしく揺れたとしても、その決意だけは変わりませんでした。




