第二十一話 波紋
王都の城門が見えた時、リリアは馬車の窓から外を見つめていました。
自分の浄化の光を受け、黒い靄となって消えていった人影。
あれは本当に、救いだったのでしょうか。
それとも、自分は取り返しのつかないことをしてしまったのでしょうか。
答えの出ない思いを抱えたまま、馬車は城門をくぐりました。
王都へ戻った一行を出迎えたのは、いつもの騎士や文官たちだけではありませんでした。
城門の内側には、すでに二人の女性が待っていました。
一人は、王国騎士団第二隊隊長、エレナ・フォン・シュヴァルツ。
そしてもう一人は、リリア付き侍女長、セシリア・フォン・リンドベルクでした。
セシリアは馬車が止まると、すぐにリリアのもとへ歩み寄りました。
「リリア様。お帰りなさいませ」
「た、ただいま戻りました」
リリアが慌てて頭を下げると、セシリアは穏やかに微笑みました。
ですが、その眼差しは優しいだけではありませんでした。
リリアの顔色や疲れを、一目で見抜いているようでした。
「このまま離宮へお戻りいただきます。湯浴みと軽いお食事の用意は整えておりますので、今日は何もお考えにならず、お休みくださいませ」
「え……でも、黒い結晶のことを、王様たちにお伝えしなくては」
「その件は、アステル長官より正式に報告されます」
リリアが言葉を詰まらせると、今度はエレナが口を開きました。
「リリア殿。あなたは交易都市で十分に務めを果たされました。ここから先は、大人たちの……王宮と星術院と騎士団の役目です」
その声は厳しくもありましたが、突き放すものではありませんでした。
むしろ、これ以上リリアに背負わせないために、あえて線を引いているようでした。
エレナは、リリアが交易都市で暴漢に襲われたと聞いた時から、ひどく後悔していました。
「あなたを危険に晒してしまったこと、私の指導不足です」
エレナは悔しげに目を伏せました。
自分は、基本的な剣技や体術ばかりを中心に教えていました。
けれど、本当に必要だったのは、相手に腕を掴まれた時、口を塞がれた時、体を近づけられ、逃げ場を失った時の対処でした。
「剣の持ち方などより、もっと実戦的な……力の弱い者が実際に追い詰められた場面で、いかにして身を守るか。それを、もっと早く教えておくべきだったのです」
「……分かりました」
リリアがそう答えると、セシリアは深く頷きました。
「では、参りましょう。蒼月様もご一緒に」
蒼月は当然のようにリリアの隣へ進みました。
アステルは、その様子を少し離れた場所から見ていました。
封印箱はすでに、星術院の者たちによって厳重に運ばれていきます。
黒い結晶は封じられました。
けれど、それは終わりではありません。
むしろ、始まりでした。
リリアが離宮へ向かう後ろ姿を見送ったあと、アステルは息を吐きました。
「……まずは、陛下へご報告せねばなりませんね」
その声は低く、重いものでした。
翌日。
王宮政務棟の会議室には、朝から重い空気が漂っていました。
集められたのは、王国の中枢を担う者たちでした。
国王アレクシス。
宰相ハインリヒ。
星術院長官アステル。
王国騎士団総司令官ローガン。
軍務顧問ヴィクトル。
そして、次期国王である第一王子レオンの姿もありました。
机の上には、交易都市ヴェルミナからの報告書と、アステルがまとめた簡易記録が置かれていました。
あとは、リリアが会議室へ来るのを待つばかりでした。
扉の向こうから足音が近づきました。
入ってきたのは、王妃ヴィクトリアでした。
アレクシス王が驚いたように顔を上げます。
「ヴィクトリア。どうした」
王妃は落ち着いた様子で会議室を見回しました。
そして、当然のことを告げるように言いました。
「リリアさんは疲れています。昨日のうちに離宮へ戻しましたし、しばらく休ませます」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ変わりました。
誰も異を唱えませんでした。
リリアが交易都市で果たした役割の大きさは、この場にいる者たちがよく理解していました。
ヴィクトリアは、さらに続けました。
「黒い結晶のことは、アステル長官がご説明なさるのでしょう。ならば、リリアさんをこの場に呼ぶ必要はありません」
「しかし、当事者でもある」
そう言ったのは、ローガンでした。
責めるような響きではありません。
現場を知る者の証言が必要になる可能性を考えた、軍人としての言葉でした。
ヴィクトリアは、まっすぐにローガンを見ました。
「必要になれば、後日、私が同席した上で話を聞けばよろしいでしょう。ですが、今朝ではありません」
穏やかな口調でした。
けれど、その言葉には一歩も譲らない強さがありました。
「リリアさんは、知らない土地で賊に襲われ、さらに兵士が魔物化し、黒い靄となって消えるところを見ています。そのうえ、黒い結晶の封印にも力を使いました。まだ十九歳の娘に、戻ってすぐ重臣の前で説明を求めるおつもりですか」
会議室は静まりました。
アステルも、ハインリヒも、何も言いませんでした。
ヴィクトルが、低く息を吐きます。
「……王妃殿下のおっしゃる通りですな。今ここで必要なのは、まず専門家の報告でしょう」
ハインリヒも頷きました。
「私も同意します。リリア殿の証言が必要になるとしても、それは今日でなくてよい」
アレクシス王は、しばらく王妃を見つめていました。
やがて、頷きます。
「分かった。リリアは休ませる」
ヴィクトリアは満足そうに微笑みました。
「ありがとうございます。では、男性陣だけで難しいお話をなさってくださいませ」
その言い方があまりにも自然だったため、レオンが小さく笑いそうになりました。
ローガンも、口元を緩めます。
重苦しかった会議室の空気が、ほんの少しだけ和らぎました。
けれど、それも一瞬のことでした。
ヴィクトリアが退室すると、扉は閉じられました。
アレクシス王は、改めてアステルへ視線を向けました。
「では、始めよう。アステル長官。交易都市ヴェルミナで見つかった黒い結晶について、報告を」
アステルは深く一礼しました。
「承知いたしました」
会議室に、再び緊張が戻りました。
「まず、黒い結晶についてご報告いたします」
アステルは続けました。
「黒い結晶は、絶えず周囲に瘴気をまき散らしていました。そして、その瘴気に深く侵されたものは、魔物へと変貌するようです。これまで魔物は自然発生するものと考えられてきましたが、今回の件を見る限り、あの結晶が生き物を……人や動物を魔物へ変えている可能性があります」
アステルは、そこで一度言葉を切りました。
「現時点では断定できません。ですが、交易都市ヴェルミナで倒れた兵士たちの変貌は、その可能性を強く示しています。そして、この仮説が正しければ……近年の異常な魔物発生数の多さを考えると、黒い結晶は交易都市ヴェルミナにあった一つだけとは限りません」
アステルの声は、低く落ち着いていました。
「むしろ、同じようなものが王国内、あるいは世界各地に散らばっている可能性があります。であれば、まず原因となる黒い結晶を探し出すことが、この混乱を鎮める第一歩になると考えます。魔物を討伐するだけでは、根本的な解決にはなりません。瘴気を吐き出す源を見つけ、封じる必要があります」
アレクシス王は、しばらく黙ってアステルの言葉を受け止めていました。
やがて、口を開きました。
「分かった。黒い結晶の探索を、王命として進める」
その声に、会議室の空気が引き締まりました。
「アステル長官は、星術院を中心に瘴気の異常が確認された地域を洗い出せ。ローガン総司令官は、騎士団に各地の魔物発生状況を再確認させよ。ヴィクトル、軍務の面から危険地域の優先順位をまとめるのだ」
「承知いたしました」
アステル、ローガン、ヴィクトルが、それぞれ深く頭を下げました。
アレクシス王は、机の上の報告書へ視線を落としました。
「魔物を討つだけでは終わらぬ。根を断たねば、同じことが繰り返される」
その言葉は、王としての決断でした。
「続いて、今回、魔物化した兵が浄化によって黒い靄となり消えた件について、ご説明いたします」
アステルは会議室の面々を見渡して言いました。
「おそらく、怪我や軽い瘴気に侵された程度であれば、リリア殿の浄化は癒やしとして働きます。実際、これまでリリア殿は多くの者を救ってきました。ですが……」
そこで、アステルは一度言葉を切りました。
「完全に魔物へ変貌してしまったものは違います。すでに人の理から外れ、瘴気そのものと化しているため、浄化の力に触れることで、瘴気ごと存在を保てなくなる可能性があります」
「存在を、保てなくなる……?」
レオンが低く呟きました。
アステルは、ゆっくりと頷きました。
「はい。肉体も魂も瘴気に喰い尽くされている状態に、純粋な光を当てればどうなるか。今回、兵が黒い靄となって消滅したのは、そのためだと考えられます」
ローガンの表情が、険しくなりました。
「それはつまり……」
重い沈黙のあと、ハインリヒが言葉を継ぎました。
「これまでリリア殿が浄化してきた魔物の中にも、もとは人、あるいは動物であったものが含まれていたかもしれない、ということですか」
アステルは、すぐには答えませんでした。
けれど、その沈黙こそが、答えに近いものでした。
「おそらく、リリア殿も薄々は感づいているかもしれません」
アステルは、言葉を続けました。
「ですが、目の前で兵が消えたことの意味を、はっきりと事実として突きつければ、リリア殿自身の心が壊れてしまう可能性があります」
会議室に、重い沈黙が落ちました。
「リリア殿は、人を救うために力を使ってきました。その力が、もとは人や動物だったかもしれないものを消していたのだと知れば、今後、浄化そのものを恐れるようになるかもしれません」
アステルの声は、低く抑えられていました。
「ですから、この件については慎重に扱うべきです。少なくとも、今のリリア殿にすべてを告げるべきではありません。そのためにも、今後はリリア殿が魔物化した者と直接向き合わずに済む体制を整える必要があります」
アステルはローガンを見据えて提案しました。
「黒い結晶を発見した場合は、まず騎士団が周囲の魔物をすべて討伐する。そのうえで、リリア殿には黒い結晶そのものの浄化にのみ集中していただくべきです」
ローガンが、重々しく頷きました。
「つまり、魔物の討伐は騎士団が担い、リリア殿は結晶の処理に専念させる、ということか」
「はい。少なくとも、今後しばらくはそれが最も安全です」
アステルは、はっきりと答えました。
「リリア殿に、魔物化した者が消えるところを何度も見せるべきではありません。あの方の力は必要です。ですが、その心を守れなければ、いずれ浄化そのものが使えなくなるおそれがあります」
「ですが、ずっと伏せておくこともできません」
ハインリヒが、言いました。
「リリア殿はいずれ気づきます。いえ、すでに薄々は感づいているのでしょう。今回の兵の件で、それはいずれ確信に変わります」
アステルは否定しませんでした。
「事実を告げるべき時は来るでしょう。ですが、今のリリア殿にすべてを突きつければ、あの方は自分の力そのものを恐れてしまう」
アレクシス王は、重く息を吐きました。
アステルは、続けました。
「そして、その時には、リリア殿が一人で受け止めることのないようにしなければなりません」
会議室には、重い沈黙が流れていきました。
「次に、黒い結晶に対する浄化の効果についてです」
アステルは、さらに報告を続けました。
「今回、黒い結晶の封印が可能となったのは、リリア殿の浄化があったためです」
会議室にいる者たちの視線が、アステルへ集まりました。
「今回は、私の術式で浄化の流れを受け止め、少しずつ黒い結晶へ向けました。その結果、完全な浄化には至りませんでしたが、封印できる程度まで瘴気の勢いを落とすことはできました」
「つまり、リリアの浄化は有効だったのだな」
アレクシス王が確認するように言いました。
「はい。だからこそ、この奇跡とも呼ぶべき力を、王国は大切に守らなければならないと考えます」
アステルは、はっきりと答えました。
「今後もリリア殿には、浄化の力を正しく理解し、いずれは一人でも発揮できるようになっていただく必要があります。そのためにも、王国として全力で支えていかなければなりません。リリア殿の浄化は、黒い結晶に対抗し得る力です。ですが、それは決して使い捨ててよい力ではありません。力を守るということは、リリア殿自身を守るということでもあります」
その言葉に、誰も異を唱えませんでした。
リリアの力を必要とする以上、ただ黒い結晶の前へ連れていけばよいという話ではありません。
どこに黒い結晶があるのか。
どの地域を優先して調べるべきなのか。
まずは、王国側がそれを見極める必要がありました。
「黒い結晶の探索については、まず魔物の襲撃が確認された町や村の周辺を優先すべきでしょう」
ローガンが言いました。
「交易都市ヴェルミナの黒い結晶は回収済みです。ですが、あの一つだけとは限りません。同じ周辺に、まだ残っているものがないか確認する必要があります」
ハインリヒが、机上の報告書へ視線を落としました。
「リリア殿の実家があるローゼン領の町も、魔物の襲撃を受けておりますな」
その言葉に、場の空気が変わりました。
「ええ。もし黒い結晶が魔物化の原因であるなら、あの町の近辺にも同じものが存在する可能性があります」
アステルは頷きました。
「まずは、交易都市ヴェルミナ周辺に残りがないかの確認。そして、ローゼン領の町の近辺。加えて、過去に魔物の襲撃があった地域を重点的に調べるべきです」
アレクシス王は、その言葉を受けて深く頷きました。
「分かった。国内の調査はその方針で進める」
それから、アレクシス王は会議室にいる者たちを見渡しました。
「そして、黒い結晶が世界各地に散らばっている可能性がある以上、これは王国だけで抱えてよい問題ではない」
重臣たちの表情が引き締まりました。
「魔物の発生に黒い結晶が関わっている可能性がある以上、国境を越えて協力し、対策を講じる必要がある。各国にも、この事実を伝える」
アレクシス王は、そこで一度言葉を切りました。
「ただし、詳細を文書だけで送るには危険が大きい。まずは各国の代表者を王都へ招き、こちらで説明の場を設ける」
ハインリヒが頷きました。
「では、各国へ代表者の派遣を求める書状を整えます。黒い結晶の危険性については概要に留め、詳細は王都で直接説明する形がよろしいでしょう」
「頼む」
アレクシス王は答えました。
こうして、黒い結晶に関する当面の方針は定まりました。
それぞれの役割を確認したあと、会議は解散となりました。
第一王子レオンや記録係の文官たちが一礼し、順に会議室を後にしました。
けれど、すべての者が退室したわけではありませんでした。
会議室には、アレクシス王と四人の重臣だけが残りました。
宰相ハインリヒ。
星術院長官アステル。
王国騎士団総司令官ローガン。
軍務顧問ヴィクトル。
扉が閉じられると、先ほどまでとは違う沈黙が落ちました。
アレクシス王は、ゆっくりと四人を見渡しました。
「さて」
その声は、先ほどよりも低く、重いものでした。
「次は、リリアのことだ」
アレクシス王の言葉に、四人の表情が引き締まりました。
「リリアをハインリヒの養女とする件。そして、王命によって公爵位を与える件を、早急に決めなければならない」
ハインリヒは頷きました。
「承知しております。黒い結晶の件は、もはやこの国だけで抱える話ではありません。各国へその存在を伝える以上、彼らが浄化の力を持つリリア殿に干渉しようと画策するのは明白。他国が手を伸ばす前に、王国の最高位の貴族として、リリア殿の不可侵な立場を早急に固めておく必要があります」
アレクシス王は、ハインリヒを見据えました。
「各国の使者を招いて説明の場を設ける前に決める。一か月以内だ」
「承知いたしました」
ハインリヒは、深く一礼しました。
「貴族会議の準備を、ただちに進めます」
その言葉を最後に、会議室には再び重い沈黙が落ちました。
黒い結晶の脅威は、もはや隠し通せるものではありません。
そして、その脅威に対抗し得るリリアの存在もまた、これまでのように守っていられる段階を過ぎようとしていました。
王国がリリアを守るために選ぼうとしている道。
それは、リリア自身の運命を大きく変えるものでもありました。
まもなく開かれる貴族会議は、王国の未来だけでなく、リリアの立場をも大きく揺るがす場となるのです。




