第二十話 黒い結晶
王国中枢が、リリアの今後の「立場」を固めるべく動いていたころ。
遠く離れた交易都市ヴェルミナで、リリアは表向きには平静を装っていました。
けれど、近くにいる者たちの目には、その無理は明らかでした。
食事の量は減り、少し大きな物音がしただけで肩を震わせます。
翡翠の瞳の下には薄く影が落ち、笑みを浮かべても、その奥にはまだ怯えが残っていました。
あの夜の襲撃は未遂に終わったとはいえ、その恐怖は、リリアの中から消えてはいませんでした。
ルークは何度か声をかけようとしましたが、リリアはそのたびに同じ言葉を返しました。
「大丈夫です」
蒼月は、そんなリリアのそばを離れませんでした。
その存在だけが、かろうじてリリアを支えているようでした。
それでも、リリアは町の浄化を続けると言いました。
「休まれた方がよろしいのではありませんか」
ルークがそう言うと、リリアは少しだけ首を振りました。
「まだ、瘴気が残っています。怪我をした人たちもいますし……町の人たちも、不安なままですから」
「ですが、リリア殿のお体も――」
「分かっています」
その声は、いつもよりかすかに弱く聞こえました。
それでも、リリアは顔を上げました。
「無理はしません。だから、少しだけ。できるところまで、浄化を続けさせてください」
ルークは言葉を詰まらせました。
止めるべきだと思いました。
けれど、リリアが何もしないまま部屋に閉じこもっていれば、かえってあの夜の恐怖に囚われてしまうのではないかとも思いました。
ガレスはしばらくリリアを見ていましたが、やがて短く頷きました。
「分かりました。ただし、浄化は短時間に限ります。少しでも体調に異変があれば、即座に中止していただきます」
「はい」
「蒼月からも離れぬように」
その言葉に、リリアはそっと蒼月を見ました。
蒼月はリリアのすぐそばにいて、誰かが近づけば、すぐに前へ出られる位置を保っていました。
リリアは小さく息を吐き、蒼月の首元へ手を添えました。
「……一緒にいてね、蒼月」
蒼月は答えるように、そっとリリアの手に頬を寄せました。
その日の午後も、リリアは再び町へ出ました。
異変の報せが届いたのは、町の川に近い区画へ向かおうとしていた時でした。
「ガレス隊長!」
息を切らした兵士が駆け寄ってきました。
その顔色は悪く、ただ事ではないことがひと目で分かりました。
「川辺の下流側で、強い瘴気を確認しました。周辺を調べていた兵が、数名倒れています」
ガレスの表情が、一瞬で変わりました。
「住民は近づけていないな」
「はい。すでに周囲を封鎖しています。ただ、倒れた者たちをまだ引き戻せておりません。近づこうとした者まで気分を悪くし、これ以上は危険と判断しました」
リリアは杖を握る手に力を込めました。
「私が行きます」
倒れている兵士がいる以上、リリアは足を止めようとはしませんでした。
ガレスは短く考えたあと、厳しい声で命じました。
「リリア殿を中心に護衛を固める。住民はさらに下げろ。倒れた兵には不用意に近づくな。まず状況を確認する」
一行が川辺へ向かうと、そこだけ空気の重さが違っていました。
川沿いの石畳は黒ずみ、草は枯れ、水面は暗く淀んでいます。
風が吹いても、そこに溜まった空気だけが動かないようでした。
兵士たちが張った簡易の縄の向こう、川辺に近い場所に三名の兵が倒れていました。
「……ひどい瘴気です」
リリアは小さく呟きました。
その直後でした。
倒れていた兵士の一人が、ぎくりと不自然に身体を震わせました。
蒼月が低く唸ります。
その唸りに、ガレスが即座に反応しました。
「全員、構えろ」
リリアが息を呑みます。
兵士はゆっくりと上体を起こしました。
助かったのかと、近くにいた騎士が一歩踏み出しかけ、声をかけます。
「おい、大丈夫か?」
「近づくな!」
ガレスの声が飛びました。
直後、兵士の喉から、人のものとは思えない凄まじい声がほとばしりました。
身体が不自然に大きく反り返り、指先が黒ずみ、皮膚の下を何かが這うように脈打ちます。
目は赤く濁り、口元から黒い霧のような瘴気が漏れました。
その姿は、人の形を保てなくなったかのように歪み、魔物へと変じていきました。
「下がって!」
リリアの叫びと同時に、蒼月が飛び出しました。
魔物化した兵士が咆哮を上げ、近くの騎士へ襲いかかろうとした瞬間、蒼月は地を蹴り、斜め後方から弧を描くように飛び込みました。
鋭い爪が黒く歪んだ腕を弾き、魔物の身体を地面へ叩きつけます。
そのまま蒼月は、喉元へ牙を立てました。
鈍い音がして、魔物化した兵士の身体が石畳の上で動かなくなりました。
「隊を崩すな! 囲め。ただし、近づきすぎるな!」
ガレスの指示が飛びます。
騎士たちは即座に動きました。
倒れていた別の兵士の指先も、黒く震え始めていました。
「結界を!」
ガレスの声に、ユリウスがすぐに杖を掲げました。
淡い光が広がり、騎士たちとリリアの前に薄い防壁を作ります。
ですが、瘴気はあまりにも濃く、普段なら十分に押し返せるはずの黒い靄が、結界の表面にまとわりつき、じりじりと光を削っていきました。
「長くは保ちません!」
ユリウスが苦しげに声を上げました。
リリアはその結界の内側から、魔物化しかけていた兵士へ浄化の光を向けました。
淡い光が、黒く変じていく身体を包み込みます。
兵士だったものは、人のものとは思えない叫び声を上げました。
まとわりついていた瘴気が激しく揺らぎ、黒い霧となって剥がれ落ちました。
けれど、兵士だったものは人の姿を取り戻すことなく、輪郭から崩れ、黒い靄となって消えていきました。
「……そんな」
リリアの声が震えました。
その間にも、残る一人の兵士が不自然に激しく痙攣しました。
指先が黒ずみ、喉の奥から獣のような唸り声が漏れます。
黒く変じかけた腕が騎士へ伸びるより早く、蒼月の牙がその首を噛み切りました。
兵士だったものの身体が、石畳へ崩れ落ちました。
瘴気の進行は一瞬だけ弱まり、騎士たちはその隙に隊列を立て直し、周囲を封鎖し直しました。
川辺に、重い沈黙が落ちます。
リリアは荒い息をつきながら、杖を握りしめていました。
目の前で人が魔物へ変わった。
自分は、その人を殺してしまったのかもしれない……。
「リリア殿」
ルークが支えようと近づきました。
リリアはそれでも懸命に意識を集中させ、小さく頷きました。
視線は川辺の奥に向いたままでした。
「奥に……何かあります」
ガレスが問いました。
「見えるのですか」
リリアは首を振りました。
「見えません。でも、瘴気が奥から流れてきています。あそこに、何か……」
ガレスは川辺の奥を見据えました。
しかし、その先は黒い靄に覆われ、目視できる距離は短くなっていました。
兵士が数歩近づいただけで倒れ、瘴気に侵されるほどの場所です。
これ以上、人を進ませることはできませんでした。
ユリウスもまた、険しい表情で奥を見つめていました。
「……無理です」
ガレスが振り返りました。
「結界でも進めぬか」
ユリウスは悔しげに唇を噛み、それでも首を横に振りました。
「周辺を一時的に守る程度なら可能です。ですが、あの奥へ進むには瘴気が濃すぎます。私の結界では保ちません」
リリアは杖を握る手に力を込めました。
「でも、奥に何かあるんです。あそこから、瘴気が流れてきています」
「分かっています」
ユリウスは苦しげに頷きました。
「だからこそ、これ以上は私たちだけで判断してはなりません。アステル様に判断を仰ぐべきです」
その言葉に、ガレスの表情が引き締まりました。
「分かった。王都へ急報を出す」
ガレスは即座に部下へ命じました。
「国王陛下、ならびに星術院長官アステル様へ報告。交易都市の川辺にて、極めて濃い瘴気を確認。接近した兵士三名が倒れ、その後、相次いで魔物化、または魔物化の兆候を示した。ユリウス殿の結界でも中心部への接近は困難。至急、判断を仰ぐ、と伝えろ」
「はっ!」
騎士が走り出しました。
リリアは川辺の奥を見つめたまま、しばらく動けませんでした。
黒い靄の向こうに何があるのかは、まだ見えません。
けれど、そこから流れてくる瘴気だけが、町を静かに蝕み続けていました。
その日、川辺一帯は厳重に封鎖されました。
住民はもちろん、兵士であっても一定以上近づくことは禁じられました。
ユリウスが簡易の結界を張り、リリアも日に一度、十分な距離を保ったまま、周囲の瘴気だけを少しずつ浄化しました。
リリアは、自分が浄化の光を放った瞬間の、兵士の叫び声を忘れられませんでした。
あの人には、帰りを待つ家族がいたのかもしれない。
自分がしたことは……。
そう考え始めると、胸の奥が冷たく沈んでいきました。
蒼月は片時もリリアのそばを離れず、ルークもまた、彼女の無理を見逃さぬように気を配っていました。
蒼月は、リリアの横顔を静かに見つめていました。
川辺で、リリアの浄化の光に包まれた兵士が黒い靄となって消えた瞬間、蒼月は悟っていました。
これは、リリアに背負わせてよいものではない。
人を助けたいと願うリリアの光が、誰かを消したものとして彼女の心に刻まれてしまえば、その痛みはきっと深く残ります。
だから、残る兵士が魔物へ変じかけた時、蒼月は迷いませんでした。
リリアが手を伸ばすより早く、自分が牙を立てました。
救えないものがあるなら、その終わりを彼女の光に背負わせてはなりません。
すべてを防ぐことはできない。
すべての命を救うことも、きっとできない。
けれど、せめてリリアが背負わなくてよい痛みなら、自分が引き受ける。
リリアは、人を救うために光を使えばいい。
ならば、自分は、その光が届かぬ場所で牙を振るう。
蒼月は、そう決めていました。
彼女が泣かずに済むのなら。
彼女が自分の光を恐れずにいられるのなら。
そのために必要なものを背負うのは、自分でいい。
交易都市ヴェルミナからの急報は、王国騎士団総司令官ローガンのもとへ届けられました。
報告を受けたローガン総司令官は、ただちに国王アレクシスへ奏上し、王宮政務棟では緊急会議が開かれました。
会議には、国王アレクシス、宰相ハインリヒ、星術院長官アステル、王国騎士団総司令官ローガン、軍務顧問ヴィクトル、法務局長、内務局長、王宮警備責任者が顔をそろえていました。
報告書には、交易都市の川辺で極めて濃い瘴気が確認されたこと、接近した兵士三名が倒れ、その後、魔物化または魔物化の兆候を示したことが記されていました。
さらに、王都から同行していたユリウスの結界でも中心部への接近は困難であり、星術院長官アステルの判断を仰ぎたい、と結ばれていました。
報告を読み終えた国王は、しばらく黙っていました。
やがて、低く息を吐きます。
「人が、魔物へ変じたか」
その声には、怒りとも不安ともつかぬ重さがありました。
傍らに控えていたアステルも、報告書へ目を落としたまま表情を険しくしていました。
「通常の瘴気ではありません」
アステルは静かに言いました。
「ユリウスの結界で中心部へ進めないとなれば、相当な濃度です。しかも、人を魔物化させるほどの瘴気となると、放置はできません」
「リリアは」
王の問いに、アステルは一瞬だけ視線を上げました。
「報告では、リリア殿は周辺の浄化を行っているとのことです。ただし、中心部には近づけておりません」
「当然だ。近づけさせるな」
国王の声が鋭くなりました。
「リリアを失うわけにはいかぬ」
アステルは静かに頷きました。
「私が直接行きましょう」
王はアステルを見ました。
「そなたが行くか」
「はい。報告だけでは判断できません。瘴気の発生源が何なのか、現地で確認する必要があります。ユリウスで進めぬ場所なら、王都から指示を出すだけでは危険です」
国王はしばらく考えました。
けれど、答えはすぐに出ました。
「よい。急げ」
「承知いたしました」
「護衛をつける。必要な封印具も持っていけ。何であれ、得体の知れぬものを見つけたなら、無理に破壊しようとするな。封じられるなら封じ、王都へ持ち帰れ」
「心得ております」
アステルは深く頭を下げました。
その日のうちに、王都では出立の準備が整えられました。
馬車には軍馬がつけられました。
それでも、道のりそのものが縮まるわけではありません。
どれほど急いでも、交易都市までは五日を要します。
アステルは王都の門を出る前に、一度だけ王宮を振り返りました。
それから、すぐに馬車へ乗り込みました。
馬車は、交易都市へ向けて走り出しました。
川辺の異常が見つかってから、十日目の朝。
王都からの馬車が、交易都市へ入りました。
知らせを受けたガレスが、すぐに出迎えに向かいます。
馬車の扉が開き、中から降りてきたのは、星術院長官アステルでした。
長旅の疲れは見えましたが、その目は鋭く澄んでいました。
「ガレス。状況を」
挨拶もそこそこに、アステルはそう告げました。
ガレスは頷き、すぐに案内を始めました。
案内された部屋には、リリア、ルーク、ユリウスがすでに待っていました。
リリアはアステルの姿を見た瞬間、わずかに表情を緩めました。
張り詰めていたものが、ほんの少しだけ解けたようでした。
「アステル様……」
その声は小さく、かすれていました。
アステルはリリアの顔色を見て、わずかに眉を寄せました。
「リリア殿。無理をなさいましたね」
リリアは何か答えようとしましたが、すぐには言葉になりませんでした。
アステルはそれ以上は追及せず、まずは席につきました。
「詳しい状況を聞かせてください。報告には、兵が魔物化したとありました」
ガレスが口を開きました。
「はい。川辺の下流側で強い瘴気を確認したとの報せを受け、我々が現場へ向かいました。すでに兵が三名倒れており、その後、相次いで魔物化、または魔物化の兆候を示しました」
「倒れてから、どの程度の時間が経っていましたか」
「正確には不明です。ただ、長時間ではありません。発見から我々が到着するまでの間です」
アステルは視線をユリウスへ向けました。
「ユリウス。瘴気の状態は」
ユリウスは緊張した面持ちで頷きました。
「通常の瘴気とは濃度が違いました。周辺を一時的に守る結界は張れましたが、中心部へ進むには保ちません。結界の表面を削られるような感覚がありました」
「中心部は見えたか」
「いいえ。黒い靄が濃すぎて、目視はできませんでした。ただ、リリア殿が、奥から瘴気が流れてきているとおっしゃいました」
アステルの視線がリリアへ移りました。
「リリア殿。あなたには、奥に何かがあると感じたのですね」
リリアは小さく頷きました。
「はい。見えたわけではありません。でも、瘴気が奥から流れてきているのは分かりました。そこに、何かがあるように感じます」
アステルはしばらく黙っていました。
やがて、静かに息を吐きます。
「分かりました。明日、まずは私が確認します」
その言葉に、部屋の空気がわずかに張り詰めました。
「明日、ですか」
ガレスが確認するように問うと、アステルは静かに頷きました。
「ええ。長旅の直後に無理をして、判断を誤るわけにはいきません。それに、封印具の準備と、現地へ向かう者の選定も必要です。川辺の状況を聞く限り、軽率に踏み込んでよい場所ではありません」
「承知しました。では、明朝、護衛を選びます」
「お願いします。ユリウス、あなたも同行してください。現地の結界の状態を、私自身の目で確認します」
「はい」
ユリウスが緊張した面持ちで答えました。
ルークは黙ってリリアの様子を見ていました。
リリアは席に座ったまま、杖を握る手に力を込めています。
顔色は青白く、唇は小さく震えていました。
それでも彼女は、誰かに心配をかけまいとするように、懸命に背筋を伸ばしていました。
「リリア殿」
アステルが名を呼ぶと、リリアははっとしたように顔を上げました。
「はい」
「あなたは明日、私が呼ぶまで川辺の奥へ近づいてはなりません」
その言葉に、リリアの瞳が揺れました。
「でも、私にも、できることがあるかもしれません」
「あるでしょう」
アステルは否定しませんでした。
けれど、その声には、傷ついた者を無理に立たせまいとする慎重さがありました。
「ですが、今のあなたに、最初から現場へ立たせることはできません。あなたはあの夜の襲撃から、まだ十分に休めていない。川辺で起きたことも、軽いものではなかったはずです」
リリアは何か言おうとしました。
けれど、言葉は喉の奥で止まりました。
思い出した瞬間、胸の奥がぎゅっと掴まれたように苦しくなりました。
「私は……」
声が震えました。
「私は、あの人を……」
そこまで言って、リリアは唇を噛みました。
翡翠の瞳に涙が盛り上がり、次の瞬間、ぽろりとこぼれ落ちました。
「助けたかったんです」
小さな声でした。
「倒れていたから、助けなきゃって思って……でも、私が浄化したら、黒い靄になって、消えてしまって……私は、あの人を助けたんですか。それとも……」
言葉は最後まで続きませんでした。
リリアは両手で杖を握りしめたまま、肩を震わせました。
「泣いては、いけないのに……」
小さくこぼれた声に、ルークが一歩近づこうとしました。
けれど、アステルが目で制しました。
今は、慌てて言葉を重ねる時ではないと判断したのです。
蒼月が静かにリリアの足元へ寄りました。
リリアは震える手を伸ばし、その柔らかな毛並みに触れました。
アステルはゆっくりと席を立ち、リリアの前に膝をつきました。
星術院長官としてではなく、傷ついた彼女に向き合う一人の大人として、その目線を合わせました。
「リリア殿」
リリアは涙に濡れた顔を上げました。
「今、無理に答えを出さなくてよいのです」
「でも……」
「あなたが見たものは、あまりに重い。あれを見て平気でいられる者がいるなら、その方が危うい。あなたが泣くのは当然です。怖いと思うのも、苦しいと思うのも、間違っていません」
リリアの涙がまたこぼれました。
「私は、浄化が人を助ける力だと思っていました。けれど、あの時は……消してしまったのです」
アステルはすぐには答えませんでした。
軽々しく慰めれば、リリアの痛みをなかったことにしてしまいます。
だからこそ、言葉を選びました。
「浄化は、ただ傷を癒やす力ではありません。瘴気に侵されたものを、瘴気から切り離す力です。時には、それが救いに見えないこともあるでしょう」
リリアは小さく息を呑みました。
「では、私は……」
「今日は、そこまででよいのです」
アステルは穏やかに遮りました。
「あなたが何をしたのか。あの兵士がどうなっていたのか。それは、私が明日、現地を確認した上で話します。今のあなたに、恐怖の中で答えを背負わせるべきではありません」
「でも、私がやったことです」
「だからこそ、一人で抱えてはいけません」
その声は静かでしたが、確かな重みがありました。
「力を持つ者は、自分のしたことから逃げてはなりません。ですが、何もかもを一人で背負う必要もありません。あなたは王国に守られるべき人であり、同時に、王国が共に考えるべき力を持つ人です。あなた一人に、すべての答えを出させるつもりはありません」
リリアは声を殺して泣きました。
アステルはそれ以上、難しいことを言いませんでした。
ただ、清潔な布を差し出し、リリアがそれを受け取るまで静かに待ちました。
ルークは部屋の隅で唇を引き結んでいました。
かける言葉はいくらでも浮かびました。
けれど、どれも今のリリアの痛みには届かないように思えました。
ガレスもまた、黙って視線を伏せていました。
戦場で命を奪うことを知っている騎士だからこそ、リリアの涙を軽く扱うことはできませんでした。
しばらくして、リリアの呼吸が少しずつ落ち着いてきました。
アステルは静かに言いました。
「今夜は休んでください。明日のことは、明日考えましょう」
「……眠れるか、分かりません」
「眠れなくとも、横になるだけで構いません。蒼月もそばにいるのでしょう」
その言葉に、蒼月がリリアの手へ頬を寄せました。
リリアは涙で濡れた目を細め、かすかに頷きました。
「はい」
「ならば、今夜はそれで十分です」
アステルは立ち上がり、ルークへ視線を向けました。
「ルーク。リリア殿を部屋まで」
「はい」
「アステル様」
「はい」
「明日……私にできることがあるなら、言ってください」
アステルは静かに頷きました。
けれど、リリアが立ち上がろうとした瞬間、その身体がふらりと傾きました。
「リリア殿」
ルークが駆け寄るより早く、アステルがそっと彼女を支えました。
リリアの瞼はすでに重く落ちかけています。
ほんの一瞬、彼女は何かを言おうとしましたが、声になる前に力が抜けました。
蒼月がはっと身を起こしました。
低い唸り声が部屋に響き、その蒼い瞳がアステルを鋭く見据えます。
「蒼月、すみません」
アステルはリリアを支えたまま、落ち着いた声で言いました。
「リリア殿に、眠りを助ける魔法をかけました。危険なものではありません。今の彼女には、考え続けることよりも、まず眠ることが必要です。このまま朝まで目覚めることはないでしょう」
蒼月は、まだ喉の奥に低い唸りを残していましたが、リリアの呼吸が穏やかなことを確かめると、やがて警戒を解いたように静かに近づきました。
アステルはルークへ視線を向けました。
「部屋まで運びましょう。蒼月も一緒に」
「はい」
ルークは慎重にリリアを受け取り、蒼月はそのすぐ横につきました。
眠るリリアの手が銀の毛並みに触れると、蒼月はそっと身を寄せました。
まるで、眠りの中でも彼女が不安にならぬよう守っているかのようでした。
翌朝、リリアは久しぶりに深い眠りから目を覚ましました。
窓の外には、薄く曇った朝の光が差していました。
身体はまだ重く感じられましたが、胸の奥に張りついていた鋭い痛みは、少しだけ遠のいていました。
ただ、記憶が曖昧でした。
アステル様と話していた。
泣いてしまったことは覚えている。
けれど、その後、自分がどうやって部屋へ戻ったのかが思い出せません。
倒れてしまったのだろうか。
そう思って身を起こすと、寝台のそばに伏せていた蒼月が顔を上げました。
「……おはよう、蒼月」
リリアが小さく声をかけると、蒼月はそっと鼻先を寄せました。
川辺へ向かう道には、まだ人影がほとんどありませんでした。
封鎖された一帯には騎士たちが配置され、住民が不用意に近づかぬよう厳重に見張っています。
夜のうちに準備された封印具、結界用の触媒、記録用の道具が、慎重に運び込まれていました。
リリアの顔色はまだ良いとは言えませんでしたが、昨夜よりは落ち着いていました。
蒼月はその前に立ち、黒い靄の漂う川辺をじっと見据えていました。
アステルはリリアへ歩み寄りました。
「リリア殿。あなたはここで待機を。私が確認し、必要だと判断した時だけ力を借ります」
リリアは小さく頷きました。
「分かりました」
アステルはそれ以上、何も言いませんでした。
昨夜泣いたことにも触れません。
ただ、昨日と同じように一人の術者として、そして守るべき者として、彼女の状態を確かめました。
「では、始めます」
アステルが杖を掲げました。
足元に淡い光が広がり、幾何学模様の陣が石畳の上に描かれていきます。
星を結ぶような細い線が幾重にも重なり、川辺に漂う黒い靄の流れを少しずつ浮かび上がらせました。
瘴気は、ただ滞っているのではありませんでした。
川辺の奥から、一定の流れを持って押し出されるように広がっていました。
「やはり、発生源があります」
アステルの声に、ガレスが剣へ手をかけました。
「奥にあるのですか」
「ええ。自然に溜まった瘴気ではありません。何かが瘴気を吐き出し続けています」
その言葉に、周囲の騎士たちの表情が引き締まりました。
ユリウスも杖を構え、外側の結界を保ちます。
黒い靄は結界の表面にまとわりつき、じりじりと光を削るように揺れていましたが、アステルの術式が加わったことで、結界はかろうじて形を保っていました。
リリアは少し離れた場所で、その様子を見守っていました。
胸の奥がざわつき、杖を握る指先に自然と力がこもりました。
その時、蒼月が低く唸りました。
「蒼月……大丈夫。私はここにいるから」
リリアが小さく声をかけると、蒼月は一瞬だけ彼女を振り返りました。
けれど、すぐにまた黒い靄へ視線を戻します。
アステルは慎重に一歩踏み出しました。
彼の前方に小さな光の陣が浮かび、黒い靄を押し分けます。
奥へ進むにつれ、石畳はより黒く染まり、枯れた草は触れずとも崩れ落ちるほど脆くなっていました。
川面には薄い黒の膜が張り、流れる水さえ淀んで見えます。
「ユリウス。外側の結界を維持してください。押し返すのではなく、周囲へ散らさぬように」
「承知しました」
ユリウスが杖を握り直しました。
結界の光がわずかに形を変え、黒い靄を押し潰すのではなく、包み込むように広がります。
アステルはさらに奥へ術式を伸ばしました。
星図のような光が川辺の地面を走り、黒い靄の中心へ向かって収束していきます。
やがて、靄の向こうに何かが見えました。
石畳の隙間に、半ば埋もれるようにして黒いものがあります。
拳ほどの大きさの結晶でした。
光を反射しない黒。
けれど、ただの石ではありません。
表面には赤黒い筋が細く走り、とく、とく、と脈打つように鈍く明滅していました。
そこから、瘴気が漏れていました。
細い煙のように、絶えず、途切れることなく。
「……黒い結晶?」
ガレスが低く呟きました。
アステルはすぐには答えませんでした。
杖をわずかに下げ、結晶の周囲にさらに細かな陣を描きます。
光の線が黒い結晶を囲んだ瞬間、結晶の表面から黒い靄が勢いよく噴き上がりました。
「下がれ!」
ガレスの声が飛びました。
騎士たちが一斉に後退し、ユリウスが結界を厚くしました。
黒い靄が結界にぶつかり、鈍い振動のようなものが周囲に伝わります。
リリアは思わず杖を抱きしめました。
黒い靄となって消えた兵士の姿が、また脳裏をよぎります。
「アステル様!」
ユリウスが叫びました。
「これ以上近づくのは危険です!」
「分かっています」
アステルは冷静に答えましたが、その表情は険しいものでした。
結晶を囲む陣を慎重に保ちながら、黒い瘴気の流れを見極めます。
「これは、瘴気を溜め込んでいるだけではありません。周囲へ吐き出し続けています。このまま箱に収めれば、封印具の内側で暴れて破れる危険がある」
「では、破壊しますか」
ガレスが問いました。
「いいえ。ここで破壊してはなりません。砕いた瞬間、中に溜まった瘴気が一気に広がる可能性があります。そうなれば、川辺だけでは済まない」
その言葉に、場の空気がさらに重くなりました。
アステルは結晶を囲む陣を保ったまま、一度、リリアが待機している場所まで戻りました。
黒い靄が追うように揺れましたが、ユリウスの結界とアステルの術式に阻まれ、それ以上は広がりませんでした。
アステルはリリアの前に立ち、静かに告げました。
「リリア殿。奥に、瘴気を吐き出し続けている黒い結晶のようなものがあります」
リリアは杖を握る手に力を込めました。
「黒い結晶……」
「ええ。破壊すれば、中に溜まった瘴気が一気に広がるおそれがあります。ですが、このまま封印するには、瘴気の流れが強すぎる」
アステルの声は落ち着いていました。
けれど、その言葉の重さは、リリアにも分かりました。
「リリア殿、その黒い結晶を浄化していただけますか」
蒼月が、リリアのすぐそばで低く唸りました。
アステルは蒼月へ視線を向けます。
「蒼月。決してリリア殿に危険が及ばぬよう、私がリリア殿を守ります。あなたは、リリア殿のそばを離れずにいてください」
蒼月はしばらくアステルを見据えていました。
リリアはその毛並みにそっと触れ、小さく息を吸いました。
「蒼月、私は大丈夫だよ」
「……行きます」
アステルはガレスたちへ振り返りました。
「ここから先は、私とリリア殿、蒼月だけで進みます」
アステルはリリアの前に立ち、黒い靄の奥へ足を踏み出しました。
その後ろを、リリアと蒼月が続きました。
一歩進むごとに、空気は冷たく重くなっていきました。
石畳に残る黒ずみが、靴底の下で湿った影のように広がっています。
アステルの陣が足元に細い光を描き、リリアの周囲を包むように道を作りました。
蒼月はリリアの半歩前を歩き、黒い靄が揺れるたびに静かに身を低くしました。
やがて、黒い靄の奥に、拳ほどの結晶が見えてきました。
先ほどアステルが確認したものと同じ、光を返さない黒い結晶。
赤黒い筋が脈打つように明滅し、そこから瘴気が漏れ続けています。
リリアの指先が震えました。
アステルは結晶とリリアの間に陣を重ね、幾重もの光の輪で黒い結晶を囲みました。
「この陣の中心に、浄化の力を流してください。私の術式に預けるように。少しずつで構いません」
リリアは杖を両手で握り、目を閉じました。
淡い光が、彼女の杖の先に集まり始めます。
いつもの癒やしの光よりも静かで、けれど澄んだ光でした。
アステルが展開した陣の線が、その光を受け止めました。
リリアの力は、アステルの陣を通じて細く整えられ、幾重もの光の輪となって結晶を包みました。
黒い結晶が震えました。
赤黒い筋が激しく脈打ち、そこから黒い靄が噴き出そうとします。
淡い光は、確かに瘴気に届いていました。
触れた場所から黒い靄が薄れ、重く淀んでいた空気がわずかに揺らぎます。
けれど、結晶の奥に溜まったものは深く、重く、リリアの浄化だけで払いきれるものではありませんでした。
アステルの表情がわずかに険しくなりました。
「……すべてを払うのは、今は無理なようです」
リリアの手が、杖を握りしめました。
アステルは陣の流れを変えながら、すぐに続けました。
「方針を変えます。封印できるところまで、瘴気の勢いを落とします」
「勢いを……」
「はい。あなたは今のまま、私の陣へ力を流してください。私が封印します」
リリアは小さく頷きました。
杖の先に集まる光が、少しだけ穏やかに広がります。
黒い靄を押し潰すのではなく、荒れた流れを鎮めるように、淡い光が結晶の周囲を包みました。
やがて、結晶から噴き出していた瘴気の勢いが弱まりました。
黒い靄はまだ漏れています。
けれど、先ほどまでのように周囲を侵すほどの勢いはありません。
赤黒く脈打っていた筋も、ゆっくりと鈍くなっていきました。
アステルは、携えていた銀色の封印箱を足元へ置きました。
箱には細かな封印の術式が刻まれ、蓋の内側には何重もの札が貼られています。
アステルは直接触れないよう、杖で陣を操作しました。
光の輪が黒い結晶を包み、石畳からゆっくりと浮かび上がらせます。
その瞬間、結晶が最後に抵抗するように黒い靄を吐き出しました。
蒼月が低く唸り、リリアの前へ出ました。
アステルの陣が、噴き上がった靄をすぐに絡め取ります。
「リリア殿、もう少しだけ」
「はい……!」
リリアは杖を握り直し、残る力を静かに流しました。
淡い光が黒い靄を包み、瘴気の勢いをさらに弱めます。
その隙に、アステルは黒い結晶を封印の箱の中へ収めました。
蓋が閉じられました。
アステルがその上から封印符を重ね、杖の先で術式を刻むように光を走らせました。
箱全体が一度淡く輝き、次いで、低く震えるような音を立てました。
周囲の誰もが息を詰めます。
アステルは慎重に箱へ手をかざし、封印の状態を確認しました。
それから、リリアと蒼月を連れ、ガレスたちが待機している場所まで戻りました。
「完全な浄化はできませんでした。ですが、封印は保っています。瘴気の流出も止まりました」
その言葉に、張り詰めていた空気がわずかに緩みました。
ガレスが深く息を吐きました。
「これで、発生源は抑えたと見てよいのですか」
「一時的には。ですが、これは応急の封印です。王都へ持ち帰り、正式な封印室で調べる必要があります」
「護送は厳重に行います」
「お願いします。箱を開けること、強い衝撃を与えること、結界の外へ放置することは禁じます。王都に着くまでは、私が封印の状態を確認し続けます」
ガレスは短く頷き、騎士たちへ指示を出しました。
封印箱はアステルの確認を受けたうえで専用の布に包まれ、さらに小さな結界具を重ねて保護されました。
リリアはその場に立ったまま、静かに息をついていました。
黒い結晶は封じられました。
けれど、川辺に残る重い気配までは、まだ完全には消えていませんでした。
アステルは周囲を見渡し、リリアへ声をかけました。
「リリア殿。もう少しだけ、力を使えますか」
「……はい」
「町に残った瘴気を、このままにはしておけません。今度は私が陣で補助します。あなた一人で背負う必要はありません」
その言葉に、リリアは小さく頷きました。
黒い結晶が封じられたことで、川辺の瘴気は明らかに薄くなっていました。
けれど、石畳に染み込んだ淀みも、川面に残る黒い膜も、周辺の建物や路地に漂う重い空気も、まだ消えてはいません。
このまま放置すれば、弱い者や怪我人に悪影響を及ぼすおそれがありました。
アステルは川辺の中央に立ち、杖を掲げました。
「ここからは、リリア殿の浄化を町へ広げます。力は私の陣に通してください。範囲はこちらで制御します」
「範囲を……?」
「はい。あなたの力は強い。ですが、広範囲へ均等に広げるには負担が大きい。私が陣を作り、力の流れを整えます。あなたは中心に光を注ぐだけで構いません」
リリアは空を見上げました。
薄曇りの空の下、町はまだ不安げに沈んでいます。
遠くでは、住民たちが封鎖線の向こうからこちらを見守っていました。
自分にできることがあるのなら、やはり放ってはおけませんでした。
「分かりました」
リリアは杖を掲げました。
アステルはリリアの足元に、大きな魔法陣を幾重にも描きました。
川辺の石畳から光が広がり、路地へ、広場へ、建物の影へと細い線が伸びていきます。
騎士たちは住民が近づかぬよう距離を保ち、静かにその光景を見守っていました。
リリアは目を閉じ、杖へ力を集めました。
淡い光が杖の先からあふれ、アステルの陣へ流れ込みます。
アステルの術式がその力を受け止め、細く、広く、均等に町へ送り出していきました。
光が川辺に降りました。
「そのままです。強めすぎず、息をするように」
アステルの声が届きました。
リリアは呼吸を整え、杖を握る手に意識を戻しました。
やがて、川辺を覆っていた黒い靄はほとんど見えなくなりました。
町に残っていた瘴気も、淡い光に押し流されるように薄れていきます。
水面に朝の光が戻りました。
アステルは陣の流れを確認し、静かに杖を下ろしました。
「十分です。リリア殿、止めてください」
リリアはゆっくりと杖を下ろしました。
足元が少しふらつきましたが、倒れるほどではありませんでした。
すぐにルークが近づき、そっと支えます。
「リリア殿」
「大丈夫です。少し、疲れただけです」
アステルは川辺を見渡し、封鎖線の外側に控えるガレスたちへ視線を向けました。
「これで、住民への影響は大きく減るでしょう。念のため、数日は見張りと確認を続けてください」
「承知しました」
ガレスが答えました。
アステルは封印箱へ目を落とし、静かに続けました。
「ただし、我々は一度、王都へ戻ります」
その言葉に、リリアが顔を上げました。
「王都へ……?」
「ええ。黒い結晶はこの場で調べられるものではありません。封印を安定させる設備も、詳しく解析するための記録も王都にあります。陛下にも、直接報告しなければなりません」
ルークが静かに頷きました。
「リリア殿も、戻られた方がよろしいでしょう。ここでこれ以上無理を続けるべきではありません」
リリアは一度、黒い結晶を封じた箱へ視線を向けました。
胸の奥には、まだ重いものが残っています。
それから、静かにアステルを見上げました。
「……分かりました。王都へ戻ります」
リリアは小さく頷きました。
蒼月が静かに寄り添います。
ガレスは騎士たちへ指示を出しました。
交易都市には一部の騎士を残し、封鎖区域の確認と住民の安全確保を続けさせます。
黒い結晶を封じた箱は、アステルの管理のもとで厳重に護送されることになりました。
翌日、王都へ戻る準備が急ぎ進められました。
町の人々は、リリアが王都へ戻ると聞き、次々に感謝を伝えに来ました。
リリアは一人ひとりに微笑んで応えましたが、その笑みには疲れが滲んでいました。
それでも、人々の表情が昨夜までより少し明るくなっていることに気づくと、胸の奥に小さな安堵が灯りました。
出立の直前、隣国ヴァルメリア王国側の領主が、数名の従者を伴って一行のもとへ訪れました。
その表情には、疲労と安堵が混じっていましたが、アステルの前に立つと、深く頭を下げました。
「アステル長官殿。このたびは、我が領内の危機に対し、迅速なお力添えを賜り、心より感謝いたします。あの黒い結晶を封じていただけなければ、被害は川辺だけでは済まなかったでしょう」
アステルは静かに首を振りました。
「完全に解決したわけではありません。封鎖区域の確認は、引き続き慎重に行ってください」
「承知しております。残る確認と住民の保護は、こちらで責任をもって続けます」
そう答えた領主は、今度はリリアへ向き直りました。
リリアは少し戸惑いながらも、姿勢を正しました。
「リリア殿。あなたが町に残った瘴気を祓ってくださったおかげで、多くの者が救われました。兵や民に代わり、深く礼を申し上げます」
「私は……できることをしただけです」
リリアは小さく答えました。
領主は、もう一度深く頭を下げました。
「そのできることに、我々は救われたのです。この恩は、決して忘れません」
リリアは言葉に詰まりました。
けれど、町の人々の方へ目を向けると、そっと頷きました。
「皆さんが、少しでも安心して暮らせるようになるなら……それで、よかったです」
馬車へ向かう途中、リリアは一度だけ川辺の方を振り返りました。
遠くから見える川面は、朝よりも穏やかに光を返しています。
けれど、リリアの心に残ったものまでは、まだ消えていません。
王都へ戻れば、きっとアステルが話してくれる。
あの兵士に何が起きていたのか。
自分の浄化が何をしたのか。
今はまだ、答えを出すことができません。
それでも、逃げずに聞かなければならない。
蒼月が、そっとリリアの手に鼻先を寄せました。
リリアはその温もりに触れ、小さく息を吸い、馬車へ乗り込みました。
封印された黒い結晶を乗せた一行は、交易都市を後にし、王都へ向けて出発しました。




