第四十七話 嗤う影
翌朝。
まだ日が昇りきらぬ時刻、東街道の封鎖線に重い音が響き始めました。
ドン、ドン、ドン。
それは太鼓の音ではありませんでした。
黒く濁った瘴気の向こうで、魔物の軍勢すべてが同じ間隔で己の胸や腕を打ち鳴らしている。
ドン、ドン、ドン。
地面の底から迫るような音が、夜明け前の冷たい空気を震わせます。
前衛に立つ兵たちは、盾を握る手に力を込めます。
誰かが息を呑み、槍の穂先がかすかに揺れました。
休息を取っていた兵たちも天幕を出て、その音のする方をじっと見ていました。
総司令官の命を受けた部隊長たちが、短く声を飛ばします。
「各自、持ち場を離れるな。構えよ」
天幕を出ていた兵たちが、持ち場へ戻っていきます。
盾兵が前列に並び、槍兵がその後ろにつきます。
左右に控えていた部隊も、街道を塞ぐ位置へ動きました。
やがて、東街道の封鎖線に、サハルディア王国軍の隊列が整う。
総司令官が、兵たちの前へ出ました。
その視線が、前列から後列へゆっくりと向けられます。
「恐れるな。ここを抜かれれば、背後にあるのは王都だ」
兵たちは、総司令官の声を聞きながら正面を見据えました。
「我らが退けば、守るべき者たちのもとへ魔物が向かう。ゆえに、ここで止める」
盾を握る手に、さらに力がこもります。
「前へ出る。列を乱すな。命じられた位置を守れ」
総司令官が、東街道の先へ視線を戻しました。
「本隊、前へ」
盾兵が一歩前へ出ました。
槍兵が続き、本隊は列を保ったまま封鎖線の前へ進みます。
リリアたちも、その動きに合わせて前へ出ました。
蒼月はリリアの隣を進み、蒼い瞳を瘴気の向こうへ向けていました。
ガレスはリリアのそばにつき、前方から目を離しません。
アステルは杖を手に、瘴気の境界を見据えていました。
なおも、魔物の挑発は続いていました。
今にも魔物が飛び出してきそうです。
本隊が、浄化の力が届く位置で止まりました。
アステルが杖を地面へ立てます。
魔物たちの頭上高くに、白い光の大きな陣が描かれていきました。
リリアも杖を立て、アステルの陣に合わせて、淡い翡翠色の線を重ねていきます。
光の線は幾重にも重なり、もう一つの陣の形を取りました。
アステルは、リリアへ視線を向けました。
「リリア殿、お願いします」
リリアは杖を両手で握りました。
「はい」
リリアが息を吸います。
次の瞬間、翡翠色の光の陣が白い陣に重なり、そのまま魔物たちの上へ降りていきました。
陣に触れた魔物が、頭から崩れ落ちていきます。
黒く濁っていた瘴気が、その場から消える。
それを見ていた兵たちの間から、声が上がります。
「おおおおおっ!」
陣の外側にいた魔物たちが、こちらへ向かって飛び出してきました。
盾兵が前へ出て、その勢いを受け止めます。
槍兵は盾の後ろから穂先をそろえ、迫る魔物へ向けました。
アステルは陣を保ったまま、リリアへ視線を向けます。
リリアは杖を握り直し、再び瘴気の向こうを見据えました。
乱戦が続いていた頃、瘴気の奥で、男が白と翡翠の光を見ていました。
「なんだ……浄化」
男は、光から目を離しません。
「あいつが生きているのか……いや、そんなことはない。あいつはとうの昔に死んでいる」
瘴気の向こうで、なお魔物たちが動いていました。
「浄化といっても、あいつに比べたらたいしたものではない」
男は、近くにいた魔物へ命じました。
「おまえ、少し調べてこい」
魔物が、低く喉を鳴らしました。
「触れれば、死ぬ」
「そんなことはどうでもいい、見てこい」
命じられた魔物は、瘴気の中を進みました。
前線では、盾兵と槍兵が魔物たちを押し止めています。
魔物はその光景を見届けると、瘴気の奥へ戻りました。
戻ってきた魔物が、男の前に立ちました。
「見たか」
魔物は低く喉を鳴らしました。
「陣を張る男と女がいる。光が落ちる。触れたものは崩れる。その場所の瘴気も消える。その近くに、狼がいた」
――この報告だけでは、どちらが放っているか分からない。狼も気になる。
男は、控えている魔物へ命じました。
「おまえ、百ほど連れて突っ込んでこい」
そうして、百ほどの魔物が瘴気の奥から前へ出ました。
魔物たちは隊列を崩さぬまま、アステルとリリアのいる場所を目がけて突撃を開始します。
リリアの周囲に配置されていた精鋭部隊が、その動きに気づきます。
ガレスもすぐに前へ出ました。
「アステル様とリリア様の前を空けるな!」
精鋭部隊の盾兵が並び、迫る魔物を受け止めます。
盾に魔物の身体がぶつかり、重い音が響きました。
槍兵が盾の隙間から穂先を突き出します。
魔物の勢いが増し、盾の列が押し込まれ、兵の足が土を削る。
前衛の一人が魔物の腕を受け、膝をつきます。
誰かの叫び声が上がりました。
「さがれっ」
それよりも早く、魔物の一体が倒れた兵の足首をつかんだ。
兵の身体が、地面を引きずられます。
部隊長の声が飛ぶ。
「助けろ!!」
兵が前へ出ようとした瞬間、魔物は倒れた兵を持ち上げ、その身体を瘴気の中へ勢いよく投げ込みます。
「うわわわぁぁぁぁ」
兵の姿は、叫び声と共に黒く濁った瘴気の奥へ消えた。
蒼月がその穴を埋めた。
迫る魔物を捉え、先頭の一体へ飛びかかる。
大きな爪が魔物を裂き、牙が次の魔物を地面へ叩き伏せます。
さらに踏み込んできた魔物が、蒼月の一撃で横へ吹き飛ぶ。
その間に、盾の列が持ち直します。
ガレスが剣を構え、前へ出ました。
「押し返せ!」
精鋭部隊が声に応じ、盾を構え直しました。
同じような光景が、前線のあちらこちらで起きていました。
サハルディア王国軍は、じわじわと削られていきます。
瘴気の奥で、男の視線が一点に留まりました。
「なんだ、あの狼は……」
男は、小さく首を振りました。
「考えても仕方ない」
男は、控えている魔物たちへ命じました。
「いったん引くぞ」
魔物たちは前線を保ったまま、瘴気の中へ引いていきました。
「助けてくれ!!!」
その声が、戦場のあちらこちらから上がります。
何人かの兵が、生きたまま引きずられていく。
瘴気の中まで追うことはできず、兵たちは唇を噛みしめました。
魔物たちは、倒れた者を連れ去りながらも隊列を崩さない。
男は、瘴気の奥でその様子を見ていました。
「消耗戦をしかける」
連れ去られた兵の声が、瘴気の奥で遠ざかっていきます。
「こちらは疲れ知らずだ。倒れた者も、侵されればこちら側に増える」
男は前線の方を見て、嗤いました。
「あの浄化が、いつまでもつか見てやろう」
リリアが浄化を行い、アステルが陣を保つ。
サハルディア王国軍が、押し出された魔物を討つ。
倒れた者は、救護班が後方へ運ぶ。
同じことが、何度も繰り返されました。
一日。
三日。
十日。
東街道を覆っていた瘴気は、少しずつ後ろへ下がっていきました。
しかし、魔物たちはそのたびに隊列を組み直し、兵たちの疲労が濃くなる夜明けや日暮れを狙って押し寄せてきます。
昼も、夜も、完全な休息はありませんでした。
盾兵の腕には無数の傷が刻まれ、槍兵の足取りは泥のように重くなっていきます。
リリアもまた、杖を握る手が擦り切れ、青白い顔に疲労を滲ませていました。
それでも決して倒れることなく、浄化の光を紡ぎ続けます。
蒼月はその隣に立ち、血と瘴気の匂いが混じる風の中で、常に敵の奥を見据え続けていました。
一か月が過ぎる頃、サハルディア王国軍は、東街道の奥にある一つの街の門までたどり着きました。
門は閉ざされている。
その向こうには、まだ濃い瘴気が残っています。
リリアは、閉ざされた門の方へ視線を向け、杖を握り直しました。
その時、蒼月は門の向こうを見ました。
――魔物ではない。人でもない何かが奥にいるぞ。
リリアは、門の前に並ぶガレスとアステル、総司令官を振り返りました。
「蒼月が、門の奥に何かがいると言っています。魔物ではない。けれど、人でもない何かだと」
ガレスの表情が引き締まります。
アステルが、杖を握ったまま門の奥へ視線を向ける。
総司令官が、閉ざされた門を見据えた。
「何者だ……」
同じ頃、瘴気の奥で、男が街の門の外にいる軍を見ていました。
「頃合いかな」
男の口元がにやけました。
その時、蒼月の声がリリアの内側に響きました。
――リリア、来るぞ。
リリアは息を呑み、門の奥へ視線を戻しました。




