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銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお


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第十八話 密書

拘束されていた賊二名が、兵舎の小部屋で亡き者にされた。

その知らせを受けた後、ガレスは一人、仮設の指揮所で机に向かっていました。

王都へ送る書状と、直接王へ送る密書をしたためていたのです。


正式な報告書には、事実だけが淡々と記されていました。

交易都市ヴェルミナの領主が、当初リリア殿の重要性を軽視していたこと。

町の治安が悪化していたこと。

混乱に乗じた者たちによる、リリア殿の誘拐未遂。

深夜、リリア殿の滞在する部屋へ四名の賊が押し入り、そのうち二名は蒼月によって制圧され、死亡したこと。

残る二名は護衛の騎士により捕縛されたこと。

リリア殿に身体的な外傷はないものの、強い恐怖と心的な衝撃が見られること。

救護所および宿舎周辺の警備を増強したこと。

兵の増援、治癒魔法士の派遣、薬草や包帯、食料、清浄水などの物資補給を要請すること。

それは軍務上、過不足のない報告でした。


ガレスは一度、筆を置きました。

問題は、もう一通です。

国王アレクシス個人へ宛てた密書に、どこまで記すべきか。

しばらく机上の白い紙を見つめた後、ガレスは再び筆を取りました。


--------------------------------------------------------------------------


グランヴァルド王国国王

アレクシス・フォン・グランヴァルド陛下


恐れながら、交易都市ヴェルミナにおけるリリア殿襲撃未遂の件につき、正式な軍務報告には記し得ぬ事柄を、密かにご報告申し上げます。


表向きの報告では、本件を王命により救護にあたるリリア殿への襲撃未遂としております。

深夜、リリア殿の滞在する部屋へ四名の賊が侵入し、そのうち二名は現場にて死亡いたしました。

この二名については、侵入および襲撃の状況から見て、蒼月がリリア殿を守るために行った正当防衛と判断して差し支えないものと存じます。


問題は、残る二名でございます。

二名は捕縛後、交易都市の兵舎内に拘束しておりました。

本来であれば翌朝にも尋問を行う予定であり、見張りも配置しておりましたが、夜明け前、何者かが兵舎へ侵入し、拘束中の二名は死亡しておりました。


小窓には外側から破られた痕跡があり、室内に大きな争いの跡はございません。

二名はいずれも一撃で仕留められており、その傷は、リリア殿の部屋で先に死亡した者たちの傷と酷似しております。

現時点で実行者を断定する証拠はございませんが、傷の状態、侵入の手際、ならびに事件後の蒼月の警戒を鑑みれば、蒼月によるものと考えるのが最も自然です。


今回の行動に、王国や騎士団への敵意、あるいは無差別な害意は見受けられません。

蒼月は、リリア殿を守るという明確な意思に基づいて動いているものと思われます。

しかし、懸念すべきはまさにその点でございます。


人語を理解する蒼月であっても、人の法、尋問、裁きといった手続きが、その判断を止めるものではありません。

蒼月にとって、リリア殿に害をなす者は、捕縛の有無にかかわらず排除すべき対象である可能性がございます。


ゆえに、今後の保護は、単に騎士の数を増やせば足りるものではないと存じます。

リリア殿の身分、保護の名目、近づく者の制限、そして蒼月との信頼関係を含め、王国として明確な方針を定める必要がございます。


最も避けるべきは、王国の命令や制度そのものが、蒼月の目に「リリア殿を害するもの」と映ることでございます。

その場合、排除の対象は一個人に留まらず、王国そのものへ及ぶ恐れも否定できません。


蒼月を力で抑えることは得策ではございません。

むしろ王国がリリア殿を守る意思を明確に示し、蒼月にとっても王国が敵ではないと認識させ続けることこそ肝要と存じます。


リリア殿の保護は、すでに一人の人間を守る任務に留まりません。

聖女と呼ばれ始めた娘を守ること。

その娘を守る蒼月の信頼を損なわぬこと。

そして、その力を王国へ向けさせぬこと。

この三つを誤れば、王国は守るべき存在を失うのみならず、蒼月をも敵に回すことになりかねません。


以上、正式な軍務報告には記し得ぬ内容として、密かにご報告申し上げます。

陛下におかれましては、リリア殿の今後の扱いにつき、本人の尊厳と意思、ならびに蒼月の信頼を損なわぬ形でご判断くださいますよう、伏してお願い申し上げます。


王国騎士団第三隊隊長

ガレス・フォン・ヴァルド

--------------------------------------------------------------------------


ガレスは筆を置きました。

指先には、わずかな緊張が残っていました。

騎士として、王国に危険があると分かれば報告しなければならない。

けれど同時に、彼は昨夜見た蒼い瞳を思い出していました。

あの瞳にあったのは怒りではなく、憎しみでもありません。

ただ、リリアを傷つけるものを許さないという、研ぎ澄まされた意志でした。

だからこそ恐ろしいのです。

悪意がないから安全なのではありません。

悪意がないからこそ、蒼月は迷わない。


ガレスは二通の書状を、それぞれ別の封に収めました。

一つには軍務報告用の封蝋を。

もう一つには、王へ直接届けるための印を。

そして彼は部下を呼びました。


「こちらは通常の報告便で送れ。もう一通は、王都へ戻る早馬に持たせる。途中で誰にも預けるな。王の御手に直接渡すよう伝えろ」


騎士はただちに姿勢を正しました。


「承知いたしました」


扉が閉まり、足音が遠ざかっていくと、ガレスは窓の外へ目を向けました。

交易都市の朝は、まだ重い灰色の空の下にあります。

ガレスは静かに拳を握りました。

この任務は、ただのリリア殿の初陣では終わらない。

そのことを、彼は誰よりも早く悟っていました。


その日、日が高くなってから、リリアは救護所へ向かいました。

白い法衣の袖を握る指先には、まだ昨夜の震えが残っています。

宿舎の廊下にも、救護所へ続く道にも、これまでより多くの護衛が立っていました。

蒼月はリリアのすぐそばを歩き、誰かが近づくたびに、ほんのわずかに身を寄せます。

その静けさこそが、リリアを守るために張られた銀の結界のようでした。

救護所の入口で、交易都市の領主が待っていました。

以前リリアを見た時の侮るような色は、もうそこにはありませんでした。


「リリア殿。救護所の通路は空けさせてあります。本日は、どうか無理をなさらぬよう」


そこで領主は、わずかに言葉を切りました。


「……昨夜の件も含め、私の認識が甘かったことは否定できません。今は、あなたが救護に専念できるよう、できる限りのことをいたします」


リリアは少し戸惑いながらも、礼を返しました。

王宮で学んだ言葉遣いが、こういう時に人を遠ざけるためではなく、互いの立場を傷つけずに示すためのものなのだと、初めて少し分かった気がしました。


「ありがとうございます。できる範囲で、務めさせていただきます」


救護所の中では、瘴気に侵された兵士や住民の治療が続いていました。

大柄な兵士が痛みに耐えきれず声を上げた時、リリアの身体が一瞬だけ固くなりました。

リリアは小さく息を吸いました。

昨夜のことを思い出すたび、心はまだ暗い部屋の中へ引き戻されそうになります。

それでも、救護所には彼女を待つ人々がいました。

ユリウスが、治療台のそばで記録板を確認していました。

リリアに気づくと、彼は記録板から顔を上げます。


「リリア殿。昨夜の件は聞いております。まず確認しますが、本当に治療に入れますか」


星術院第三主席として、そして現場を預かる者としての確認でした。

リリアは胸元でそっと手を握り、静かにうなずきました。


「……はい。怖くないと言えば嘘になります。でも、ここで待っている人たちがいます」


ユリウスはしばらくリリアを見てから、ゆっくりとうなずきました。


「分かりました。では、あなたを一人にはしません。私の指示した患者だけを診てください」


「はい」


「まずは昨日処置した者たちの経過を確認します。その後、状態の重い者から順に診ましょう」


「……はい、ユリウス様」


リリアは白い法衣の袖を整え、蒼月を見ました。

蒼月は静かに頷くように、わずかに頭を下げます。


「……行きましょう」


声は少し震えていました。

リリアは負傷者のそばに膝をつき、できるだけ穏やかに微笑みました。


「大丈夫です。少し楽になりますからね」


淡い光が彼女の手から広がり、黒く濁った瘴気が少しずつ薄れていきます。

救われた人々は、涙ながらに頭を下げました。


「ありがとうございます、リリア様」


「聖女様、本当に……」


その言葉を聞くたび、リリアは困ったように笑いました。

聖女と呼ばれることには、まだ慣れません。

けれど、その声の中にあるものが欲望だけではないことも、今は分かります。

祈るような感謝。

助かった命を抱きしめるような安堵。

あの夜に知った悪意と同じ世界に、こうした優しさも確かにありました。

三人目の治療を終えたところで、リリアの視界が白く滲みました。

胸の奥が重く、指先が冷えていきます。

白い法衣の銀糸も、光を使うたびにわずかに濁っていました。


「今日はここまでです」


ユリウスの声は、静かでしたが拒ませない強さがありました。


「でも、まだ……」


「あなたが倒れれば、救えるはずの者まで救えなくなります」


ガレスも入口近くから頷きました。

蒼月はリリアの膝元に寄り添い、これ以上先へ行かせないように身体を寄せます。

リリアは少しだけ唇を噛み、それから小さく頷きました。


「……分かりました」


助けたい気持ちだけでは、人は救えない。

自分が倒れないことも、救護の一部なのだと、リリアは少しずつ学んでいました。


その数日後、王都では、ガレスからの正式な報告書が王国軍務局へ届いていました。

報告を受け取ったのは、王国騎士団総司令官ローガン・フォン・アイゼンベルクです。

王国騎士団を束ねる男は、執務机の前で封を切り、報告書へ目を通しました。

読み進めるにつれ、その眉間には深い皺が刻まれていきます。


「……賊による誘拐未遂、か」


低い声が執務室に落ちました。

副官が控えめに尋ねます。


「ローガン様。緊急会議を招集されますか」


ローガンは少しの間、報告書を見つめていました。

やがて静かに頷きます。


「軍務関係者だけでは足りぬ。宰相府、法務局、内務局、王宮警備担当にも招集をかけろ」


「承知いたしました」


その日の午後、王宮政務棟の会議室には、国王アレクシス、宰相ハインリヒ、星術院長官アステル、王国騎士団総司令官ローガン、軍務顧問ヴィクトル、法務局長、内務局長、そして王宮警備責任者が顔をそろえました。

ローガン総司令官は、ガレスから届いた正式報告書を手に取りました。


「交易都市より、騎士団第三隊隊長ガレスから正式報告が届いた」


重臣たちの視線が集まります。

ローガンは表情を変えず、報告書の内容を読み上げました。


「魔物襲撃後の交易都市では、負傷者の治療および瘴気の浄化が継続中。リリア・グランベルは救護所、城門周辺、市場、井戸周辺、焼け跡などに残存する瘴気の浄化に従事。現地の被害は甚大であるが、浄化の進行により、負傷者の容体は改善傾向にある」


そこまでは、ある程度予想されていた内容でした。

問題は、その後です。

ローガン総司令官の声がわずかに低くなりました。


「まず、現地領主の初動対応について記載がある」


その一言に、会議室の空気がわずかに変わりました。

法務局長が眉を寄せます。

内務局長は、手元の筆を止めました。

アステル長官は静かに目を伏せ、ハインリヒ宰相は表情を変えないまま、机の上で指を組みました。

ローガン総司令官は淡々と続けます。


「ガレスの報告によれば、交易都市ヴェルミナの領主は、魔物襲撃後の混乱により統制を欠いていた。救護所およびリリア・グランベルの滞在場所周辺の警備についても、当初は十分な認識を持っていなかった」


法務局長が、低く問いかけました。


「つまり、リリア殿の重要性を理解していなかったということですか」


「そう見てよい」


ローガン総司令官は短く答えました。


「無論、魔物襲撃直後の混乱は考慮すべきだ。現地領主も被害対応に追われていた。しかし結果として、聖女と呼ばれ始めたリリア殿の身柄を狙う賊の侵入を許した」


ローガン総司令官は、さらに報告書を読み進めます。


「リリア・グランベルの滞在場所に、四名の賊が押し入った。目的は金品の奪取、および身柄の確保と見られる。供述によれば、現地においてリリア・グランベルが『聖女』と呼ばれ始めたことを聞きつけ、その身柄に価値があると判断した疑いがある」


ヴィクトル軍務顧問が低く呟きました。


「……人を救う力が、今度は狙われる理由になったか」


ローガン総司令官は表情を変えず、次の項目を読み上げました。


「賊のうち二名は現場で死亡。侵入および襲撃の状況から、蒼月による正当な防衛行動と判断される。残る二名は護衛の騎士により捕縛。リリア・グランベル本人に重篤な負傷はなし。現地警備は即時強化された。ガレスは今後、救護所および滞在場所周辺の警備拡充を求めている」


会議室に重い沈黙が落ちました。

ヴィクトル軍務顧問が低く呟きます。


「現地任せでは、守りきれぬということですな」


「そういうことだ」


ローガン総司令官は、報告書を机に置きました。


「ガレスは、現地領主に悪意があったとは書いていない。だが、認識の甘さは明記している。魔物襲撃直後の混乱を差し引いても、リリア殿の重要性を見誤ったことは否定できん」


ハインリヒ宰相は、静かに指を組みました。


「であれば、王都としても対応を見直す必要がありますな」


その声は穏やかでした。

しかし、会議室にいた者たちは、その言葉の重みを理解していました。

アステル長官が、静かに頷きます。


「リリア殿は、すでに単なる救護要員として扱える存在ではありません。今後、彼女を任務地へ向かわせる場合、現地に任せる部分と、王都側が直接管理すべき部分を明確に分ける必要があります」


法務局長も続けました。


「護衛体制、滞在場所、現地領主への事前通達、指揮系統の明確化。このあたりは整理すべきでしょう」


「ガレスの報告は、そこまで含めての警告だ」


ローガン総司令官は短く言いました。


「今回だけでも、看過できぬ事態だ。だが、次も同じ規模で済むとは限らん。噂が商人や貴族、あるいは他国へ流れれば、もっと組織立った相手が動く可能性がある」


アステル長官が、静かに目を伏せました。


「『聖女』という呼称が、予想より早く広がっています。救う力が、今度は彼女を狙う理由になり始めている」


法務局長が、慎重に口を開きました。


「現行法でも、リリア・グランベルへの襲撃は処罰できます。しかし……」


「しかし、抑止力としては弱い」


ハインリヒ宰相が言葉を引き取りました。

その声は静かでしたが、会議室の誰もが耳を傾けました。


「彼女は現在、王命によって保護され、修練を受けている立場です。だが、身分上は平民の娘であることに変わりはない。無論、それをもって軽んじることは許されません。しかし貴族社会において、身分が持つ意味は大きい」


ローガン総司令官は腕を組みました。


「護衛を増やすだけでは足りん、ということか」


「ええ」


ハインリヒ宰相は頷きました。


「剣で防げる危険には限りがあります。噂、権力、金、欲望。そういったものから守るには、剣とは別の盾が必要です」


「身分と後ろ盾、ですか」


アステル長官が言いました。


「その通りです」


ハインリヒ宰相は、机の上の報告書へ視線を落としました。


「リリア殿を守るためには、彼女に手を出せば王国中枢を敵に回すのだと、誰の目にも分かる形が必要になる」


会議室の空気が、さらに重くなりました。

今回の件は、賊による襲撃未遂だけではありません。

現地の混乱。

隣国領主の認識の甘さ。

そして、リリアの存在が急速に人々の間で特別視され始めていること。

それらはすべて、王都の中枢が無視できない問題となっていました。

この時点では、まだ王国としての正式な方針は示されませんでした。

重臣と官僚たちは、それぞれの立場から意見を持ち帰ることになります。


その同じ日、王宮の奥では、もう一通の書状が国王の手に渡っていました。

ガレスからの密書です。

国王は私室で封を切り、ゆっくりと内容を読み進めました。

そこには、表向きの報告書には記されていない事実と、ガレスが抱いた重大な懸念が、冷静な筆致で綴られていました。

読み終えると、国王はしばらく動きませんでした。

指先で書状の端を押さえたまま、深く息を吐きます。

そこに記されていたのは、単なる襲撃事件の報告ではありませんでした。

聖女と呼ばれ始めたリリアが、すでに人の欲望に狙われているという事実。

そして、彼女を守る銀狼が、王国の法ではなく、リリア自身を基準に動く存在であるという警告でした。


その夜、国王は王妃ヴィクトリアと私室で向かい合っていました。

机の上には、ガレスからの密書が置かれています。

ヴィクトリアはすでに内容を聞いていました。

柔らかな灯りの下、国王はしばらく窓の外を見つめていました。

王宮の夜は静かでしたが、その静けさの奥には、交易都市から届いた薄暗い影が沈んでいるようでした。


「我々は、あの娘を巻き込んだのだな」


低い声でした。

ヴィクトリアは黙って続きを待ちました。


「本来なら、リリアは町で暮らしていたはずだ。母と共に暮らし、薬草を採り、怪我人の手当てをし、蒼月と穏やかな日々を過ごしていた。それを、王国のためだと言って王都へ呼んだ。教育を受けさせ、力を使わせ、今度は交易都市へ送った」


「陛下」


ヴィクトリアの声は静かでした。

国王は苦く笑いました。


「分かっている。必要だった。瘴気と魔物の脅威は、王国だけでなく世界に関わる。あの娘の力が必要だったことに、後悔はない」


そこで一度、言葉を切りました。


「だが、必要だったからといって、あの娘に負わせたものが消えるわけではない」


ヴィクトリアはゆっくりと頷きました。


「リリアさんは優しい子です。きっと、自分から人を助けようとするでしょう」


「そうだな」


「けれど、優しいからといって、傷つかないわけではありません」


その言葉に、国王は目を閉じました。

しばらく沈黙が続きます。


「それと……想定より早かったな」


国王の低い呟きに、ヴィクトリアは静かに視線を上げました。


「リリアさんが狙われること、ですか」


「ああ。いずれはそうなると考えていた。だが、交易都市で聖女と呼ばれ始めて間もなく、これほど露骨な形で現れるとは思わなかった」


国王は机の上の密書へ目を落としました。


「リリアは、ただ人を助けただけだ。だが、周囲はそうは見ない。救われた者にとっては希望となり、欲深い者にとっては金になる存在となる。貴族にとっては、影響力を持つ駒に見えるだろう」


ヴィクトリアの表情が、わずかに曇りました。


「……あの子は、まだ王宮に来て間もない町娘です。力はあっても、そうした視線から自分を守る術を知りません」


国王は椅子の背にもたれ、眉間に深い皺を刻みました。


「問題は、リリアだけではない。蒼月だ」


その名が出た瞬間、部屋の空気が少し重くなりました。

ヴィクトリアは密書に視線を落としました。


「ガレスは、蒼月を危険視しているのですか」


「単純に危険な獣として見ているわけではない。むしろ逆だ。蒼月はリリアを守っている。そこに悪意はない。王国への敵意もない。だが、あれの判断基準は王国の法ではない」


「リリアさんの安全、ですね」


「そうだ」


国王は短く答えました。


「蒼月にとって、リリアに害を及ぼす者は排除すべき対象なのだろう。ならば、もし王国の命令や制度が、リリアを傷つけるものとして蒼月の目に映った場合、どうなる」


ヴィクトリアはすぐには答えませんでした。

沈黙が落ちます。


「王国そのものが、蒼月の敵になる可能性がある」


ヴィクトリアが静かに言いました。

国王は頷きました。


「ガレスも同じ懸念を記している。蒼月を力で抑え込むことは得策ではない。いや、おそらく不可能だ。重要なのは、王国がリリアを守る側であると、蒼月に示し続けることだ」


「そのためには、リリアさんの立場を曖昧なままにしておけませんね」


ヴィクトリアの声は穏やかでしたが、その奥には王妃としての冷静な判断がありました。


「町娘のまま、王宮に保護しているだけでは、いずれ必ず侮る者が出ます。聖女として持ち上げ、利用しようとする者も出るでしょう。あるいは、逆に危険視して排除しようとする者も」


「分かっている」


国王は重く頷きました。


「リリアには後ろ盾が必要だ。王国が正式に守る理由がいる。騎士を増やすだけでは足りぬ。法的にも、身分的にも、誰の目にも明らかな形で、彼女を王国の保護下に置かねばならない」


ヴィクトリアは少しだけ目を伏せました。


「ですが、やり方を誤れば、リリアさんは檻に入れられたと思うでしょう。蒼月も、それを見逃さないはずです」


「だから厄介なのだ」


国王は苦く笑いました。


「守るために囲えば、閉じ込めたと見なされる。自由にさせれば、また狙われる。リリアの意思を尊重しながら、王国の保護を明確にし、なおかつ蒼月の信頼を損なわない形を取らねばならない」


やがて国王は、どこか言いにくそうに口を開きました。


「ヴィクトリア」


「何でしょう」


「実はな……私はリリアを養女に迎えようかと考えているのだが……」


一瞬、室内の空気が止まりました。

王妃は静かに紅茶のカップを置きます。

そして、即座に言いました。


「それはなりません」


あまりにも迷いのない返答でした。

国王は分かりやすく肩を落としました。


「やはりそうか……」


「当然です」


ヴィクトリアはにこやかに、しかし容赦なく続けました。


「陛下がリリアさんを気に入っていらっしゃることは知っています。お茶会の時も、影から見ていらっしゃいましたよね」


国王は視線を逸らしました。


「少しだけだ」


「ずっとです」


「……そうか」


ヴィクトリアは小さく笑いました。


「私もリリアさんは好きですよ。まるで娘ができたようだと思っています。あんなに素直で、一生懸命で、可愛い子ですもの」


国王は思わず頷きました。


「そうだろう」


「ですが、王家の養女にはできません」


ヴィクトリアの声は優しいものでしたが、はっきりとしていました。


「王族の身分、継承、国内貴族との関係、他国との外交。陛下の立場で、それが無理だということは分かっていらっしゃるでしょう」


国王は返す言葉を失いました。

そして、やっぱりだめかと肩を落としました。

ヴィクトリアはその姿を見て、呆れたように、けれど少しだけ楽しそうに微笑みました。


「守りたいお気持ちは分かります。ですが、守るためなら何をしてもよいわけではありません。リリアさん本人の意思もありますし、蒼月の信頼もあります。王家の養女とすることは、あの子を守るどころか、かえって王宮の政治の中心へ置いてしまうことになりかねません」


「……分かっている」


「本当に?」


「分かっている」


国王は少しだけ不満そうに言いましたが、その声には反論の力はありませんでした。

ヴィクトリアは静かに微笑みました。


「まずは、信頼できる重臣たちに相談なさるべきです。広く話を広げるにはまだ早すぎます」


「ああ。正式な場に出す前に、限られた者たちで方針を固める」


「それがよろしいかと」


ヴィクトリアは静かに頷きました。



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