第十七話 悪意
その夜、リリアは与えられた部屋で、深く眠っていました。
窓の外には静かな月明かりが落ち、交易都市の遠いざわめきも、今は薄く沈んでいます。
数日間、リリアは朝から救護所へ通い、午後には町を歩いて瘴気を祓っていました。
夜になれば、寝台へ横たわるだけで意識が遠のきます。
蒼月はしばらく彼女のそばに伏せていましたが、やがて水を求めて静かに部屋を出ました。
扉の外には護衛がいる。
ほんのわずかな時間ならば問題ない。
そう判断したのです。
けれど、そのわずかな隙を、闇に紛れた男たちは待っていました。
魔物に襲われた交易都市では、まだ混乱が収まりきっていませんでした。
家を失った者、荷を失った商人、焼けた店の跡で呆然と立ち尽くす者。
兵士たちは町の警備と負傷者の搬送に追われ、隣国の兵も王都から来た兵も、すべてに目を配ることはできません。
「見張りの騎士たちはどうだ」
「広場の負傷者にかかりきりだ。この混乱じゃ、裏窓までは誰も見ちゃいねえ」
その隙に、町の闇へ紛れ込んだ者たちがいました。
金目のものを漁る者。
避難民の荷を盗む者。
混乱に乗じて、弱い者を狙う者。
その夜、リリアの部屋へ忍び寄った男たちも、その一部でした。
窓の外で、低い物音がしました。
続いて、金具がわずかに軋む音。
寝台の上で、リリアは疲れ切ったまま眠り続けています。
やがて窓が静かに押し開けられ、粗末な外套をまとった四人の男たちが、音を殺して部屋の中へ入り込んできました。
泥のついた靴が床に小さな跡を残し、酒と汗の混じった不快な匂いが、静かな部屋の空気を濁していきます。
男の一人が、寝台の上のリリアを見下ろし、かけてある毛布をはぎ取ると、にやりと口元を歪めました。
「おいおい……これはなかなかの上玉じゃねえか」
もう一人が、扉のそばで低く笑いました。
「聖女様なんて呼ばれてるから、どんな女かと思えば……。まあ、しょせんただの町娘だろ」
男は、ゴクリと下卑た音を立てて喉を鳴らしました。
「なら、売る前に少しくらい俺たちの相手をしてもらってもいいだろうよ。聖女様だからな、見世物としても奴隷としても、この見た目なら高く売れるだろうよ。傷さえつけなきゃ問題ねえ」
その声に、リリアの意識は急速に浮かび上がりました。
知らない男の声。
酒と汗の混じった不快な匂い。
蒼月の温もりがそばにないこと。
すべてを理解するより早く、胸の奥が冷たく強張ります。
リリアが目を開けた瞬間、月明かりを背にした男の影が見えました。
「……っ」
悲鳴を上げようとしたリリアの口を、男の手が乱暴に塞ぎました。
声を奪われたまま、リリアは寝台の脇に置いてあった短剣へ必死に手を伸ばします。
指先が柄に触れかけた瞬間、その手首を男のもう片方の手が強く押さえつけました。
「騒ぐなよ、聖女様。外に聞こえたら面倒だ」
リリアは必死に首を振りました。
押さえつけられた手首に力を込め、男の手から逃れようとします。
けれど、指先は震えるばかりで、思うように力が入りません。
数日間の治療と浄化で疲れ切った身体は、声も抵抗も奪われたまま、寝台の上で小さく強張ることしかできませんでした。
「おとなしくしてろ。悪いようにはしねえよ」
男は低く笑い、背後の仲間へ顎をしゃくりました。
「おい、両手を押さえてろ。暴れられると面倒だ」
別の男が寝台へ身を乗り出し、リリアの両手首を乱暴に押さえつけました。
「少し楽しませてもらったら、ちゃんと売ってやる」
言葉の意味を理解した瞬間、リリアの瞳に恐怖が浮かびました。
声が出せない。
蒼月を呼べない。
逃げなければと思うのに、身体が動かない。
リリアは男の手の下で、必死に息をしようとしました。
涙がにじみ、視界が揺れます。
それでも彼女は、震える指先で寝台の布を握りしめ、少しでも男から離れようとしました。
覆いかぶさっている男がリリアの胸元に手を伸ばしたその時でした。
低い唸り声が、部屋の闇を裂きました。
次の瞬間、銀の影が男たちの間をすり抜けるように駆け抜けました。
リリアに覆いかぶさっていた男が、声を上げる間もなく血しぶきを上げ、入口近くの壁まで弾き飛ばされます。
身体は壁へ激しく叩きつけられ、鈍い音を立てて床へ崩れ落ちました。
男はそのまま、ピクリとも動きませんでした。
それを見た仲間の男たちの動きが、ぴたりと止まりました。
月明かりの中、リリアの前に立っていたのは蒼月でした。
蒼い瞳は、月光を受けて冷たく燃えていました。
水を飲みに離れていたはずの彼は、部屋に入り込んだ異物の匂いと、リリアの恐怖を感じ取り、すぐに戻ってきたのです。
リリアの両手首を押さえていた男は、ゆっくりと振り返りました。
「な、なんだよ……」
その声は震えていました。
蒼月は一歩、前へ出て身を低くし、喉の奥から深い唸り声を響かせます。
その瞬間、男は反射的にリリアから手を離しました。
「……っ、蒼月……!」
ようやく解放された口から、リリアのかすれた声がこぼれました。
蒼月の蒼い瞳が、一瞬だけリリアへ向きました。
怯えた瞳。
震える指先。
乱れた衣服の隙間からのぞいた、白いやわ肌。
声を上げることさえできず、必死に息をしようとしていた姿。
それを見た瞬間、蒼月の瞳に宿る光が変わりました。
部屋の空気が凍りつくほど、蒼月の気配は冷たく沈んでいきました。
次の瞬間、リリアの両手首を押さえていた男が蒼月の爪にはじかれ、壁に大きな音を立てて叩きつけられました。
壁に背を打ちつけた男は、そのままずるりと崩れ落ち、動きませんでした。
「ひぃっ!」
残された男の一人が、情けない声を漏らしました。
ただの狼ではない。
そう理解するのに、時間はかかりませんでした。
闇の中で淡く光る銀の毛並み、こちらを射抜く蒼い瞳、低く喉を鳴らすだけで肌の奥まで凍らせるような気配。
そのすべてが、男たちの本能に危険を告げていました。
「くそっ……!」
残る男の一人が、震える手で短剣を抜こうとしました。
その瞬間、蒼月の身体が低く沈みました。
次に動けば飛びかかる。
その気配を感じ取った男は、短剣の柄に指をかけたまま硬直します。
額には脂汗が滲み、喉が小さく鳴りました。
「や、やめろ……こっちへ来るな……」
蒼月は、ただ一歩、静かに前へ出ました。
それだけで、残された男たちは反射的に後ずさりました。
その時、音を聞きつけたルークと護衛の騎士たちの足音が、廊下の向こうから響きました。
「リリア殿!」
鋭い声とともに、扉が開かれます。
最初に飛び込んできたのはルークでした。
続いて、護衛の騎士たちがなだれ込むように部屋へ入ってきます。
ルークは寝台の上で震えるリリアと、彼女の前に立つ蒼月、粗末な外套をまとった残りの男たち、そして床に倒れている二人の男を見た瞬間、全てを察し顔色を変えました。
護衛の騎士の一人が、すぐさま剣を抜きました。
「動くな。武器を捨てろ」
男たちは逃げようとしましたが、蒼月に退路を塞がれ、騎士たちに腕をねじ上げられて床へ押さえつけられました。
短剣が取り上げられ、外套の内側からは縄と布が見つかります。
「……リリア殿を連れ去るつもりだったのか」
男たちは答えませんでした。
床に落ちた縄と布が、何よりの答えでした。
ルークは騎士たちへ視線を向けました。
「ガレス隊長へ報告をお願いします。今夜の見張りの配置も、すべて確認してください。この者たちは別室で拘束し、誰の手引きでここへ入り込んだのか、必ず聞き出すように」
「はっ」
騎士たちは男たちを引きずるように連れていきました。
男の一人が最後に何かを言おうとしましたが、蒼月の低い唸り声を聞いた途端、口を閉ざしました。
扉が閉じると、部屋にはようやく静けさが戻りました。
けれど、それは先ほどまでの穏やかな夜とは違っていました。
空気の中には、まだ恐怖の名残が沈んでいます。
ルークは寝台のそばへ近づきかけ、すぐに足を止めました。
蒼月が、まだ完全には警戒を解いていなかったからです。
銀の尾が寝台の端を囲うように動き、リリアのそばに近づくものを選別するように、蒼い瞳がルークへ向けられました。
「……申し訳ありません、リリア殿」
ルークはその場で深く頭を下げました。
「警備に不備がありました。私の責任です」
リリアは首を振ろうとしました。
けれど、うまく言葉が出ません。
喉がひどく乾き、胸の奥がまだ冷たく震えていました。
「ルーク、……違……」
あなたのせいじゃない。
そう言いたかったのに、それ以上言葉が続かず、リリアは蒼月の身体に手を伸ばしました。
蒼月はすぐに寝台のそばへ戻り、鼻先を彼女の手元へ寄せます。
その温もりに触れた瞬間、こらえていたものが一気に押し寄せ、リリアの瞳に涙が滲みました。
「……怖かった」
小さくこぼれた声は、あまりにも頼りないものでした。
蒼月は低く、優しく鼻を鳴らしました。
先ほどまで男たちへ向けていた鋭さをすべて押し隠し、今はただ、リリアを落ち着かせるようにそばへ身を寄せています。
ルークはすぐに侍女と騎士へ指示を出し、リリアを別の部屋へ移す準備をさせました。
蒼月は片時も離れず、リリアの足元に寄り添うようにして歩きます。
移された部屋には、ほどなくして温かな飲み物が運ばれてきました。
毛布にくるまり震える手で杯を受け取っても、リリアはすぐには口をつけられませんでした。
蒼月の毛並みに指を埋め、ようやく少しずつ息を整えていきます。
ルークは顔を上げませんでした。
「二度と、このようなことは起こさせません」
その声には、静かな怒りと深い悔しさが滲んでいました。
それはリリアへ向けた謝罪であると同時に、己の胸へ刻みつける誓いのようでもありました。
聖女様。
数日前から、その呼び名はリリアの行く先々で小さく聞こえるようになっていました。
傷ついた兵士が手を合わせ、子供を抱いた母親が涙を流し、焼け跡の前で老人が深く頭を下げる。
リリアはそのたびに違うと首を振りましたが、人々の中に生まれた希望まで否定することはできませんでした。
けれど、その呼び名が連れてくるものは、感謝や祈りだけではありませんでした。
(聖女様だからな、見世物としても奴隷としても、この見た目なら高く売れるだろうよ)
男の醜悪な声が、耳の奥で蘇ります。
奇跡を起こす娘。
人々に望まれる娘。
そして、利用できる価値のある娘。
その事実が、氷水を浴びせられたように、ようやくリリアの胸に落ちてきました。
「私……聖女なんかじゃないのに」
震える声で、リリアは呟きました。
「ただ、助けたかっただけなのに」
蒼月は、ただ、その大きな身体をリリアのそばに寄せ、彼女の震えが少しずつ収まるまで、静かに寄り添っていました。
その夜のうちに行われた取り調べで、拘束された男たちは、町の混乱に紛れて入り込んだ賊であることが分かりました。
ルークは言葉を選ぶように、ゆっくりとリリアへ告げました。
「彼らは、聖女と呼ばれ始めたあなたを……金になる獲物として見ていたようです」
リリアはしばらく黙っていました。
怒りよりも先に、胸の奥に冷たい疲労が広がりました。
人を助けるために使った力が、別の誰かには利用価値として映る。
そのことが、リリアにはまだうまく受け止められませんでした。
そして同時に、リリアは思い知らされてもいました。
自分がこれまで、どれほど多くの人に守られてきたのかを。
ローゼン領主アルベルトも、国王も、王妃も、ガレス様も、ルークも、蒼月も。
彼らの目が届く場所にいたからこそ、自分は何も知らずにいられたのかもしれません。
リリアがようやく寝静まったころ、蒼月は寝台のそばに伏せていました。
リリアは眠っていましたが、その呼吸はまだ浅く、時折、何かに怯えるように眉を寄せます。
そのたびに蒼月はそっと鼻先を寄せ、彼女の指先に触れました。
眠りの中でリリアの指が銀の毛並みに触れると、蒼月はわずかに目を伏せました。
なぜ、自分はあの時、離れてしまったのか。
ほんのわずかな時間でした。
扉の外には護衛もいた。
水を飲みに行くだけなら、何も起こらないと思った。
けれど、そのわずかな隙に、リリアは恐怖の中へ突き落とされた。
あの男たちが、リリアに触れていた。
口を塞ぎ、腕を掴み、逃げる力も残っていない彼女を見下ろしていた。
怯えた瞳。
震える指先。
声を上げることさえできず、必死に息をしようとしていた姿。
思い出すだけで、蒼月の胸の奥に、低く冷たい怒りが沈んでいきました。
あの時、男たちを退けたことに迷いはありませんでした。
リリアを傷つけようとした者を、許すつもりなどなかった。
あのまま生かしておけば、また誰かを傷つけたかもしれない。
そう思えば、彼らに向けた牙も爪も、蒼月にとってはためらうものではありませんでした。
蒼月は、眠るリリアを見つめました。
リリアを、二度と恐怖に震えさせてはならない。
誰にも傷つけさせない。
誰にも奪わせない。
そう強く思った胸の奥で、まだ蒼月自身にも名づけられない感情が、深く静かに根を下ろしていきました。
夜がさらに深まったころ、リリアの呼吸が少しだけ落ち着きました。
蒼月は、音もなく身を起こしました。
眠るリリアの指先に鼻先を寄せ、そっと離れます。
扉の外に立つ騎士がわずかに振り返った時には、銀の影はもう廊下の闇へ溶けていました。
翌朝、屋敷の一角が騒がしくなりました。
リリアがまだ部屋で休んでいる頃、捕らえられていた男たちの様子を確認しに行った騎士が、青ざめた顔で戻ってきたのです。
「ガレス隊長。昨夜拘束した者たちが……」
報告を受けたガレス隊長の表情が険しくなりました。
男たちは、石造りの小部屋の中で息絶えていました。
見張りの兵も、異変には気づかなかったと証言しました。
「誰かが侵入したのか」
「裏手の窓枠に破壊の痕跡がございます。侵入者はそこから入り、拘束されていた男たちを一撃で仕留め、そのまま姿を消したものと思われます」
騎士の一人が、青ざめた顔のまま、さらに報告を続けました。
「それに……遺体の状態が、普通ではありません。刃物で斬られたものではなく、凄まじい力で壁へ叩きつけられたような痕がありました。身体も、ただ倒れたにしては不自然な形で崩れていて……昨夜、蒼月殿が倒した者たちと同じ――」
その言葉が最後まで続く前に、ガレス隊長は騎士の口を片手で塞ぎました。
廊下の先には、リリアの部屋があります。
ガレス隊長は、ゆっくりと首を振りました。
騎士ははっとしたように目を伏せます。
「この件は、リリア殿の耳には入れるな」
低く、厳しい声でした。
「それと、このことはここだけの話にしろ。他言無用だ。破った者は厳罰に処す」
騎士たちは一斉に姿勢を正しました。
「今のあの方に、余計な恐怖を与える必要はない。警備を倍にしろ。昨夜の見張りの配置も、もう一度すべて洗い直す」
「はっ」
騎士たちはすぐに動き出しました。
その頃、リリアの部屋では、蒼月が何事もなかったかのように寝台のそばに伏せていました。
リリアはまだ眠っています。
蒼月はそっと鼻先を寄せ、彼女の指先に触れました。
その仕草は、いつもと変わらない優しい守護者のものでした。
けれど、蒼い瞳の奥には、普段とは違う、深く冷たい光が沈んでいました。
リリアを襲った者たちは、もういない。
二度と、彼女の前に現れることもない。
その事実だけを胸の奥に沈め、蒼月は静かに目を伏せました。




