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銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお


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第十六話 初陣

王都の生活から一遍……リリアが王都での生活に慣れてきたころ……

交易都市からの急報が王都へ届いたのは、夜明け前のことでした。

早馬で駆け込んできた使者は、泥に汚れた外套のまま王宮へ通され、息も整わぬうちに膝をつきました。


「急報です。隣国ヴァルメリア王国の国境沿いにある交易都市が、魔物の群れに襲撃されております」


報告を聞いた文官たちの顔色が変わりました。

その交易都市はヴァルメリアの領地でありながら、グランヴァルド王国との交易路を支える重要な拠点でもあります。


「平時から両国が協力して守ってきた町ですが、今回も、自国の王都より我が王都の方が近いため、現地から正式な救援要請が届きました」


使者は荒い息をつきながら報告を続けました。


「城門付近では今なお激しい戦闘が続き、現地の兵だけでは押し返しきれない状況にあるというのです!」


報告を受けた王宮は、すぐに慌ただしさに包まれました。

アレクシス王のもとへ、ハインリヒ宰相、アステル長官、ローガン総司令官、そしてヴィクトル・フォン・レーヴェン軍務顧問が集められます。

まだ朝の光も差しきらぬ会議室には、燭台の明かりだけが揺れていました。


「現地の兵だけでは、魔物を倒しきれぬということか」


アレクシス王が低く問うと、報告を読み上げていた文官が顔を強張らせたまま頷きました。


「はい。城門付近と市場周辺で戦闘が続いております。負傷者は兵士、住民ともに多数。さらに、魔物が通った跡に瘴気が残り、都市の一部を覆い始めているとのことです」


「瘴気だと……。単なる魔物の襲来だけでは済まぬということか」


ハインリヒ宰相が重々しく呟きました。

その場の空気が、さらに重くなります。瘴気という言葉が加わった瞬間、単なる軍事対応では済まないことを、そこにいる者たちは理解しました。


「ただちに軍を出す」


アレクシス王の判断は早いものでした。


「ローガン。先発隊を編成せよ。現地軍と合流し、都市の防衛線を立て直す。魔物を都市から引き剥がし、可能ならばその場で討て」


「はっ」


ローガン総司令官が短く答えます。

続いてヴィクトル軍務顧問が地図を広げ、交易都市へ至る街道と周辺の地形を確認し始めました。


「軍の先発は必須です。今この瞬間にも、都市では人が傷つき、家が焼かれ、魔物の爪と牙にさらされているのですから」


アステル長官が、報告書の一節に視線を落としたまま、静かに口を開きました。


「問題は、負傷者です」


その声は大きくありませんでしたが、会議室の空気を変えるには十分でした。


「魔物に傷つけられた者は、ただの負傷者ではありません。傷口から瘴気が入り込めば、通常の治療では回復しない。傷を塞いでも、内側に残った瘴気が熱を生み、意識を濁らせ、命を削っていきます。軍医や治癒術師だけでは、救えぬ者が出るでしょう」


アレクシス王は、報告書から目を上げました。


「……リリアの浄化が必要になるか」


「はい」


アステルは短く答えました。


「都市そのものにも瘴気が満ち始めているという報告です。城門、市場、井戸、避難所。魔物が長く留まった場所ほど、濃く残る可能性があります。先発隊が戦況を押し返した後、浄化の手が必要になります」


沈黙が落ちました。

リリアは、まだ修練を始めて一月ほどです。

浄化の力は確かにある。けれど、その扱いはまだ完全ではありません。

ハインリヒ宰相が、深く息をつきました。


「リリア殿を出すには、まだ早い。彼女は王都に来て日が浅く、修練も始まったばかりです」


「分かっている」


アレクシス王は重く頷きました。


「だが、瘴気に侵された者を放置することはできぬ。軍が魔物を退けても、傷ついた者たちがその後で命を落とすなら、それは都市を救ったことにはならない」


その言葉には、王としての決断と、一人の娘を危険な場所へ送り出さねばならない苦さが滲んでいました。


「先発隊を出す。リリアは後発だ」


アレクシス王は静かに言いました。


「まず軍と騎士団が向かい、戦況を押し返す。都市へ入れるだけの道を確保した後、リリアを救護と浄化のために向かわせる。蒼月を同行させ、護衛は厚くつける。ガレスにも命じよ」


「承知しました」


ヴィクトル軍務顧問が頷きました。

アレクシス王は、アステルへ視線を向けました。


「アステル。そなたは王都に残る必要がある。だが、現地で瘴気を見極め、リリアの助けとなる者が要る」


「心得ております」


アステルは、迷いなく答えました。


「星術師団から、第三主席のユリウスを同行させます。瘴気観測、記録、浄化範囲の判断に長けた者です。私ほどではありませんが、星術師団の中でも上位の実力を持ち、現場判断を任せられます」


先発の軍と騎士団は、急ぎ編成と補給を整えたうえで、翌朝王都を発つことになりました。

まず軍が現地へ到着し、魔物を押し返せる見込みが立つまで待つ。

その間に、リリアの法衣と杖、護衛、随行するユリウスの準備を整える運びとなりました。


その日の夕刻、リリアは王の呼び出しを受け、王宮へ向かいました。

広い一室には、アレクシス王とアステル、そしてルークが待っていました。

蒼月もリリアに付き添うように部屋へ入り、窓辺に近い場所で静かに伏せます。


部屋へ入った瞬間、リリアは普段とは違う重い空気を感じ取りました。

アレクシス王は、交易都市が魔物に襲われていること、先発の軍と騎士団が翌朝には王都を発つこと、そして都市には瘴気が満ち始めており、浄化の力が必要であることを、順を追ってリリアへ伝えました。


「本来なら、そなたを出すにはまだ早い」


王の声は、重く沈んでいました。


「そなたは王都に来て、まだ日が浅い。修練も始まったばかりだ。それでも、魔物に傷つけられた者は瘴気に侵され、通常の治療だけでは救えぬ場合がある。交易都市に瘴気が満ちているという報告がある以上、浄化の力が必要になる」


リリアは、すぐには答えられませんでした。

怖くないわけではありません。

それでも、答えはもう決まっていました。


「私が、行くのですね」


リリアが静かに言うと、王は静かに頷きました。


「そなたは後発の救護・浄化要員として向かう。護衛にはガレス隊長とその部下の騎士たちをつける。アステルは王都を離れられぬが、彼が信頼するユリウスを同行させる。現地では、決して一人で判断してはならぬ」


「はい」


リリアは頷きました。

窓辺で伏せていた蒼月が、ゆっくりと顔を上げました。

蒼色の瞳が、リリアを静かに見つめています。

リリアは蒼月のそばへ歩み寄り、その銀の毛並みにそっと手を置きました。


「蒼月。私、行くわ」


蒼月は、蒼色の瞳でリリアを見つめたあと、静かに立ち上がりました。

その動きだけで、答えは十分でした。


先発隊が王都を発ってから三日が過ぎる頃、王都には断続的に伝令が届いていました。


「ご報告します! 先発隊は街道を急ぎ、交易都市へ接近中! ですが現地では戦闘がなお激しく、負傷者も増え続けているとのことです!」


夜を追うごとに、そんな重い報告が重なっていきました。


そして、リリアの出発前夜。

リリアはアステルに呼ばれ、星術の塔へ向かいました。

塔の上階にある静かな一室には、リリアと蒼月、そしてアステルだけがいました。

机の上には、白い布に包まれたものと、美しい装飾の施された杖、護身用の短剣、透明な水晶が置かれています。

燭台の火が揺れるたび、水晶の中に淡い光が揺らめいて見えました。


「出発前に、あなたの状態を確認します」


アステルはいつものように落ち着いた声で言いました。


「はい」


リリアは椅子に座り、両手を膝の上でそろえました。

アステルは水晶を通してリリアの魔力の流れを見ました。

淡い光が水晶の内側に広がり、やがて細い糸のような輝きがいくつも現れます。

しばらく沈黙が続きました。

やがてアステルは、静かに息を吐きました。


「やはり、まだ安定しているとは言えません」


その言葉に、リリアの指先がわずかに動きました。


「私では、足りませんか」


「違います」


アステルはすぐに否定しました。


「力が足りないのではありません。むしろ、あなたの浄化は強い。問題は、強さに対して制御が追いついていないことです」


リリアは、黙ってその言葉を受け止めました。


「胸の奥が重くなる、指先が冷える、視界が白む。その兆候が出たら、必ず手を止めること。同行するユリウスにも、あなたの状態を記録させます」


「……はい」


「そして、蒼月から離れないこと」


その言葉に、蒼月の耳がわずかに動きました。

アステルは、机の上に置かれていた杖へ手を伸ばしました。

白銀を基調とした細身の杖で、先端には淡く澄んだ石がはめ込まれています。

過剰な装飾はありませんが、柄には星の軌道を思わせる繊細な文様が彫られていました。


「これは、あなたの魔力の流れを強化し整えるための杖です。魔力を必要な方向へ導く。浄化や治癒を行う際、あなたの負担を少しでも軽くするためのものです」


リリアはそっと杖に触れました。

指先に伝わる感触は冷たく、けれど不思議と手になじむような静けさがありました。


「こちらは、護身用の短剣です」


続いてアステルは、鞘に収められた短剣を示しました。

柄には小さな守護の魔法陣が刻まれています。


「使わずに済むことを願っています。ですが、持っていることにも意味があります。あなた自身が、自分を守る意思を忘れないためです」


リリアは短剣を見つめ、静かに頷きました。

最後に、アステルは白い布に包まれたものへ手を伸ばしました。

布を解くと、中から現れたのは、白を基調とした法衣でした。

装飾は控えめで、動きやすい形に整えられています。

袖口と胸元には淡い銀糸の刺繍が施され、その模様は星術師が扱う魔法陣に似ていました。


「これは、防護法衣です」


アステルが言いました。


「王妃陛下と星術師団の指示で、急ぎあなたに合わせて調整しました。防御結界を補助し、瘴気の侵入を和らげ、魔力の流れを乱れにくくする付与を施してあります」


リリアは、そっと法衣に触れました。

指先に触れた布は柔らかく、けれどただの布ではないことが分かるほど、内側に静かな力を宿していました。


「これを着れば、瘴気に触れても大丈夫なのですか」


「完全に防げるものではありません」


「法衣は、あなたを守るための補助です。危険を消すものではありません。魔力の消耗も、浄化の負担も、なくなるわけではない。ただし、無防備で瘴気の中へ入るよりは、はるかに安全です」


アステルは袖口の刺繍を指さしました。


「限界が近づくと、この刺繍の光が濁ります。あなた自身が気づかなくても、周囲が止められるようにしてあります」


「周囲が……」


「ええ。あなた一人に判断させるためのものではありません」


リリアは、法衣を見つめました。


「ありがとうございます」


リリアが静かに頭を下げると、アステルは杖を手に取りました。


彼は法衣と杖の上に片手をかざし、低い声で星術の言葉を唱え始めました。

聞き慣れない響きの言葉が室内に満ちると、法衣の銀糸が淡く光り、杖の先端に嵌め込まれた石が静かに輝きます。

その一連の所作には、リリアを無事に帰したいというアステルの願いが込められているようでした。

やがて光が収まると、アステルは杖を机へ戻しました。


「私からも、守護の星術を重ねておきました」


それから透明な水晶へ手を伸ばしました。


「最後に、星を見ます」


それは出陣前に行う、簡易の安全祈願でもありました。

室内の空気が、わずかに変わりました。

リリアは思わず息を止めました。蒼月も不思議そうに水晶をのぞいています。

アステルが水晶の上に手をかざすと、透明だった球の内側に淡い光が宿りました。

最初は静かな星空のようでした。小さな光がいくつも瞬き、ゆっくりと流れていきます。

けれど、やがてその中に黒い靄が混じり始めました。

黒い靄は細い糸のように絡まり、やがて形の定まらない不吉な影となって揺れました。

リリアは息を呑みます。

その奥に、銀の獣のような影が見えました。月光を浴びるように白く輝きながら、その身体には黒いものが絡みついています。

さらにそのそばに、小さな淡い光がありました。人の形にも、灯にも見える、不安定な光です。

次の瞬間、水晶の内側で黒い靄が激しく渦を巻きました。

ぴしり、と乾いた音がしました。

水晶の表面に細いひびが走りました。ひびは一筋、二筋と増え、中心へ向かって広がっていきます。


「アステル様……!」


リリアが声を上げた瞬間、アステルが鋭く叫びました。


「危ない!」


アステルは反射的にリリアの前へ出ました。

次の瞬間、水晶は大きな音を立てて弾け、破片が机の上に散りました。

細かな欠片が燭台の光を受けて、星の屑のように瞬きます。

部屋の中に、静寂が落ちました。

燭台の火だけが、何事もなかったように揺れています。

アステルはしばらく割れた水晶を見つめていました。

その表情はいつもと変わらないようでいて、目の奥だけが鋭く沈んでいました。


「……未来が閉ざされたわけではありません」


「ただ、あまりにも大きな力が交差している。水晶が耐えきれなかったのでしょう」


アステルの視線が、蒼月へ向きました。


「……蒼月には、何か古い呪いのような気配があります」


リリアは、息を止めました。


「呪い……?」


「はい。強力な何かが、彼の本来の力を押さえ込んでいる。そのように見えます」


リリアは、無意識に蒼月へ視線を向けました。

蒼月は、割れた水晶から視線を外しませんでした。

その横顔は普段と変わらないようでいて、どこか遠い記憶の底を見つめているようにも見えました。

ただ静かに、その場に立ち尽くしていました。


「それは……蒼月は、苦しいのですか」


リリアの声は、かすかに震えていました。

アステルは、すぐには答えませんでした。


「この場で分かるのは、ここまでです。今は交易都市への出発を優先しなければなりません。戻ってきたら、改めて詳しく調べましょう」


「……はい」


リリアは頷きました。けれど、胸の奥には不安が重く沈みました。

アステルは、リリアへ向き直りました。


「リリア殿」


「はい」


「重ねて申し上げます。無理は禁物です。あなたはまだ、己の力をすべて知っているわけではありません。助けたいと思うことは尊い。けれど、倒れてしまえば、助けられるはずの者を助けられなくなります」


リリアは、胸の前で手を握りました。


「……はい。覚えておきます」


「覚えるだけでは足りません。従ってください」


その厳しい言葉に、リリアは一瞬だけ目を見開きました。

けれど、アステルの声には冷たさではなく、切実なものがありました。


「はい。必ず」


その答えを聞いて、アステルはようやく小さく頷きました。


星術の塔から戻った後も、リリアの胸から不安は消えませんでした。

部屋に入るなり、リリアは蒼月の首に腕を回しました。銀の毛並みはいつもと同じように柔らかく、温かい。

けれど、アステルの言葉を聞いた後では、その温もりさえ胸を締めつけるものに変わっていました。


「蒼月……あなたを呪っているものがあるって、本当なの?」


「苦しくない? 痛くない? 私、何も知らなかった……」


言葉にすると、不安がいっそう大きくなりました。

リリアは蒼月の毛並みに顔を寄せ、震える息を落ち着けようとしました。

蒼月は普段と変わらず、彼女を急かすこともせず、ただそばにいます。

まるで、今は明日のために休めと言っているようでした。


「……帰ってきたら、ちゃんと調べてもらいましょう。あなたのことも、必ず」


そう呟くと、蒼月はゆっくりと尾を動かしました。


――呪い……。


蒼月の中でその言葉だけが、胸の奥へ静かに沈んでいきます。

けれど、それが何を意味するのか、蒼月自身にも分かりませんでした。

失われた何かに触れそうで、触れられない。

そんなもどかしさだけが、かすかに残ります。


今は、明日の出発に備えなければなりません。

リリアは不安を抱えたまま、それでも蒼月の温もりに寄り添い、静かに眠りにつきました。


翌朝、リリアは白い法衣に袖を通しました。

鏡の中の自分は、町で薬草籠を抱えていた頃とはまるで違って見えました。


(でも、目の前に苦しむ人がいるなら手を伸ばしたい……困っている人を放っておけない気持ちだけは、王都へ来る前からずっと変わらないわ)


宮殿の外では、すでに出発の準備が整っていました。

ルークが書類と道中の確認を済ませ、ガレス隊長が護衛の騎士たちを率いて立っています。


「星術師団第三主席、ユリウス・フォン・アルトハイムです。よろしくお願いいたします」


「リリア・グランベルです。よろしくお願いいたします」


ユリウスは観測具と記録用の革鞄を携え、静かに頭を下げました。

若く見えるものの、その立ち姿には落ち着きがあり、星術師団の中でも相応の経験を積んだ者であることが分かりました。


蒼月は、リリアの隣に立っていました。

リリアがそっと手を伸ばすと、蒼月はわずかに頭を下げ、彼女の指先に鼻先を寄せました。


「行こう、蒼月」


リリアが小さく言うと、蒼月は静かに尾を揺らしました。

王都の門が開きます。

先発隊はすでに遠く交易都市へ向かっています。

戦況はまだ分かりません。

魔物がどれほど残っているのか、現地がどのような状態なのか、誰にも断言はできませんでした。


リリアは胸の奥に不安を抱えたまま、それでも前を向きました。

白い法衣の袖口で、銀糸の刺繍が淡く光っていました。


交易都市へ近づくにつれ、空気は少しずつ重くなっていきました。


「風に……焦げた匂いが混じり始めましたね」


ユリウスが静かに言いました。王都を出た時には澄んでいた朝の風が、街道を進むにつれて変わってきたのです。


「あそこを見ろ。壊れた荷車が残されている。荷を積んだまま急いで逃げたのだろう」


ガレス隊長が道の端を指さしました。遠くの空には細い煙が上っています。

避難してきた人々とすれ違うたび、リリアの胸は締めつけられました。

子供を抱いた母親。

腕に包帯を巻いた商人。

荷物をほとんど持たず、ただ街道を歩く老人。

誰もが、ひどく疲れ切った顔をしていました。


「先発隊からの伝令です!」


交易都市への到着を目前にした頃、先発隊からの伝令がリリアたちのもとへ駆け込んできました。


「魔物は、王国軍と現地軍の連携により、つい先ほど都市周辺から退けられました! 一部は討伐、残りは北の森へ逃走。現在、追撃部隊が確認に向かっています」


「よかった……」


リリアは、その言葉を聞いてようやく息を吐きました。けれど、安堵は長く続きませんでした。


「ただし、負傷者が多数。都市内の瘴気も濃く、軍医だけでは対応しきれておりません。中央広場に臨時の救護所を設け、到着次第、浄化を願いたいとのことです」


ガレス隊長は表情を引き締めました。


「分かった。リリア殿を中央広場へ案内する。周辺警戒を怠るな」


交易都市の城門が見えた時、リリアは言葉を失いました。

門には深い爪痕が残り、黒く焦げた箇所もありました。

石畳には、血を洗い流した跡がまだ薄く残っています。


市場へ続く通りでは焼け焦げた荷馬車が道端に寄せられ、店の軒先には破れた布が風に揺れています。

戦いは終わっていましたが、町はまだ傷ついたままでした。


リリアたちを出迎えたのは、交易都市を預かるヴァルメリア王国の領主でした。疲労と焦りを隠しきれない顔をしていましたが、リリアを見るなり、その目にあからさまな疑いが浮かびました。


白い法衣をまとったリリアの後ろには、蒼月が静かに立っていました。

周囲の兵士たちは一瞬言葉を失いましたが、領主は動揺を押し隠すように顎を上げました。


「……救援を求めた我らに対する、貴国の答えがこれか。兵も民も傷つき、町には瘴気が満ちている。にもかかわらず、貴国が頼みの綱として差し向けたのは――このようなただの小娘だというのか」


低く吐き捨てるような声でした。

その声には、救援を求めた側の切迫した怒りと、リリアへの露骨な侮りが滲んでいました。

その言葉に、周囲の空気がぴんと張りつめました。

ガレス隊長の表情が険しくなり、ルークも一歩前に出かけました。

リリアは小さく首を振り、前に出かけたルークたちを制しました。


ここで誰かに庇われてしまえば、領主の中にある疑いはさらに強くなるだけです。

王妃から教わった礼儀作法は、ただ美しく振る舞うためだけのものではありません。

相手を刺激せず、自分の立場を示すためのものでもあるのだと、リリアは今になって理解しました。

胸の奥に緊張を覚えながらも、リリアは震えそうになる指先をそっと握り込み、背筋を伸ばして一歩前へ出ました。


「ヴァルメリア王国の皆様。グランヴァルド王国王都グランリューネより、救護と浄化のために参りました、リリア・グランベルです。至らぬ身ではございますが、負傷された方々のお力になれるよう、精一杯務めさせていただきます」


深く礼をすると、白い法衣の袖口で銀糸の刺繍が淡く光りました。

隣に立つ蒼月は動かず、ただ静かにリリアの背後を守るように控えています。

ガレス隊長もルークも口を挟まず、彼女が自分の言葉でこの場に立つのを見守っていました。

リリアの態度を見ても、ヴァルメリア王国の領主はすぐには表情を改めませんでした。

むしろ、その目にはいっそう険しい色が浮かびました。


「ふん。言葉だけは整っているようだな」


彼は広場の奥へ顎をしゃくりました。


「ならば見せてもらおう。たかが娘一人に、この惨状をどうにかできるというのならな」


領主の言葉は鋭いものでしたが、リリアは言い返しませんでした。

今ここで必要なのは、言葉ではなく行動で示すことでした。


「案内をお願いいたします」


静かにそう告げると、領主はもう一度不満げに鼻を鳴らし、そばにいた兵士へ目配せしました。


案内されたのは、交易都市の中央広場に設けられた臨時の救護所でした。

布を張っただけの簡素な天幕の下には、負傷した兵士や商人、避難してきた住民たちが横たわっています。

先に到着していたグランヴァルド王国の医師と治癒師たちが、懸命に治療を行っていました。


(ひどい……腕を押さえて呻いている人、顔色を失って浅い息を繰り返している人……あの人は傷は浅いはずなのに、黒い靄のようなものがまとわりついている……!)


想像していた以上に、状況は過酷でした。


「瘴気の影響です」


王都から同行していたユリウスが、負傷者の傷口を確認しながら低く言いました。


「傷の大小に関係なく、瘴気の影響で熱が引かず、意識も混濁している。通常の治癒だけでは、回復が遅れるでしょう。瘴気が傷口、あるいは呼吸から入り込んでいる可能性があります」


リリアは小さく息を呑みました。

王都で学んだことが、目の前の光景と重なっていきます。

瘴気はただ人を弱らせるだけではありません。

傷の治りを妨げ、体力を奪い、心まで暗く沈ませていく。

怖くないわけではありません。

けれど、目の前で苦しむ人々を前にして、立ちすくんでいる時間はありませんでした。


「まず、重い方から診ます」


リリアは膝をつき、黒い靄に侵された兵士の手をそっと取りました。


「大丈夫です。今、楽にします」


淡い翡翠の光が、リリアの手からこぼれました。

最初は小さな灯のように。やがてそれは兵士の傷口を包み込み、黒い靄を少しずつ薄めていきました。

苦しげだった兵士の呼吸が、わずかに穏やかになります。

固く握られていた指先から力が抜け、周囲にいた者たちが息を呑む気配が伝わってきました。


「……瘴気が、消えていく」


誰かが呟きました。

リリアは手を離さず、最後まで光を保ちました。

黒い靄が完全に薄れたところで、今度は傷そのものに治癒の力を向けます。

裂けていた皮膚が少しずつ塞がり、出血が止まると、兵士の顔色にわずかな赤みが戻りました。


「次の方を」


リリアが顔を上げて言うと、先ほどまで鼻で笑っていた領主の表情が変わっていました。

驚き。

疑い。

けれどその奥には、確かに動揺がありました。


「……本当に、瘴気を」


領主は言いかけて、言葉を失いました。

やがて一人、また一人と呼吸を取り戻し、黒い靄が薄れていくにつれて、救護所に漂っていた張りつめた空気が少しずつ変わっていきました。

疑いの視線は驚きに変わり、やがて天幕の片隅から、祈るような小さな声がこぼれました。


「聖女様……」


その呼び名に、リリアは一瞬だけ戸惑いました。

けれど、目の前にはまだ助けを待つ人々がいます。

ヴァルメリア王国の領主は、もう何も言いませんでした。

ただ、リリアが次の負傷者のもとへ進むたび、道を空けるように兵たちへ指示を出していました。


それから数日、リリアは交易都市に留まり続けました。

朝は救護所へ向かい、瘴気に侵された兵士や住民の治療を行いました。

一人ひとりの手を取り、無理に力を流し込まず、黒い靄をほどくように浄化していきました。

午後になると、今度は町の中を歩きました。魔物が押し寄せた城門。

焼け焦げた荷馬車が残る市場。避難民が集まっていた広場。

血が染み込んだ石畳。人々が水を汲む井戸のそば。

そこには、目に見える傷とは別のものが残っていました。

薄く、黒く、冷たい気配。町にこびりついた瘴気でした。


「一度に祓いきれるものではありません」


ユリウスが、観測具を手にして低く言いました。


「魔物が長く留まった場所ほど濃く残っています。無理に広範囲を浄化しようとすれば、リリア殿の負担が大きすぎます。少しずつ、濃い場所から祓っていくべきです」


「はい。無理はしないと約束しましたから」


リリアは静かに頷きました。


(本当は、すぐにでも町全体を清めてしまいたい。でも、無茶をして途中で倒れてしまえば、助けられるはずの人を助けられなくなるわ)


リリアは深く息を吸い、城門の石壁にそっと手を当てました。


「では、ここから始めます」


淡い翡翠の光が彼女の手を伝い、アステルから授かった杖の先へ集まっていきます。

やがてその光は上空に魔法陣を描き、静かに広がっていきました。

一つの場所を清めても、町全体がすぐに元へ戻るわけではありません。

けれど、黒く沈んでいた空気が少し軽くなるたび、人々の表情にもわずかな明るさが戻っていきました。


次回は、リリアが悪意にさらされるところから

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