第十五話 王都への思い
週に一度の休みの日は、リリアにとって、身体だけでなく心を整える大切な時間になっていきました。
その日は朝から授業に追われることはありません。
もちろん、完全に何もしないわけではなく、前の日までに教わったことを少し復習したり、侍女たちに手伝ってもらいながら離宮の庭に薬草を植えたりしました。
柔らかな土に指先を入れ、苗の根元をそっと押さえる時間は、リリアにとって、町で暮らしていた頃を思い出させてくれるものでした。
「ここでも、育ってくれるかしら」
リリアが小さく呟くと、そばで伏せていた蒼月が顔を上げました。
蒼色の瞳で薬草の苗をじっと見つめ、それからリリアの手元へ鼻先を寄せます。
土の匂いを確かめるように少しだけ鼻を動かすと、尾先がゆっくり揺れました。
大丈夫だと、そう言っているようでした。
「あなた、分かるの?」
リリアが笑いながら尋ねると、蒼月は前足で柔らかな土をほんの少しだけ掻きました。
慌ててリリアがその足を止めます。
「だめよ、蒼月。そこは植えたばかりなの」
蒼月は何事もなかったように目を逸らしました。
そのあまりに平然とした仕草に、リリアはこらえきれず笑ってしまいました。
厳しい授業や訓練の日々の中で、こうして何も急かされずに蒼月と過ごせる時間は、リリアの胸を少しずつほぐしてくれました。
休みの日には、王妃ヴィクトリアからお茶会に招かれることもありました。
最初のうちは緊張の方が大きかったものの、王妃の茶会にはいつも香りのよい紅茶と、見たこともない美しい菓子が用意されていました。
果物を使った小さな焼き菓子や、口に入れるとほろりとほどける砂糖菓子。
町ではなかなか味わえないものばかりで、リリアはいつの間にか、お茶会の日を少しだけ楽しみにするようになっていました。
もちろん、それを口に出すのは少し恥ずかしくて、侍女たちに「今日は王妃陛下のお茶会ですよ」と告げられるたび、リリアは小さく頷くだけでした。
けれど、その表情がほんの少し明るくなることを、侍女たちはちゃんと気づいていました。
王妃の茶会に集まる婦人たちは、いずれもヴィクトリアが信頼を置く貴族女性たちでした。
華やかな衣装をまとっていても、リリアを見下すような視線を向ける者はいません。
初めて王宮の社交に触れるリリアが緊張しすぎないよう、王妃があらかじめ人柄を選んでくれているのだと分かりました。
「リリアさん、今日は勉強のお話は少しだけにしましょう」
ヴィクトリアはそう言って、柔らかく微笑みました。
「お茶の席では、相手の話を聞くことも大切な作法です。けれど、作法ばかりを気にしていては、お茶の味も分からなくなってしまいますからね」
その言葉に、そばにいた婦人たちが穏やかに笑いました。
リリアは少し頬を赤くしながらも、教わった通りにカップを持ち上げます。
まだ指先は緊張していましたが、そこにある空気は、王宮の広間で感じたような張りつめたものとは違っていました。
「お茶会には、少し慣れましたか?」
ヴィクトリアに尋ねられ、リリアは少し迷ったあと、小さく頷きました。
「はい。まだ緊張はしますけれど……その、お菓子がとてもおいしいので、少し楽しみでもあります」
言ってから、リリアは慌てて頬を赤くしました。
「す、すみません。食べ物のことばかりで」
その素直な答えに、ヴィクトリアは目元を和らげました。
そばにいた婦人たちも、からかうのではなく、温かなものを見るように微笑みます。
「いいのですよ。おいしいものをおいしいと思えることは、とても大切です。心が疲れている時ほど、そういう小さな楽しみが人を支えてくれるのですから」
リリアはその優しさに、ようやく気づき始めていました。
王妃は、リリアをいきなり厳しい貴族社会の中へ放り込もうとしているのではありません。
「リリアさん。まずは、安心して人と話すことに慣れていきましょう」
ヴィクトリアは、穏やかにそう言いました。
「作法は大切です。けれど、それ以上に大切なのは、あなたがここで息をできるようになることです」
その言葉に、リリアは胸の奥が少し温かくなるのを感じました。
お茶会は、ただ作法を学ぶためだけの時間ではありませんでした。
リリアが王宮の中で少しずつ自分の居場所を見つけていくための、大切な時間でもあったのです。
ある日の茶会で、ヴィクトリアはリリアを見つめ、ふと柔らかく微笑みました。
「リリアさん。毎日、王宮の中だけでは窮屈でしょう」
突然そう言われ、リリアは少し驚いて顔を上げました。
「いえ、そのようなことは……」
慌てて答えようとしたリリアに、ヴィクトリアは小さく首を振りました。
「遠慮しなくていいのですよ。あなたは、もともと毎日のように森へ薬草を採りに出かけていたのでしょう。王宮の中で学ぶことも大切ですけれど、時には外の空気も必要です」
リリアはすぐには答えられませんでした。
王宮の人々は優しくしてくれます。
離宮には薬草畑もあり、蒼月もそばにいます。
それでも、町にいた頃のように、朝の風の中を歩き、店先の声を聞き、行き交う人々の暮らしを肌で感じることは、ほとんどなくなっていました。
ヴィクトリアは、そんなリリアの沈黙を責めることなく、穏やかに続けました。
「次のお休みに、王都を歩いてきてはいかがかしら。市場を見たり、菓子を買ったり、薬草店をのぞいたり。難しく考えず、自由に楽しんでいらっしゃい」
「……よろしいのですか?」
「ええ。目立たない服を用意させます。ルークとセシリア、それから少数の護衛をつけましょう。お忍びですから、あまり堅苦しくならないようにします」
リリアの胸が、弾みました。
市場。
菓子。
薬草店。
王都の町並み。
王都へ来た時、馬車の窓から見えた賑やかな通りを思い出します。
あの時は緊張でほとんど見る余裕がありませんでしたが、今なら少し違う気持ちで歩けるかもしれません。
「ありがとうございます、王妃陛下」
リリアが深く頭を下げると、ヴィクトリアは優しく目を細めました。
「楽しんでいらっしゃい、リリアさん。おいしいお菓子があったら、今度のお茶会で私にも教えてくださいね」
次の休みの日、リリアは朝から少し落ち着きませんでした。
侍女たちは王妃ヴィクトリアが用意してくれた外出用の服を運んできました。
王宮で着るような上等な衣装ではなく、柔らかな生成りのブラウスに、落ち着いた深緑のスカート。
肩には薄手の外套を羽織り、金の髪もいつもの高い位置ではなく、少し低めに結ばれています。
鏡の前に立つと、リリアは少し不思議な気持ちになりました。
王宮で過ごすようになってから、礼儀作法にふさわしい姿勢や服装ばかりを意識していました。
けれど今の自分は、町にいた頃の自分に少しだけ近いように見えます。
それでいて、以前とはどこか違っていました。
「よくお似合いです、リリア様」
侍女が微笑むと、リリアは少し照れたように頷きました。
「ありがとうございます。なんだか、少し落ち着きます」
離宮の入口には、ルークと護衛たちがすでに待っていました。
ルークも王宮で見るようなきちんとした文官服ではなく、目立たない外出着をまとっています。
とはいえ、姿勢の良さと落ち着いた物腰のせいで、完全に町の青年に見えるわけではありませんでした。
そのそばには、今日の外出に付き添う侍女長セシリアが、控えめに立っていました。
セシリアはリリアと目が合うと、丁寧に一礼しました。
「本日は私がお供いたします。お困りのことがございましたら、何なりとお申し付けくださいませ」
「ありがとうございます、セシリアさん。今日はよろしくお願いします」
リリアが少し緊張しながら頭を下げると、セシリアは柔らかく微笑みました。
その笑みには、王宮の作法に慣れないリリアを急かすようなところがなく、リリアは肩の力を抜くことができました。
さらに、ルークの後ろには護衛の騎士が二人控えていました。
どちらも今日は鎧ではなく、町中で目立たない外套を羽織っています。
それでも立ち姿や周囲へ向ける視線には、騎士としての警戒がはっきりと表れていました。
「みなさま、今日はありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします」
リリアが礼をすると、二人の騎士は表情を引き締めたまま、静かに頭を下げました。
貴族でもない娘である自分に、侍女や騎士がこうして付き添ってくれる。
そのことにまだ少し戸惑いはありましたが、今日は王宮の外へ出るのです。
ルークや彼らがいることは、確かに心強くもありました。
「今日はあくまでお忍びです。王宮の名は出さず、できるだけ目立たないように動きます。ただし、危険があればすぐに離脱しますので、その時は私たちの指示に従ってください」
穏やかな声でしたが、その言葉にははっきりとした責任がありました。
リリアは真剣に頷き、それから窓辺に伏せている蒼月を見ました。
蒼月は朝から、いつもより少しだけ静かでした。
リリアが外出用の服に着替えている時も、侍女たちが荷物を整えている時も、離宮の中が普段と違う気配になっていることを、とうに察しているようでした。
「蒼月」
リリアが呼ぶと、蒼月はゆっくりと顔を上げました。
蒼色の瞳が、まっすぐにリリアへ向けられます。
リリアは少し困ったように笑い、蒼月のそばへ歩み寄りました。
「ごめんね。今日は、蒼月はお留守番なの」
蒼月の耳が、わずかに後ろへ倒れました。
「王妃陛下が、王都の市場を見ておいでって言ってくださったの。毎日王宮の中だけでは窮屈でしょうって。少しだけ、外の空気を吸ってきなさいって」
リリアは蒼月の前に膝をつき、銀の毛並みにそっと手を置きました。
「本当は、あなたが一緒にいてくれた方が私も安心よ。でも、蒼月が市場を歩いたら、きっとみんな驚いてしまうでしょう? そうしたら、お忍びではなくなってしまうもの」
蒼月はじっとリリアを見つめていました。
責めているわけではないのに、その視線を向けられると、置いていくこちらの方が悪いことをしているような気持ちになってしまいます。
「すぐ戻るわ。ルークも、セシリアさんも、護衛の方々も一緒だから」
リリアがそう言うと、蒼月はしばらく動きませんでした。
けれど、やがて尾先だけを一度揺らし、また前足の上に顎を乗せました。
納得した、というよりは、今回は見逃してやると言っているようでした。
リリアは小さく笑い、蒼月の首元をそっと撫でました。
「ありがとう、蒼月。おいしいお菓子があったら、お土産を買って帰るから」
その言葉に、蒼月は片耳だけをぴくりと動かしました。
まるで、それなら許すとでも言うような仕草でした。
リリアはもう一度だけ蒼月を撫でてから立ち上がりました。
「行ってきます」
窓辺の蒼月は、静かにリリアを見送りました。
その蒼色の瞳に背中を押されるようにして、リリアはルークたちとともに、離宮を後にしました。
王都の市場は、リリアが思っていた以上に賑やかでした。
大通りには色とりどりの布を張った露店が並び、焼きたてのパンの香りや、果物の甘い匂い、香辛料の少し刺激のある匂いが混じり合っています。
荷車を押す商人の声、子供たちの笑い声、値段を交渉する人々の声があちこちから聞こえ、王宮の整えられた静けさとはまるで違う熱を持っていました。
リリアは思わず足を止めました。
「すごい……」
小さく呟いた声に、ルークが少しだけ表情を和らげます。
「王都で一番大きな市場です。朝はもっと混み合いますが、今日は比較的歩きやすい時間を選びました」
「これで、歩きやすいのですか?」
リリアが驚いて見上げると、ルークは苦笑しました。
「ええ。祭りの日などは、もっと大変ですよ」
リリアは目を瞬かせました。
これ以上の賑わいなど、うまく想像できません。
露店には、町では見たことのない果物や、色鮮やかな菓子、薄い布、革細工、小さな香油の瓶が並んでいました。
王宮で出される品々とは違い、どれも人の手の温度が近くに感じられます。
売り手は客へ声をかけ、客は品物を手に取って笑い、時には真剣な顔で値段を尋ねていました。
「リリア様、気になるものがあれば見て構いませんよ」
セシリアにそう言われ、リリアは少し迷ったあと、小さな焼き菓子を並べている露店の前で足を止めました。
丸い菓子には蜂蜜が薄く塗られ、上に砕いた木の実が散らされています。
焼き色は美しく、近づくだけで甘く香ばしい匂いがしました。
「お嬢さん、ひとつどうだい? 今朝焼いたばかりだよ」
店主の女性が明るく声をかけてきました。
リリアは一瞬、どう答えればよいか迷いました。
王宮の作法なら少しずつ覚えています。
けれど、市場で菓子を買う時の自然な言葉は、町にいた頃の方がずっとよく知っていたはずでした。
「では……ひとつ、いただけますか」
リリアがそう言うと、店主はにこりと笑って菓子を紙に包みました。
「はいよ。熱いうちがおいしいからね」
受け取った菓子は、手のひらの中でほんのり温かく、リリアは思わず微笑みました。
王宮のお茶会で出される菓子とは違います。
形も飾りも素朴で、けれど香りはとても優しく、町で過ごしていた頃の祭りの日を思い出させました。
少しだけ口にすると、蜂蜜の甘さと木の実の香ばしさが広がります。
「おいしい……」
小さく漏れた声に、隣のセシリアが嬉しそうに微笑みました。
ルークも少し離れたところで周囲を確認しながら、穏やかな目でリリアを見ていました。
リリアは菓子を大切に両手で持ち、もう一度、賑やかな市場を見渡しました。
焼きたての匂いも、行き交う人々の声も、誰かが誰かのために品物を選ぶ姿も、すべてが王宮の中とは違っていました。
市場を歩いたあとは、王都の中心にそびえる高い塔へ向かいました。
古い石造りの塔で、かつては見張りのために使われていたものだとルークが教えてくれました。
今では王都を訪れる者や、町の子供たちが上から景色を見るために登ることもあるそうです。
階段は思ったよりも長く、上へ行くほど風が強くなりました。
リリアは途中で少し息を整えながら、それでも一段ずつ登っていきます。
森の道を歩くことには慣れていましたが、石の階段を延々と登るのはまた違った疲れがありました。
ようやく塔の上へ出た時、リリアは言葉を失いました。
眼下に、王都が広がっていました。
王宮の白い壁と尖塔。
市場を覆う色とりどりの布屋根。
職人街から細く上る煙。
大きな教会の尖塔。
遠くには王都を囲む外壁と、その向こうへ続く道が見えます。
人々は小さな点のように行き交い、荷車は細い線のような通りをゆっくり進んでいました。
「王都は……こんなに広いのですね」
リリアの声は、風の中で少し震えていました。
「ええ。王宮から見える王都は、ごく一部です」
ルークは静かに言いました。
「ここには貴族も、商人も、職人も、兵士も、学者も、旅人も暮らしています。王宮で決められることは、この町の人々の暮らしにもつながっているのです」
リリアは塔の手すりにそっと手を置き、遠くの街並みを見つめました。
風が頬を撫で、遠くから市場のざわめきがかすかに届いてきます。
塔を下りたあと、ルークは王立展示館へ案内してくれました。
美術館とも呼ばれているその建物には、王国の歴史を描いた絵や、古い英雄たちの肖像、祭礼に使われた道具などが並んでいました。
リリアは静かな館内を歩きながら、壁にかけられた大きな絵を見上げました。
そこには、古い戦いの場面が描かれていました。
暗い空の下、騎士たちが剣を掲げ、星術師らしき人々が光の陣を広げています。
絵の端には、黒い靄のようなものに包まれた魔物の影がありました。
今の時代に描かれたものではなく、遠い昔の記録をもとにした絵なのだと説明書きにはあります。
「これは……魔物ですか?」
リリアが小さく尋ねると、ルークは絵を見上げました。
「古い伝承を描いたものです。今では、ほとんど物語の中の存在のように語られていますが、王宮には、かつて魔物や瘴気による災厄があったという記録が残されています」
その言葉を聞いた瞬間、リリアの胸の奥がわずかに重くなりました。
王宮で瘴気に蝕まれた兵士を浄化した時のことを思い出します。
あの黒く濁った気配は、絵の中の靄とどこか似ているようにも見えました。
ルークは、リリアの表情が変わったことに気づいたのか、声を少し柔らかくしました。
「今日は難しい話をするために来たわけではありません。ただ、こうしたものも、この国が歩んできた歴史の一部です」
「はい」
リリアはもう一度、絵を見上げました。
美しい絵でした。
けれど、その美しさの中には、確かに恐ろしさもありました。
戦う人々、祈る人々、そして闇の中から現れるもの。
リリアはしばらく、その絵の前から動けませんでした。
展示館を出る頃には、陽が少し傾き始めていました。
その足で、リリアたちは王都の大きな教会へ向かいました。
白い石で造られたその建物は、王宮ほど華やかではありませんが、静かで澄んだ空気をまとっていました。
高い窓から差し込む光が床に淡く落ち、人々はそれぞれの場所で静かに祈りを捧げています。
リリアは入口近くで足を止めました。
町にも小さな祈りの場はありました。
けれど、王都の教会はずっと大きく、そこに集まる人々の数も多く、祈りの気配が幾重にも重なっているように感じられました。
老いた女性が両手を組み、若い母親が眠る子供を抱き、仕事帰りらしい男が目を閉じて立っています。
誰も大きな声を出してはいません。
けれど、その沈黙の中に、それぞれの願いがあるのだと分かりました。
「皆さん、何を祈っているのでしょう」
リリアが小さく呟くと、ルークは少し考えてから答えました。
「人によって違うでしょう。家族の無事、病の回復、商売の成功、旅の安全。あるいは、ただ今日一日を無事に終えられたことへの感謝かもしれません」
リリアは静かに頷きました。
胸の前でそっと手を組みます。
何を祈ればよいのか、すぐには分かりませんでした。
ただ、今ここにいる人々の願いが、少しでも穏やかな場所へ届けばいいと思いました。
教会を出ると、帰り道は少しだけ表通りから外れました。
最初は、人通りの少ない静かな道だと思いました。
けれど歩いていくうちに、リリアは表通りとは違う空気に気づきました。
建物は古く、壁にはひびが入り、足元の石畳もところどころ欠けています。
陽の届きにくい路地には、湿った空気がたまり、冷えた石の匂いがかすかに漂っていました。
「……表通りとは、ずいぶん違うのですね」
リリアは思わず、声を落として呟きました。
その場で足を止めると、路地の奥には、痩せた子供が二人、古い布をまとって座っていました。
小さな店の前では、年老いた男が壊れた道具を直しており、家の軒先には疲れた顔の女性が水桶を抱えています。
表通りの明るいざわめきも、焼き菓子の甘い香りも、ここまではほとんど届いていませんでした。
「ここも……王都なのですね」
声に出してから、自分でも当たり前のことを言ったのだと分かりました。
それでも、同じ王都の中に、塔の上から見えた美しい街並みや、賑やかな市場とはこんなにも違う場所があることを、リリアはうまく受け止めきれませんでした。
ルークはしばらく黙っていました。
その横顔は、リリアが目の前の光景をどう受け止めるのか、静かに見守っているようでした。
「王都は豊かな町です。けれど、すべての人が同じように暮らせるわけではありません。仕事を失う者もいます。病で働けなくなる者もいます。地方から来たまま、暮らしを立て直せない者もいます」
リリアは路地の奥を見つめました。
町にいた頃にも、暮らしに余裕のない人はいました。
怪我をして働けなくなった人や、病で寝込んだ人の家に薬草を届けたこともあります。
心のどこかで、王都は華やかで、豊かで、何もかもが整っている場所なのだと思い込んでいたのです。
リリアはすぐには言葉を返せませんでした。
胸の奥に残った重みを抱えたまま、もう一度だけ、静かな路地を見つめました。
宮殿へ戻る頃には、空は夕暮れの色に染まり始めていました。
宮殿の入口に近づくと、窓辺にいた蒼月がすぐに顔を上げました。
リリアの姿を見つけた瞬間、耳がぴんと立ち、蒼色の瞳がまっすぐにこちらへ向けられます。
「ただいま、蒼月」
リリアが声をかけると、蒼月はゆっくりと立ち上がり、扉の近くまで歩いてきました。
焼き菓子の匂いでも残っていたのか、ほんの少しだけ鼻を動かします。
「ふふ。ちゃんとお菓子も食べてきたわ。すごくおいしかったの。もちろん、あなたにも買ってきたわ」
リリアは蒼月の首元に手を置き、今日見たことを少しずつ話しました。
市場で食べた焼き菓子のこと。
高い塔から見た王都のこと。
展示館で見た古い絵のこと。
教会で祈っていた人々のこと。
そして、表通りの影にあった静かな路地のこと。
蒼月は黙ってそばに伏せ、リリアの声を聞いていました。
時折、尾先だけがゆっくり揺れます。
「王都は、とても美しかったわ」
リリアは窓の外へ視線を向けました。
夕暮れの向こうで、王都の屋根が淡く光っています。
「でも、美しいだけではなかった」
リリアは今日一日で見た景色を、ひとつずつ胸の奥へしまっていきました。
「王宮で学ぶ歴史も、法律も、礼儀作法も……ただ覚えるためのものではないのね」
蒼月は黙って、リリアのそばに伏せています。
「人がどう暮らして、何を願って、どこで苦しんでいるのか。それを見落とさないために、必要なものなのかもしれないわ」
リリアは蒼月の毛並みにそっと指を沈めました。
「いつか、私にできることがあるのなら……目の前で助けを求める人だけじゃなくて、声を上げることもできない誰かの痛みにも気づける人でありたい」
蒼月が静かに鼻を鳴らしました。
リリアはその温もりに手を添えながら、夕暮れの王都を見つめました。
今日見た光も影も、まだうまく言葉にはできません。
けれど、そのどちらも忘れてはいけないものなのだと、リリアには分かっていました。
王都での日々は、まだ始まったばかりでした。
けれどその日、リリアの中には、ただ守られるだけではない、もっと深い思いが静かに芽生え始めていたのです。




