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銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお


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第十四話 修練

離宮で迎える最初の朝は、思っていたよりも慌ただしく始まりました。

まだ空に薄い朝靄が残る頃、リリアは侍女に起こされ、身支度を整えられます。

白いブラウスに動きやすい深緑の服を合わせ、金の髪はいつものように結い上げられました。

鏡に映る自分は、町で薬草籠を抱えて森へ向かっていた頃と同じ顔をしているはずでした。

それなのに、置かれている場所だけがまるで違って見えます。

今日から、本格的な学びと修練が始まるのです。


朝食を終えて間もなく、離宮の扉が静かに叩かれました。

侍女長のセシリアが応対に出ると、一人の男性が室内へ案内されてきます。

落ち着いた灰色の髪に、隙のない身なり。

穏やかな表情を浮かべてはいるものの、その立ち姿には、王国の政を預かる者だけが持つ重みがありました。

宰相、ハインリヒ・フォン・ヴァイスベルクでした。

リリアは立ち上がり、教わったばかりの礼をします。


「おはようございます。ハインリヒ様」


「朝早くに失礼する。リリア・グランベル殿」


ハインリヒは軽く一礼し、静かに告げました。


「本日は、陛下の御意を受け、そなた自身の意思を確認するために参った」


国に協力する。

その言葉は、リリアが思っていたよりもずっと大きく響きました。

ハインリヒは急かすことなく続けます。


「王国は、そなたに浄化の力を無理に使わせるつもりはない。だが、瘴気や魔物によって苦しむ者がいる以上、陛下はそなたの力を借りたいとお考えだ」


室内が静まり返りました。

窓辺で伏せていた蒼月が、ゆっくりと顔を上げます。

蒼色の瞳は、ただ静かにリリアへ向けられていました。


「リリア殿。陛下は、そなたの力を王国のため、そして苦しむ民のために借り受けたいとお考えだ。だが、その前に、そなた自身の気持ちを確かめておきたい」


リリアは膝の上の手を見ました。

これまで目にしてきた瘴気の光景が、頭の中をめぐります。

町を襲った魔物の気配。

謁見の間で、黒い靄に侵されていた兵士の姿。

そして、王妃様がかけてくれた言葉を思い出します。


「……私にできることがあるのなら、協力したいです」


声は少し震えていました。

それでも、リリアは言葉を続けます。


「瘴気で苦しむ人がいるなら、見なかったことにはできません。魔物に傷つけられる人がいるなら、助けたいです。でも、分からないまま大きな約束をするのは、少し怖いです」


ハインリヒは口を挟まず、リリアの答えを待ちました。


「だから、学ばせてください。私の力で何ができて、何をしてはいけないのか。どうすれば人を助けられて、どうすれば自分も壊れずにいられるのか。それをちゃんと知った上で、王国に協力したいです」


しばらくの沈黙のあと、ハインリヒの厳かな表情がわずかに和らぎました。


「十分な答えだ」


リリアは静かにその言葉を受け止めました。


「陛下は、そなたに即座の忠誠や、無条件の奉仕を求めておられるわけではない。自らの意思で学び、理解し、その上で力を貸すというのであれば、それこそが王国にとって何より尊い協力となる」


ハインリヒは改めてリリアへ向き直りました。


「その言葉、陛下へ確かにお伝えする」


リリアは小さく頷きました。


ハインリヒが離宮を辞したあと、しばらくして、王宮から数名の教師たちが訪れました。

先頭に立っていたのは、白髪をきちんと結い上げた年配の貴婦人です。

背筋はすっと伸び、濃紺の上品なドレスには余計な飾りがありません。

柔らかな微笑みを浮かべてはいるものの、その立ち姿には、甘えも曖昧さも許さない厳しさがありました。

その後ろには、書類を抱えた貴族文官と、穏やかな目をした学者風の貴族が控えています。

ルークは彼らの少し後ろに立ち、予定表と書類を手にしています。

貴婦人が一歩前へ出ました。


「リリア様。本日より、陛下のご命令により、あなたの教育を担当いたします。私はマルグリット・フォン・エーレンベルク。礼儀作法、言葉遣い、社交の基礎をお教えいたします」


リリアは姿勢を正し、教わったばかりの礼をしました。


「リリア・グランベルです。よろしくお願いいたします」


マルグリットはその礼を確かめるように見て、ほんのわずかに頷きました。


「礼の角度は悪くありません。ただし、肩に力が入りすぎています。後ほど直しましょう」


「は、はい」


最初の一言から直され、リリアの背筋は自然と伸びました。

続いて、書類を抱えた貴族文官が一礼します。


「クラウス・フォン・レーヴェンベルクと申します。王国史、法律、王国制度の基礎を担当いたします。少々堅い内容になりますが、あなたがこれから人前に立つ上で、避けては通れないものです」


その隣で、穏やかな目をした男性が微笑みました。


「エドモンド・フォン・リースフェルトです。読み書き、計算、記録の取り方を担当いたします。基礎とは、すべての土台です。焦らず、一つずつ積み上げていきましょう」


リリアは一人ひとりに向かって、改めて礼をしました。

教師たちは皆、貴族としての気品と厳しさを備えていましたが、その目に侮りはありません。

マルグリットが机の上に置かれた予定表へ視線を落とします。


「まず最初に申し上げておきます。これからあなたに学んでいただく内容は、本来であれば、貴族の子息や令嬢が幼い頃から何年もかけて身につけるものです。礼儀作法、言葉遣い、読み書き、計算、王国史、法律、王国制度、社交の基礎。そして、あなたの場合はそれに加えて、魔法の制御と護身術もあります」


その言葉は、予定表に並ぶ文字よりも重く感じられました。

王妃ヴィクトリアの言葉を思い出します。

学ぶことは、自分を飾るためではない。

誰かに見下されず、自分の言葉で立ち、自分を守るために必要なのだと。


「基本的な一日の流れをご説明いたします」


リリアは机の上に広げられた予定表を見ました。

朝から夕方までの時間が細かく区切られ、見慣れない言葉がいくつも並んでいます。


「午前中は、今申し上げた座学が中心となります。あなたがこれから王宮で過ごし、人前に立ち、他国の者とも言葉を交わすために必要なものを学んでいただきます」


リリアは読み書きができないわけではありません。

子供の頃、町には子供たちが通う小さな学び舎のような場所がありました。

そこで読み書きと、暮らしに必要な簡単な計算は教わっています。

薬草を扱うようになってからは、母に教わりながら、薬草の名前や調合の分量、怪我人の様子を書き留めることもありました。

けれど、それは町で暮らしていくための知識です。

王宮で求められる学びは、まるで違いました。

正式な文書の読み方、貴族の爵位、王国の成り立ち、法律の言い回し、宮廷での言葉遣い、他国の者と向き合うための作法。

耳に入ってくるのは確かに同じ王国の言葉なのに、まるで知らない国の話を聞いているようでした。


「そして午後は、実践です」


マルグリットは続けました。


「魔法訓練と体術、護身術を日替わりで行います。魔法については、星術院長官アステル様が直接ご覧になります。体術と護身術は、近衛騎士団第二隊隊長、エレナ・フォン・シュヴァルツ様が担当なさいます」


リリアの中に、凛とした声で自分の身を守る術を教えると言ってくれた女性騎士の姿が浮かびました。


「午前に学び、午後に身体で覚える。これが、しばらくの間の基本となります」


マルグリットの声は厳しく、けれどはっきりとしていました。


それでも、目の前の予定表に詰め込まれた一日の重さは、想像していた以上でした。


「厳しい日々になるでしょう」


マルグリットは淡々と言いました。


「できないことを、できないままにはいたしません。間違いはその場で直します。分からないことは、その場で確認していただきます。分からないまま頷くことは、もっとも危険です」


リリアの指先が、わずかに強張りました。

けれど、うつむきはしません。

窓辺で伏せていた蒼月が、静かにこちらを見ています。

その姿が、そばにいると伝えてくれているようでした。


「……分からないことがあれば、その場でお聞きしてもよろしいでしょうか」


マルグリットの眉が、わずかに動きました。


「もちろんです」


「間違えた時も、もう一度やらせていただけますか」


「何度でも。ただし、同じ間違いを繰り返さぬよう、考えながらおやりなさい」


厳しい言葉でした。

けれど、突き放す冷たさではありません。

リリアは深く頷きました。


「はい。お願いします。私、一つずつ学んでいきたいです」


ルークは後ろで静かにその様子を見守っていました。

何かを言うことはありません。

ただ、リリアが自分の言葉で前に出たことに気づいたように、ほんのわずか表情を和らげます。

守られるだけではなく、自分でも立てるようになるために。

リリアの長い一日が、そこから始まりました。


その日から、リリアの厳しい授業の日々が続きました。

午前中は、日替わりで礼儀作法、言葉遣い、読み書き、計算、王国史、法律、王国制度の勉強です。

最初のうちは、何を言われているのか、ほとんど分かりませんでした。

文字は読めるはずなのに、正式な文書になると意味を追うだけで精一杯です。

簡単な計算ならできるはずなのに、税や物資の記録、王宮で使われる単位が絡むと、数字が頭の中でほどけなくなります。

礼の角度を直され、歩く速さを直され、椅子に座る姿勢まで直されました。

読み書きの授業では、同じ言葉でも日常で使う言い方と正式な文書に使う言い方が違うことを知りました。

法律の講義では、ひとつの言葉にいくつもの意味が含まれていることに戸惑います。

王国史では聞き慣れない地名や古い王の名が次々と出てきて、追いつくだけで精一杯でした。


「……すみません。もう一度、教えていただけますでしょうか」


リリアは何度もそう言いました。

恥ずかしくないわけではありません。

分からないと口にするたび、自分だけがひどく遅れているように感じます。

それでも、分からないまま頷くことの方が危険だと、最初の日に教えられていました。

教師たちは、リリアが理解するまで何度でもやり直させました。

厳しい授業ではありましたが、誰一人としてリリアを笑う者はいませんでした。


ある日の法律の講義で、クラウスは町の薬草売りを例に出しました。


「たとえば、薬草を売る者が効能を偽れば、それは買った者の命に関わります。だからこそ、王国には売買や治療に関する決まりがあるのです」


その言葉を聞いた時、リリアは初めて、難しい法律の言葉が少しだけ身近なものに感じられました。

薬草には、使い方を誤れば毒になるものもあります。

分量を守ること、効能を偽らないこと、相手の状態をきちんと見ること。

町で母から教わってきたことと、王国の決まりは、まったく別のものではないのかもしれません。


「……人を守るための決まり、なのですね」


リリアが小さく呟くと、クラウスは静かに頷きました。


「その通りです。法律とは、人を縛るためだけのものではありません。弱い立場の者が、不当に傷つけられないための盾でもあります」


その日から、リリアは法律の言葉を、ただ難しいものとしてだけではなく、誰かを守るための仕組みとして見ようとするようになりました。


数日が過ぎると、授業には社交の基礎も加わりました。

その中に、社交ダンスがありました。


「社交ダンスも学ぶのですか?」


思わず聞き返したリリアに、マルグリットは当然のように頷きました。


「もちろんです。王宮では、言葉だけが会話ではありません。立ち方、歩き方、礼の仕方、手の差し出し方、相手との距離。そのすべてが、あなたの立場を示します。舞踏の場では、なおさらです」


豊穣祭で、巫女として豊穣の舞を踊ったことはあります。

けれど、王宮の社交ダンスは、それとはまったく違うものでした。


「社交の場で不用意に怯えたり、相手に引きずられたりしてはなりません。踊ることは、飾りではありません。自分の姿勢を保ち、相手との距離を知り、人前で乱れずに立つための訓練でもあります」


王宮での晩餐会で、王子の足を何度も踏んでしまったことを思い出します。

社交ダンスも、自分を守るための学びなのです。

そう考えると、ただ恥ずかしいだけのものではない気がしました。

最初は、何もかもが難しく感じられました。

足の運びを覚えようとすれば手の位置を忘れ、手を意識すれば背筋が丸くなります。

背筋を伸ばせば今度は顔がこわばり、また最初からやり直しでした。


午後には、日替わりで実践訓練が待っていました。


魔法の日には、王宮の一角にある訓練室で、アステルが待っています。

床には淡く光る魔法陣が刻まれ、壁際には測定用の水晶や記録台が並んでいました。

初めてその部屋に入った時、リリアは思わず足を止めました。

町の薬草小屋や、怪我人を寝かせるための小さな部屋とは、まるで違う場所だったからです。


「緊張していますか」


アステルに静かに尋ねられ、リリアは頷きました。


「……はい。少し」


「正直でよろしい。魔法は心の揺れにも影響されます。まずは深く息をしてください」


リリアは言われた通り、ゆっくり息を整えました。

そばでは蒼月が伏せたまま、蒼色の瞳でこちらを見守っています。

アステルは測定用の水晶を机に置きました。


「今日は、あなたに難しい魔法を覚えさせるための日ではありません。まずは、あなたの力が何に向いているのかを確認します。治癒、浄化、防御、強化、解毒、そして薬草や治療薬への付与。ひとつずつ確かめていきましょう」


「薬草にも、魔法を使うのですか」


「ええ。あなたは薬草に詳しいと聞いています。もし治癒の力を薬草や治療薬に付与できれば、あなたがその場にいない時でも治療を助けられる可能性があります」


自分の手が届かない場所にも、助けを残せるかもしれない。

それはリリアにとって、大きな意味を持つことでした。

最初に確認したのは、治癒術です。

アステルは、小さな裂け目を入れた訓練用の布片を示しました。

人を傷つけて試すわけではないと説明され、リリアは安堵します。


「これまでのあなたは、ほとんど感覚だけで治癒を使っていました。ですが、魔法はただ魔力を流せばよいものではありません」


アステルはリリアの手の前に、淡い光の輪を浮かび上がらせました。

複雑な文様を持つ魔法陣が、空中に静かに回転しています。


「魔法陣は、魔力の流れを整えるための器です。正しく構築できれば、少ない魔力で、より安定した効果を出すことができます」


「これを、描くのですか?」


「実際に紙や床へ描く必要はありません。術者が形を正しく覚え、頭の中ではっきりと思い浮かべるのです。そうすれば、必要な場所に魔法陣を発生させることができます」


アステルは、リリアの手と訓練用の布片の間を指さしました。


「治癒なら、あなたの手と傷の間に魔法陣を置く。魔力を直接流すのではなく、魔法陣を通して傷へ届けるのです。そして、最後に魔法の名をはっきり唱える」


リリアは教えられた通り、傷の前へ手をかざしました。

頭の中で、アステルが見せてくれた魔法陣を思い浮かべます。

最初は輪郭が揺らぎ、文様もぼやけました。

何度か呼吸を整えるうち、手の前に淡い光の輪がかすかに浮かびます。


「……ヒール」


リリアが唱えた瞬間、光が魔法陣を通って布片へ流れ込みました。

裂け目は、先ほどよりも穏やかに、けれど確かに塞がっていきます。

アステルは水晶の色を確認し、静かに頷きました。


「よろしい。まだ不安定ですが、魔力の無駄が少なくなっています。これを覚えれば、あなた自身への負担も減るでしょう」


次に、瘴気を模した黒い靄をまとわせた布片が置かれました。

リリアが手をかざした瞬間、先ほどとは違う感覚が胸の奥に生まれます。

傷を塞ぐのではなく、黒く濁ったものを洗い流すような感覚です。

淡い光が広がると、黒い靄は音もなく薄れていきました。

アステルの目がわずかに鋭くなります。


「やはり、これは治癒とは別の力です。治癒は、傷ついたものを元へ戻そうとする力。浄化は、入り込んだ瘴気や穢れを祓う力です。そして浄化の方が、あなた自身への負担が大きい」


「負担……」


「今、胸の奥が少し重くありませんか」


言われて初めて、リリアは自分の身体に意識を向けました。

確かに、ほんの少しだけ胸の奥が重く感じられます。


「……少し、重いです」


「それが兆候です。あなたは人を助けたいあまり、自分の疲れに気づくのが遅いかもしれない。だから、限界を知る必要があります」


その後、攻撃魔法の確認も行われました。

リリアは教えられた通りに手をかざしましたが、火も風も形にはなりません。

指先に集まった光は、淡く揺れて消えてしまいました。

アステルはそれ以上、無理に続けさせませんでした。


「攻撃への適性は薄いようですね。ですが、それで構いません。ここからは、あなたが本来向いている力を確認しましょう」


リリアは少しだけ肩の力を抜きました。

次に試したのは、防御結界でした。

アステルに教えられた通り、手の前に魔法陣を思い浮かべ、息を整えます。

淡い光が薄い膜のように広がり、リリアの前に小さな結界が生まれました。


「まだ薄いですが、結界の反応があります。守る力との相性は悪くありません」


「守る力……」


「ええ。あなたの魔力は、防御や補助に流れやすい」


続いて、身体強化の確認が行われました。

リリア自身の身体に魔力を巡らせると、重かった足が少しだけ軽くなり、呼吸も整いやすくなります。


「自身への身体強化も可能ですね。あなたの場合は、瞬間的に力を増すというより、疲労を抑え、動きを支える方向に向いているようです」


「誰かにも、同じことができますか」


「可能性はあります。他者への強化付与です。騎士の傷を癒やすだけでなく、一時的に疲労を和らげたり、身体の動きを助けたりすることができるかもしれません」


誰かが倒れずに立つための力なら、自分にも使えるかもしれません。

さらに、解毒の確認も行われました。

毒を模した薬液にリリアが手をかざし、魔法陣を通して魔力を流すと、濁っていた液体がゆっくりと澄んでいきます。


「解毒も可能ですね。これは治癒と浄化の中間に近い反応です」


アステルは興味深そうに記録を取りました。

最後に、アステルが用意した薬草と、訓練用の治療薬が机の上に置かれます。


「あなたは薬草に詳しいと聞いています」


「はい。町にいた頃から、母に教わっていました」


「では、薬草そのものと、すでに調合された治療薬とで、反応がどう違うか確認しましょう」


アステルはまず、乾燥させた薬草を一束、リリアの前へ置きました。


「薬草には、それ自体が持つ効能があります。そこへ無理に魔力を流し込めば、薬草の性質を壊してしまう。大切なのは、効能を塗り替えることではなく、薄く支えることです」


リリアは頷き、薬草の上に手をかざしました。

手の前に小さな魔法陣を思い浮かべ、薬草の葉脈に沿うように淡い光を重ねます。


「……ヒール」


光は強く弾けることなく、薬草の表面へ静かに染み込んでいきました。

葉の色が、ほんの少し鮮やかに見えます。

アステルは水晶の反応を確認し、短く頷きました。


「薬草の効能が高まっています。これは、人に直接治癒をかけるのとは違う反応ですね。薬草が本来持つ力を、あなたの治癒の魔力が補っている」


続いて、透明な小瓶に入った治療薬が置かれました。


「次は、すでに調合された治療薬です。こちらは薬草とは違い、複数の材料が混ざっています。力を強く流しすぎれば、薬の均衡が崩れる可能性があります。慎重に」


リリアは緊張しながら頷きました。

小瓶の前に魔法陣を発生させ、先ほどよりもさらに細く、薄く魔力を流します。

治療薬の液面が淡く揺れ、かすかな光を帯びました。


「……ヒール」


水晶が静かに反応しました。

アステルは記録を取りながら、興味深そうに目を細めます。


「こちらも薬効が高まっています。ただし、薬草よりも繊細ですね。調合済みの薬に付与する場合は、魔力量を誤ると効果が乱れるかもしれません」


「では、薬草に付与する方が安全なのですか?」


「今の段階では、その可能性が高いでしょう。薬草は素材そのもの。治療薬は、すでに人の手で整えられたものです。どちらにも使えますが、扱い方は分けて覚えなさい」


リリアは机の上の薬草と小瓶を見つめました。

直接手をかざして癒やすだけではない。

薬草に力を添えることができる。

治療薬の効果を高めることもできる。

もしそれができるなら、自分がその場にいない時でも、誰かの治療を助けられるかもしれません。


「私の力を、薬に添えることができるかもしれないのですね」


小さく呟いたリリアに、アステルは静かに頷きました。


「ええ。ですが、だからこそ慎重に学ぶ必要があります。薬は人を救いますが、扱いを誤れば害にもなる。あなたの魔力が加わるなら、なおさらです」


リリアは背筋を伸ばしました。

助けるための力だからこそ、正しく扱わなければならない。

それは、治癒も、浄化も、薬草への付与も同じなのだと、少しずつ理解していきました。


護身術の日には、エレナが待っていました。

町で毎日のように森へ通っていたリリアは、歩くことや動くことには慣れていたつもりでした。

けれど、誰かに狙われた時に身体を動かすことは、それとはまったく別の難しさがあります。

足を置く位置が少し違うだけで姿勢が崩れ、相手との距離を見誤れば、あっという間に腕を取られてしまいます。

リリアは何度も転び、何度も立ち上がりました。

その日の訓練が終わる頃、リリアは汗を拭いながら、エレナに向き直ります。


「エレナ様。朝の時間に走ってもよろしいでしょうか」


エレナは少しだけ意外そうにしました。


「自分からですか」


「はい。私は、町にいた頃から毎日のように森へ薬草を採りに行っていました。だから、歩くことや山道には慣れているつもりでした。でも、今日分かりました。それだけでは足りないのだと。誰かを助けるためにも、最後まで立っているためにも、もっと動けるようになりたいんです」


エレナはしばらく考え、それから静かに頷きました。


「よい心がけです。ただし、無理は禁物です。最初は速さではなく、呼吸と姿勢を崩さずに走ること。それを覚えなさい」


その翌朝から、リリアは毎朝、離宮の庭から王宮庭園の外周へ出て、決められた道を走るようになりました。

朝靄の中、まだ人の少ない庭園を走ると、冷たい空気が胸に入り、眠っていた身体が少しずつ目を覚ましていきます。

蒼月も当然のようについてきました。

リリアが息を乱しながら走る横を、蒼月は音もなく並んで進みます。

リリアの速さは、蒼月には散歩にもならないようでした。

少し先へ行っては振り返り、また少し先へ行っては振り返ります。

そのたびに、蒼色の瞳が「まだか」と言いたげにリリアへ向けられました。


「待って、蒼月……そんなに速く走れないわ」


リリアが息を切らしながら言うと、蒼月はぴたりと足を止めました。

それから、仕方がないと言わんばかりに耳を一度だけ動かし、ゆっくりとリリアの歩幅に合わせて戻ってきます。

その様子がどこか得意げで、けれど少しだけ拗ねているようにも見えて、リリアは小さく笑いました。


「もう……あなたは走るというより、歩いているだけでしょう?」


蒼月は尻尾の先だけを小さく揺らし、今度はリリアのすぐ隣を、歩くような速さで進みました。

時折、リリアの足元を確かめるように視線を落とし、石につまずきそうになると、すっと身体を寄せて進む向きを変えさせます。

急げと言っているのか、無理をするなと言っているのか、リリアには分かりません。

けれど、その銀の気配が隣にあるだけで、もう少しだけ足を前へ出せる気がしました。


法律の言葉の中に、町の人々の暮らしを守る決まりがあること。

王国史の中に、瘴気や魔物につながるかもしれない古い災厄の記録があること。

計算や記録が、薬草の調合や治療の記録にも役立つこと。

礼儀作法が、ただ貴族らしく見せるためではなく、相手に侮られず、自分の言葉を届けるためのものでもあること。

分かり始めると、学ぶことは少しずつ面白くなっていきました。

知らなかったことを知るたびに、目の前にあった世界が少しずつ広がっていきます。

王宮も、法律も、歴史も、最初は遠くて冷たいものに見えました。

けれど、その中には確かに、人が生きていくための知恵や、誰かを守るための仕組みがありました。

まだ、分からないことは山ほどあります。

それでもリリアは、授業の終わりに深く頭を下げました。


「ありがとうございました。明日も、よろしくお願いいたします」


その声には、初日のような怯えだけでなく、もっと知りたいという思いが、かすかに混じり始めていました。


――……――……――


蒼月は、王宮へ来てからしばらくのあいだ、リリアが不安そうな顔をしていることが気に入りませんでした。

けれど最近のリリアは、少し違います。

慣れない言葉に戸惑い、礼儀作法に何度も首を傾げながらも、知らなかったことを知るたびに、その表情は少しずつ明るくなっていました。

薬草に力を添えられるかもしれないと知った時など、リリアは町にいた頃のように、生き生きとした顔をしていました。

それを見るたび、蒼月の胸にも静かな満足が広がります。

けれど、気になることもありました。

王国の名。

王都の名。

古い災厄という言葉。

それらを耳にするたび、胸の奥で何かがかすかに響くことがあります。

けれど、それ以上は何も掴めません。

ただ、この場所の空気には、遠い昔に知っていたような懐かしさがありました。




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