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銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお


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第十三話 王妃

謁見を終えたその夜、リリアは王宮に用意された客室の奥で、静かに湯に身を沈めていました。

白い石で造られた浴槽には、ほのかに香草の香りが漂い、湯面には窓から差し込む月明かりが淡く揺れています。

けれど、身体を包む温かさとは裏腹に、リリアの胸の奥はまだ落ち着きませんでした。

王都に着いたばかりだというのに、国王陛下の前に立ち、瘴気に侵された兵士を癒やし、その力がただの治癒ではなく「浄化」と呼ばれるものだと告げられたのです。


「瘴気……浄化……」


町で怪我人の手当てをしていた頃には、考えもしなかった言葉でした。

その事実を思い返すたび、リリアは湯の中でそっと両手を見つめました。


謁見のあと、客室へ戻ったリリアに、ルークはこれからの修練と勉学について説明してくれました。


「まずは、浄化の力を安全に扱うための確認と修練が行われます。それから、万一に備えた護身術。王都で暮らすうえで必要な礼儀作法も、少しずつ覚えていただくことになります」


それだけなら、リリアにもまだ理解できました。

けれど、ルークの説明はそこで終わりませんでした。


「そのほかに、歴史、法律、計算、読み書き、王国の制度についても学んでいただきます」


「歴史、法律、計算……王国の、制度……?」


リリアは思わず聞き返しました。

町で薬草を摘み、母と暮らし、人々の小さな怪我や熱を診ていた自分には、あまりに遠い言葉ばかりだったのです。

けれど、心がすぐに追いつくわけではありませんでした。


湯浴みを終え、寝衣に着替えたリリアは、髪の水気を侍女に拭われながらも、どこか上の空でした。

侍女は丁寧に櫛を通し、濡れた金の髪を傷めないよう、そっと整えてくれます。

王宮の調度はどれも美しく、寝衣の布地も町で着ていたものとは比べものにならないほど柔らかい。

けれど、その恵まれた環境のひとつひとつが、リリアにはまだ自分のものではないように感じられました。

やがて侍女が静かに一礼して部屋を下がると、リリアは月明かりの差す窓辺へ歩み寄りました。


窓のそばには、蒼月が伏せていました。

王宮の中にあっても、その銀の毛並みは夜の森の静けさをまとっているようで、蒼色の瞳だけが月光を受けて深く澄んでいます。

リリアが近づくと、蒼月はゆっくりと顔を上げました。

その視線はいつもと変わらず静かで、言葉を持たないはずなのに、リリアの胸の内をすべて見透かしているようでした。


「……蒼月」


リリアはその名を呼び、窓辺に膝をつくようにして蒼月のそばへ座りました。

ふわりと触れた毛並みは、森で初めて出会った頃と同じように柔らかく、指先を沈めるだけで少しだけ心がほどけていきます。


「私、ちゃんとできるのかな」


小さくこぼした声は、夜の静けさに吸い込まれるようでした。

王の前では必死に背筋を伸ばしていました。

兵士を助けたい一心で力を使った時も、怖いと思う余裕などありませんでした。

けれど、すべてが終わって一人になると、不安は後から押し寄せてきます。


「治癒や浄化を学ぶのは分かるの。護身術も、きっと必要なんだと思う。でも、歴史や法律まで学ぶなんて……私、町で普通に暮らしていただけなのに」


蒼月は、ただリリアを見つめていました。

リリアが言葉を探す時間を待ってくれているような、そんな静かな優しさがありました。


「陛下も、宰相閣下も、アステル様も、みんな私のために言ってくれているのは分かっているの。でも、急に世界が広くなりすぎて……どこに立てばいいのか、分からなくなる時があるの」


言い終えると、リリアは蒼月の首元にそっと額を寄せました。

蒼月は少しだけ身じろぎし、まるで彼女を包むように尾を寄せます。

その仕草に、リリアはようやく小さく息を吐きました。

王宮の厚い壁の中にいても、蒼月がそばにいる。

それだけで、胸の奥に残っていた震えは少しずつ静まっていきました。


「……ありがとう。あなたがいてくれるから、私、ここにいられるのね」


蒼月は低く、短く鼻を鳴らしました。

返事のようなその音に、リリアはわずかに笑みを浮かべます。

明日になれば、また知らないことが待っている。

けれど今だけは、月明かりの中で蒼月の温もりに寄り添い、少しだけ心を休めてもよいのだと思えました。


翌朝、リリアのもとへ王妃ヴィクトリアからの使いが訪れました。

国王の前に出た時とはまた違う緊張が、リリアの胸をそっと締めつけます。

王妃に呼ばれるなど、町で暮らしていた頃の自分なら想像すらできなかったことでした。

侍女に整えられた清潔な衣を身につけ、髪をきちんと結い直されるあいだも、リリアは何度も昨日教わった礼の仕方を頭の中で繰り返しました。

背筋を伸ばし、視線を下げすぎず、失礼にならぬように。

たったそれだけのことが、今のリリアには難しい試験のように思えました。


案内された王妃の居室は、柔らかな気品が漂っていました。

窓辺には淡い色の花が活けられ、磨かれた木の机には繊細な陶器の茶器が並べられています。

壁にかけられた織物も、金銀で飾り立てるというより、長い年月を経た上質な品であることが分かる、落ち着いた美しさを持っていました。

その部屋の奥に、王妃ヴィクトリアが座っていました。

深い栗色の髪は艶やかに結い上げられ、琥珀色の瞳は温かくも聡明な光を宿しています。

王妃という名にふさわしい気品と威厳を備えながら、そのまなざしには温かみがありました。

リリアは扉の前で一礼し、部屋の中央まで進み、教わった通りに深く礼をしました。


「お招きいただき、ありがとうございます。王妃陛下」


ヴィクトリアは、ふっと柔らかく微笑みました。


「そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよ、リリアさん」


その一言で、張り詰めていた空気が少しだけ緩みました。

リリアが戸惑って顔を上げると、ヴィクトリアは椅子から立ち上がり、自らリリアのそばへ歩み寄ります。


「昨日は本当に大変でしたね。王都に着いたばかりで、謁見に、力の実演に、これからの話まで。あれでは、どれほど気丈な娘でも疲れてしまいます」


「いえ……私は……」


「いいのですよ。無理に平気な顔をしなくても」


王妃の声は穏やかでしたが、不思議と逆らえない響きがありました。

それは王族としての威厳というより、人の心の揺れを見逃さない大人の女性の強さでした。

リリアが言葉に詰まっていると、ヴィクトリアは少しだけ肩をすくめ、侍女たちへ視線を向けました。


「まったく、男たちは気が利かないわね。あれほど大事な話を一度に聞かせておいて、あとは休めばよいというのですもの」


その言い方があまりに自然だったので、リリアは思わず瞬きをしました。

昨日、謁見の間で見た国王陛下も、宰相閣下も、星術院長官アステル様も、皆まじめに自分のことを考えてくれていたのは分かります。

けれど、王妃のこの一言には、彼らを責めるというより、足りない部分を当然のように補おうとする温かさがありました。

ヴィクトリアが軽く手を上げると、侍女たちが静かに動き始めました。

銀の盆に載せられて運ばれてきたのは、香り高い紅茶と、リリアが見たこともない美しい菓子でした。

小さな焼き菓子には薄く砂糖がまぶされ、果実を使った菓子は宝石のように透き通っています。

町の祭りで口にした甘い焼き菓子とは違う、繊細で上品な甘さを思わせる品々に、リリアは思わず目を奪われました。


「今日は難しい話ばかりするために呼んだのではありません。まずは温かいお茶を飲んで、甘いものを少し食べましょう。心が張りつめたままでは、どんな大切な話も胸に入りませんから」


そう言って、ヴィクトリアはリリアを自分の向かいの席へ促しました。

リリアは恐縮しながら椅子に腰を下ろしましたが、王妃の居室に招かれ、同じ卓で茶をいただくという状況に、まだ現実感がありませんでした。

けれど紅茶の香りが湯気とともに立ち上ると、不思議と肩の力が少し抜けていきます。


「どうぞ。これは蜂蜜と木の実を使った焼き菓子です。甘すぎないから、朝にも食べやすいわ」


「ありがとうございます」


リリアは小さな菓子をひとつ取り、そっと口に運びました。

さくりとした軽い歯触りのあと、蜂蜜の柔らかな甘みと木の実の香ばしさが広がります。

思わず表情が緩みそうになり、リリアは慌てて背筋を伸ばしました。

その様子を見て、ヴィクトリアは楽しげに目を細めました。


「おいしい?」


「……はい。とても」


「よかった。王宮の菓子職人も喜びます」


王妃はそう言って紅茶に口をつけました。

その所作は美しく、無駄がなく、けれど見ている者を緊張させるものではありませんでした。

リリアはその姿を見ながら、自分がこれから学ぶ礼儀作法とは、ただ堅苦しく振る舞うためのものではないのかもしれないと、ほんの少しだけ思いました。


しばらく穏やかな沈黙が流れたあと、ヴィクトリアは静かに口を開きました。


「昨日、これからの修練や勉学について聞いたのでしょう。聞き慣れない言葉ばかりで、驚いたのではありませんか」


リリアの手が、茶器のそばでわずかに止まりました。


「はい」


「治癒や浄化、護身術ならまだしも、なぜ歴史や法律、礼儀作法まで必要なのか、と」


リリアは驚いて顔を上げました。

昨夜、蒼月にこぼした不安を、そのまま言い当てられたようでした。

王妃は責めるでもなく、ただ静かにリリアを見つめています。

その瞳に促されるように、リリアは正直に頷きました。


「……はい。必要だと言われたことは分かっています。でも、私は町で薬草を採って、母と暮らしていただけで……貴族の方々のように育ったわけではありません。歴史や法律や礼儀作法を学んで、本当に役に立つのか、まだよく分からなくて」


「そうでしょうね」


ヴィクトリアは穏やかに頷きました。


「けれど、リリアさん。あなたはこれから、町の中だけで生きる娘ではなくなります。もちろん、それはあなたの望みだけで決まったことではありません。だからこそ、周りの大人たちにはあなたを守る責任があります」


その言葉に、リリアは胸の奥が小さく震えるのを感じました。


昨日、これからの予定を聞いた時、リリアは自分が学ばなければならないことの多さに圧倒されていました。

宰相閣下も、星術院長官アステル様も、それぞれの立場から、リリアの力とこれからを見つめていたのだと思います。

けれど王妃は、まず「守る」という言葉を口にしたのです。


「あなたはこれから、貴族と話すでしょう。騎士とも、学者とも、神殿に関わる者とも、いずれは他国の人間とも出会うかもしれません。そして何より、助けを求めてあなたの前に来る人々がいるでしょう。その時、力だけを持っていても、あなた自身を守ることはできません」


「私自身を……守る」


「ええ。相手が何を求めているのか。どこまで応じてよいのか。どの言葉に気をつけるべきなのか。誰が本当にあなたを助けようとしているのか。そうしたことを見極めるには、知識が必要です。

歴史を知らなければ、今起きていることの真意は見えません。法律を知らなければ、自分の立場も相手の責も測れません。そして礼儀作法を知らなければ……悪意ある者に、あなたを傷つけるための『口実』を、無防備に差し出すことになります。知識は、あなたを守るための武装なのですよ」


リリアは何も言えませんでした。

歴史や法律という言葉は、昨日までただ遠く難しいものに思えていました。

けれど王妃の口から語られると、それらは急に現実味を帯びていきました。

知らないことは、ただ恥ずかしいだけではない。

知らないことで、自分を守れなくなることがあるのだと、初めて胸に落ちてきたのです。


「陛下は、あなたを飾り物にしたいのではありません。力を使わせるだけの存在にしたいのでもありません」


「当然、国王の庇護があれば、多くの者はあなたに手出しできないでしょう。けれど、それだけであなたの心や尊厳まで、すべて守れるわけではありません。どこへ行っても見下されず、自分の言葉で立ち、自分を守れるようにするために、陛下は学びの場を整えたのです。もちろん、言い方は少し厳しかったかもしれませんけれど」


最後の一言に、ヴィクトリアは少しだけ困ったように笑いました。

その笑みに、リリアの緊張もわずかにほどけます。


「陛下は……私のことを、そこまで考えてくださっているのでしょうか」


「ええ。あの方は言葉が足りないこともありますが、王として、あなたを危険の中へ送り出すことの重さを分かっています。そして私は、王妃としてだけでなく、一人の女として、あなたが王宮で傷つかないようにしたいと思っています」


リリアは息をのむように王妃を見つめました。

王妃は茶器を置き、少しだけ表情を改めました。


「そのために、私のもとにいる侍女の中から、あなたのそばにつける者を何名か選びました」


「侍女を、私に……?」


「ええ。身の回りの世話をするだけではありません。王宮での暮らしに慣れるまで、あなたを支え、必要なことを教え、余計な悪意から守るためです」


リリアは思わず手を握りしめました。

侍女をつけられるということ自体に戸惑いはあります。

自分はそんな立派な身分ではない、と反射的に思ってしまいます。

けれど王妃の声には、甘やかしではない、確かな判断がありました。


「もちろん、仕事ができるだけの者を選んだわけではありません。口が堅く、人を身分だけで見ない者。町娘だからとあなたを見下さず、必要な時にはきちんと支え、間違いがあれば穏やかに教えられる者です。王宮には、残念ながら善意だけの人間ばかりがいるわけではありません。あなたが無用な傷を負わないように、最初の守りは整えておくべきでしょう」


「……ありがとうございます」


リリアの声は、少し震えていました。

王都に来てから、多くの人が自分の力を見ていました。

けれど王妃は、力だけではなく、リリアという一人の娘の不安を見てくれている。

そのことが、胸に温かく広がっていきました。


「私、正直に言うと……昨日からずっと怖かったんです。皆さんが良くしてくださっているのに、こんなふうに思うのはいけないことだと分かっているのですが、急に知らない場所へ来て、知らないことばかりで、何を間違えてしまうのかも分からなくて」


「いけないことではありません」


ヴィクトリアはすぐに言いました。


「怖いと思うのは当然です。あなたは昨日まで、王宮で育った娘ではなかったのですから。分からないことを分からないと言えるのは、恥ではありません。むしろ、その方がずっと賢い。知らないまま分かったふりをする方が危ういのです」


その言葉に、リリアはようやく胸の奥に残っていた硬いものが少し溶けた気がしました。

何もかも完璧にこなさなければならないわけではない。

知らないことを学ぶために、自分はここにいるのだと思えたのです。


「リリアさん」


王妃は柔らかく名を呼びました。


「あなたは、力を持っているから大切なのではありません。もちろん、その力は多くの人を救うでしょう。けれど、それ以前に、あなた自身が守られるべき一人の人間なのです。そのことを忘れないでください」


リリアは言葉を返そうとして、すぐには声が出ませんでした。

町では、母とともに人を助ける側にいることが多かった。

怪我をした人、熱を出した子供、不安そうな老人。

自分はそういう人たちのために動くものだと思っていました。

けれど、王妃ははっきりと、あなたも守られるべきだと言ってくれたのです。


「……はい」


ようやく返した声は小さかったけれど、ヴィクトリアは満足そうに頷きました。


「よろしい。では、今日はそれを覚えて帰ってください。難しい勉強の話は、明日以降に教師たちが嫌というほどしてくれるでしょうから」


「嫌というほど、ですか」


思わずリリアが聞き返すと、ヴィクトリアは悪戯っぽく微笑みました。


「ええ。陛下が用意した教師陣ですもの。優秀で、真面目で、容赦がないでしょうね」


その言葉に、リリアは一瞬固まり、それから小さく笑ってしまいました。

王妃の前で笑ってしまったことに気づき、慌てて口元を押さえます。

けれどヴィクトリアは咎めず、むしろ嬉しそうに目を細めました。


「そう。その顔の方がいいわ。王宮では緊張することも多いでしょうけれど、笑ってはいけない場所ばかりではありません」


それからしばらく、二人は紅茶を飲みながら他愛のない話をしました。

リリアが町で薬草を採っていたこと、母と暮らしていたこと、森の季節の移ろい、蒼月と出会ってからの日々。

王妃は急かさず、必要以上に踏み込まず、それでいてリリアの言葉を丁寧に聞いてくれました。

時折、蒼月の話になると興味深そうに頷き、王宮の者たちが彼をどう受け入れるべきかも考えているようでした。

お茶会が終わる頃には、リリアの肩から朝の強張りはほとんど消えていました。

もちろん、不安がすべてなくなったわけではありません。

これから始まる学びが厳しいものになることも、王宮という場所に慣れるまで時間がかかることも分かっています。

それでも、自分を力としてだけ見ているのではない人がここにいる。

その事実は、リリアにとって大きな支えになりました。

退出の際、リリアは改めて深く礼をしました。


「王妃陛下、本日は本当にありがとうございました」


「またお茶を飲みにいらっしゃい。勉強に疲れた時でも、ただ甘いものが食べたくなった時でもかまいません」


「よろしいのですか」


「もちろん。私がそう言っているのですから、よいのです」


その言い方があまりに優しく、けれど王妃らしく堂々としていたので、リリアは今度こそ自然に微笑むことができました。


それから五日後、離宮への引っ越しの準備を整えたルークがリリアのもとを訪れました。


「リリア殿、宮殿の準備が整いました」


「宮殿……」


「はい。王宮庭園の一角にある、白い石造りの二階建ての建物です。長期滞在に向くよう整えられていますし、蒼月殿が過ごせる広さも確保されています。王妃陛下のご配慮で、侍女たちの部屋や調合に使える小部屋も用意されました」


「本当に、作っていただけたのですね……!」


「ええ。庭の薬草畑についても、王宮の庭師と相談してすでに土を整えてありますよ」


「ありがとうございます……!」


リリアは思わず両手を胸の前で合わせました。


王宮に来てから、豪華な部屋や美しい調度に囲まれても、どこか落ち着かない気持ちがありました。

けれど薬草を育てられる場所があると聞いた途端、足元に自分の居場所が少し戻ってきたような気がしたのです。

その日の午後、リリアは蒼月とともに離宮へ移りました。

王宮の庭園は広く、季節の花々が整然と植えられ、噴水の水音が澄んだ空気の中に響いています。

その一角に、白い石造りの二階建ての宮殿が静かに佇んでいました。

王宮本殿ほどの華やかさはありませんが、窓は大きく、陽当たりもよく、蔦の絡む壁には穏やかな時間が流れているようでした。

リリアはその建物を見上げ、胸の奥がふっと温かくなるのを感じました。

室内は明るく、必要なものが過不足なく整えられていました。

侍女たちは手際よく荷を運び込みながらも、リリアに対して過剰に距離を置くことはありませんでした。

王妃が選んだ者たちだということが、その穏やかな所作からも伝わってきます。


やがて、その中の一人である落ち着いた物腰の女性が一歩前へ進み、リリアへ深く一礼しました。


「本日より、リリア様付きの侍女長を務めさせていただきます。セシリア・フォン・リンドベルクと申します。王妃陛下より、リリア様が王宮で安心してお過ごしになれるよう、日々の暮らしから社交の場までお支えするよう申しつかっております」


リリアは慌てて姿勢を正し、セシリアへ向き直りました。


「リリア・グランベルです。こちらこそ、よろしくお願いいたします」


セシリアはその初々しい反応を笑うことなく、穏やかに微笑みました。

その自然な接し方に、リリアは王妃の言葉を思い出しました。

口が堅く、人を身分だけで見ない者。

まさにその通りの人たちなのだと感じました。

庭へ出ると、建物のそばには小さな花壇があり、その奥にまだ何も植えられていない柔らかな土の一角がありました。

ルークが「ここを薬草畑に」と説明する前に、リリアの目はもうその場所に釘づけになっていました。


「ここに、薬草を植えてもいいのですね」


「はい。ただし、毒性のあるものや強い魔力を帯びるものは、事前に相談してください」


「もちろんです」


リリアは嬉しそうに頷きました。


一方、蒼月は庭のあちこちを静かに歩き回っていました。

壁の高さ、窓の位置、木々の陰、庭から建物へ続く道。

まるでこの場所が安全かどうかを確かめるように、ゆっくりと周囲を確認していきます。

侍女たちはその姿に少し緊張した様子を見せましたが、リリアが穏やかに見守っているため、誰も騒ぎ立てることはありませんでした。

やがて蒼月は宮殿の正面へ戻り、リリアのそばで立ち止まると、満足したように短く鼻を鳴らしました。


「蒼月も、ここなら大丈夫だと思う?」


リリアが尋ねると、蒼月は蒼色の瞳で彼女を静かに見つめました。

その静かな視線に、リリアは自然と笑みを浮かべます。


「よかった。私も、ここなら少し落ち着けそう」


風が庭を抜け、花壇の葉を揺らしました。

遠くには王宮の高い塔が見え、空は淡く澄んでいます。

これから始まる日々は、きっと簡単ではありません。

学ばなければならないことは山ほどあり、知らない作法に戸惑うことも、厳しい修練に泣きたくなることもあるでしょう。

リリアは新しい住まいとなる白い宮殿を見上げました。

ここから、王都での本当の生活が始まるのです。


リリアはその夜、国王主催の小さな晩餐に招かれました。

それは大勢の貴族を集めた華やかな夜会ではなく、王家との顔合わせを兼ねた、静かな晩餐でした。

けれど、リリアにとってはそれだけでも十分に大きな出来事でした。

王妃のお茶会で少しだけ心は軽くなっていましたが、国王や王子たちと同じ卓につくと聞いただけで、胸の奥はまた落ち着かなくなります。

セシリアは、支度を整えながらリリアの緊張を察したように、穏やかに言いました。


「今宵の晩餐は、陛下と王妃陛下が、リリア様を正式な客人として大切にお迎えしていることを示すための場でございます」


「正式な、客人……」


「はい。ですから、完璧であろうとなさらなくて大丈夫です。ただし、困った時は無理に取り繕わず、私やルーク様の合図をご覧くださいませ」


リリアは小さく頷きました。

支度を終えた鏡の中には、町で薬草を摘んでいた頃の自分とは少し違う姿が映っていました。

身につけたのは、ローゼン領を発つ前に、領主アルベルトが王都で困らぬようにと用意してくれた晩餐会用のドレスでした。

淡い白を基調とした生地に、翡翠色の刺繍が流れるように施され、繊細な銀糸は灯りを受けるたびに柔らかな光を返しています。

肩から裾にかけて重なる薄絹は、朝露のように透き通り、華美すぎないのに、王宮の場に立っても見劣りしない気品をまとっていました。

セシリアの手で結われた金の髪には、ドレスに合わせた翡翠の髪飾りが添えられていました。


「とてもよくお似合いです」


セシリアが静かにそう言うと、リリアは少しだけ頬を赤くしました。

蒼月は部屋の隅からその様子を見ていました。

銀の毛並みは丁寧に整えられ、王宮の灯りを受けて淡く輝いています。

リリアがそちらを見ると、蒼月は蒼色の瞳で静かに見返しました。

その視線に、リリアはほんの少しだけ勇気をもらいました。


晩餐の間は、謁見の間ほど重々しくはありませんでした。

磨かれた長卓には白い布がかけられ、銀の燭台に灯された火が、陶器の器や硝子の杯に柔らかな光を落としています。

壁際には控えの者たちが静かに立ち、部屋の空気は格式を保ちながらも、王妃の居室に似た温かさを含んでいました。


そこへリリアが足を踏み入れた瞬間、同席していた重臣たちは思わず息を呑み、はっと目を見張りました。

昨日の謁見の時の装いやきちんとした挨拶もそうでしたが、辺境から来たただの純朴な娘だと思っていた彼女が、王宮の晩餐にふさわしい洗練された装いに身を包み、見違えるように堂々とした空気を纏っていたからです。

彼女の素朴な魅力を損なうことなく最大限に引き出した見事な手腕に、重臣たちは顔を見合わせます。


(あのローゼンの領主アルベルト……ただの武骨な男かと思っていたが、これほど見事に仕立て上げてくるとは。なかなかにやりおるな)


周囲からの驚きと称賛の視線を浴びながらも、リリアは教えられた通り、凛とした足取りで真っ直ぐに進み出ます。

ルークは、リリアの少し後ろに控えていました。

蒼月はリリアの席から離れすぎない場所に伏せ、静かに、しかし抜かりなく周囲の重臣たちの反応を観察しています。


国王アレクシスは、謁見の時よりもずっと穏やかな表情で、見違えたリリアを迎えました。


「よく来てくれたね、リリア・グランベル。素晴らしい装いだ。今宵は堅苦しい作法は気にせず、どうかゆっくりとくつろいでほしい」


「温かなお言葉と、この素晴らしいお席にお招きいただき、心より感謝申し上げます、国王陛下」


アレクシス王の労いの声に、リリアはふわりとドレスの裾をつまみ、教わったばかりの流れるような優雅な礼で応えました。


リリアが席につくと、王妃が柔らかく口を開きました。


「今宵は、王子たちにも改めて挨拶をさせましょう。謁見の間では、ゆっくり言葉を交わす余裕などありませんでしたものね」


王妃の言葉を受け、まず立ち上がったのは、落ち着いた雰囲気をまとった青年でした。


「改めてご挨拶を。第一王子、レオン・フォン・グランヴァルドです」


その声は穏やかでしたが、立ち居振る舞いには王太子らしい品格がありました。


「王太子として、そして王国に仕える者として、あなたと蒼月殿が救った民のこと、心より感謝いたします」


リリアは慌てて姿勢を正し、深く礼を返しました。


「リリア・グランベルです。こちらこそ、お目にかかれて光栄です」


レオンはその初々しい礼を受け、穏やかに微笑みました。


「今宵は、あまり堅くならなくて構いません。私のことは、レオンとお呼びください。私も、リリアとお呼びしてよろしいでしょうか」


「そ、そんな……殿下をお名前だけでお呼びするなど、私にはできません」


リリアが慌てて首を横に振ると、レオンは少しだけ楽しげに目を細めました。


「では、私から先に慣れることにしましょう。リリア」


レオンが一歩、穏やかに距離を詰めようとした時、王妃ヴィクトリアが静かに口を挟みました。


「レオン。その辺にしておきなさい。リリアさんが困っていますよ」


王妃の声は柔らかでしたが、そこには逆らいがたい響きがありました。

レオンは小さく苦笑し、素直に一礼しました。


「失礼いたしました。少し急ぎすぎましたね」


リリアは頬を赤くしたまま、ぎこちなく頭を下げました。


次に、リリアと年の近そうな青年が、少しだけ親しみを含んだ笑みを浮かべました。


「第二王子、セドリック・フォン・グランヴァルドです。リリア殿は私と同じ十九歳だと伺いました。同年生まれ同士、あまり堅くならず、よければ友人として接していただければ嬉しく思います」


「リリア・グランベルです。お目にかかれて光栄です」


「そ、そんな……私などが、殿下のご友人など……」


リリアが慌てて言いかけた時、王妃ヴィクトリアが小さく咳払いをしました。


「セドリック」


その一言だけで、セドリックはすぐに笑みを整えました。

レオンが静かにセドリックを見やると、セドリックは肩をすくめるようにして、けれど礼を失わずに頭を下げました。


「ですが、リリア殿の緊張が少しでも解ければと思ったのです」


その言い方は軽すぎず、けれど堅苦しくもありませんでした。

リリアはまだ戸惑いながらも、ほんの少しだけ肩の力が抜けるのを感じました。


最後に、まだ少年らしさの残る王子が、そわそわとした様子で立ち上がりました。


「第三王子、エリオット・フォン・グランヴァルドです」


エリオットはそう名乗ると、リリアの挨拶を待たずに蒼月の方へ視線を向け、はっとしたように慌ててリリアへ向き直りました。


「あ、失礼しました。リリアさんにも、もちろんご挨拶したかったのです。ただ……蒼月殿にも、ご挨拶してよろしいでしょうか」


その必死な様子に、王妃が小さく笑みをこぼしました。

リリアも戸惑いながら蒼月を見ました。


「どうぞ」


リリアがそう言うと、エリオットはぱっと顔を輝かせ、蒼月の方へ一直線に駆け寄りました。

蒼月のすぐ前まで来ると、はっとしたように足を止め、慌てて姿勢を正しました。


「ありがとうございます。蒼月殿、エリオットと申します」


エリオットは深く、きちんと礼をしました。

蒼月はゆっくりと瞬きをし、少しだけ顔をそむけました。

まるで返事をしたようにも、まだ認めていないと言っているようにも見えました。

それでもエリオットは嬉しそうでした。


そのほかにも、宰相ハインリヒ・フォン・ヴァイスベルク、星術院長官アステル、王国軍総司令官ローガン、軍務顧問ヴィクトルが同席していました。

彼らはそれぞれに短く名乗り、リリアへ礼を尽くして挨拶しました。

その姿に、リリアは改めて、自分が王宮の中で正式な客人として扱われているのだと感じました。


晩餐が始まると、リリアは並べられた食器の多さに少し戸惑いました。

どれから手をつければよいのか迷いかけた時、後ろに控えていたルークが、ほんのわずかに視線を向けます。

その先にある食器を見て、リリアは小さく息を整えました。

セシリアも控えの位置から、目立たないほど小さく頷いてくれています。

王妃は、リリアが答えやすいように、柔らかな話題を選んでくれました。


「離宮の庭は見ましたか。薬草を植えられるよう、土を整えさせたのです」


「はい。とても嬉しかったです。王宮に来てから、まだ知らないものばかりでしたが、薬草を育てられる場所があると思うと……少し、落ち着きます」


リリアの声が自然に明るくなると、王妃は満足そうに微笑みました。

セドリックも興味深そうに身を乗り出しかけ、すぐに王子らしく姿勢を戻しました。


「本当は薬草のことをいろいろ伺いたいところですが、今日は晩餐ですから控えます。いつか、リリア殿が嫌でなければ教えてください」


「私で分かることでよければ」


リリアがそう答えると、セドリックは嬉しそうに頷きました。

一方、エリオットは食事の間も、どうしても蒼月が気になるようでした。

蒼月は静かに伏せたまま、時折、燭台の光を受けて銀の毛並みを淡く輝かせています。


「蒼月殿は、本当に静かなのですね」


エリオットが小さな声で言うと、蒼月はちらりと彼を見ました。

その視線を受けたエリオットは、なぜか背筋を伸ばします。


「す、すみません。騒がしくはしません」


蒼月はまた顔をそむけました。

それが少しだけ偉そうに見えて、リリアは思わず口元を緩めました。


晩餐の終わりに近づいた頃、控えめな音楽が流れ始めました。

それは大きな舞踏会の華やかさではなく、食後の余興として奏でられる、穏やかな曲でした。

第一王子レオンが席を立ちました。

そして、リリアの前まで歩み寄ると、礼儀正しく手を差し出しました。


「リリア嬢。差し支えなければ、一曲お相手願えますか」


リリアは思わず息を呑みました。

まさか、この場で自分が踊ることになるとは思っていなかったからです。


(えぇぇぇっ!? ルークと練習できたのなんて、王都へ来るまでの道中で数回しかなかったのに……!)


「わ、私……まだ、きちんと踊れません」


「構いません。今宵は練習だと思えばよいのです」


レオンの声は穏やかでした。

王妃も、リリアを安心させるように微笑みます。


「無理にとは言いませんよ。でも、レオンならあなたの歩幅に合わせてくれます」


リリアはセシリアを見ました。

セシリアは控えの位置から、落ち着いて礼をすればよいと伝えるように、静かに頷きました。

リリアは深く息を吸い、震えそうになる手をそっと差し出しました。


「私でよろしければ……お願いいたします」


レオンはリリアの手を取り、ゆっくりと導きました。

最初の一歩は、思ったよりも静かでした。

けれど二歩目で、リリアは足の位置を間違えました。

柔らかな音楽の中で、リリアの靴先がレオンの足を踏みました。


「も、申し訳ございません……!」


リリアは真っ青になりました。

レオンは少しも顔をしかめず、穏やかに言いました。


「大丈夫です。最初から上手に踊れる者ばかりではありません」


リリアは必死に頷き、もう一度足を動かしました。

しかし、緊張すればするほど身体は固くなり、次の拍でまたレオンの足を踏んでしまいました。


「本当に、申し訳ございません……!」


「足よりも、あなたが倒れないことの方が大切です。私に合わせようとしすぎず、まずは息をしてください」


その言葉に、リリアはようやく自分が息を詰めていたことに気づきました。

会場の隅では、セドリックが口元を押さえていました。

けれどその目に、嘲るような色はありません。

必死なリリアをからかうのではなく、兄の足を踏んでしまって真っ青になる様子を、どうにも微笑ましく感じているようでした。

リリアが気づいてますます赤くなると、セドリックはすぐに表情を整えました。


「失礼しました。ですが、兄上の足は丈夫ですから、あまりお気になさらず」


「セドリック」


レオンが静かにたしなめると、セドリックは素直に肩をすくめました。


「申し訳ありません。けれど、本当に大丈夫です。兄上は騎士団でも鍛えていますから」


その言葉に、王妃が小さく笑いました。

リリアも、恥ずかしさの中でほんの少しだけ笑ってしまいました。

曲が終わる頃には、リリアはすっかり緊張で疲れていましたが、最後まで立っていることはできました。

レオンは手を離し、丁寧に礼をしました。


「よく頑張りました。次に踊る時は、きっと今日より楽になります」


「ありがとうございます……何度も、足を踏んでしまって申し訳ありませんでした」


「それも含めて、最初の一曲です」


その言葉に、リリアは胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じました。


その頃、エリオットは蒼月の前で、真剣な顔をしていました。


「蒼月殿。僕は、あなたと仲良くなりたいのです。触れても、よろしいでしょうか」


蒼月はしばらくエリオットを見つめていました。

それから、わざとらしく顔を横へ向けます。

けれど、立ち上がって離れようとはしませんでした。

リリアはその様子を見て、そっと笑いました。


「蒼月、嫌ならきっと離れると思います」


エリオットは目を輝かせました。


「では、少しだけ」


彼は慎重に手を伸ばし、銀の毛並みに指先で触れました。

その瞬間、息をのみます。


「……本当に、月の光みたいです」


蒼月の耳が、ほんの少しだけ動きました。

エリオットはそれを許しの合図だと思ったのか、今度は両手でそっと毛並みに触れました。

蒼月は迷惑そうに目を細めましたが、振り払うことはありません。

やがてエリオットは、胸いっぱいに嬉しさを抱えたような顔で、蒼月の首元にそっと腕を回しました。


「ありがとうございます、蒼月殿」


蒼月はどこか諦めたように尾を一度だけ揺らしました。

王妃は微笑ましく見守り、セドリックは今度こそ笑いをこらえるのに苦労しているようでした。

リリアはその光景を見つめながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じました。


晩餐を終えて宮殿へ戻った時、夜風は昼間よりも少し冷たくなっていました。

けれど、リリアの胸の奥には、小さな温もりが残っていました。

王妃はさりげなく助けてくれました。

王子たちも、重臣たちも、思っていたよりずっと温かく迎えてくれました。

ルークも、セシリアも、いつも近くで静かに支えてくれていました。

王宮は、まだ怖い場所です。

けれど、そこにいるすべての人が自分を遠ざけようとしているわけではないのだと、リリアは少しだけ思えました。

その事実を胸に、リリアは静かに息を吸い込みました。

新しい風が、金の髪をやわらかく揺らしていました。



少し離れた場所から、蒼月はそんなリリアの横顔を見つめていました。

宮殿に移ってからの数日、蒼月は白い建物も、手入れされた庭も、まだ何も植えられていない柔らかな土も、リリアのそばに控える侍女たちの動きも、ひとつひとつ静かに見極めていました。

そして今宵の晩餐で、王家の者たちや重臣たちがリリアへ向けるまなざしもまた、蒼月は黙って見ていました。


王宮という場所は、森とは違います。

木々のざわめきも、獣の気配も、土の匂いも薄い。


かわりに、人の思惑と規律が幾重にも重なり合い、見えない壁のように張り巡らされていました。


けれど、この宮殿に流れる空気は、悪くありませんでした。


人の言葉のすべてを知るわけではありません。

それでも、国王やその側近たちに、リリアを守ろうとする意思があることは感じられました。

ですが同時に、あの謁見の間にも、王宮の廊下にも、リリアや自分へ向けられる冷ややかな視線が少なからずあったことを、蒼月は見逃していませんでした。


同じ国の中にいる者が、すべて味方とは限らない。


それが、人の世というものなのだろうと、蒼月は静かに思いました。


宮殿には、リリアが落ち着いて過ごせる部屋が整えられ、庭の一角には薬草を植えられる柔らかな土まで用意されていました。

あれは、おそらくルークが整えたものなのでしょう。

町で薬草を採り、人を癒やしてきたリリアにとって、土に触れられる場所がどれほど大切か。

あの若い文官は、それを見落とさなかったのです。

どれも、リリアという娘をよく見ていなければできない配慮でした。


そして、あの女もまた、ただものではないのかもしれません。

王妃ヴィクトリア……。

蒼月が直接、王妃の言葉を聞いたわけではありません。

けれど、王妃の部屋へ向かう前、リリアの胸には不安と戸惑いが満ちていました。

それが戻ってきた時には少しだけほどけ、彼女の表情も、声も、足取りも、昨夜よりずっと柔らかくなっていました。

その変化が、偶然ではないことくらいは分かります。

そばにつけられた侍女たちの所作にも、王宮に着いたばかりの頃に見た侍女たちのような、リリアを値踏みする冷たさはありませんでした。


それでも、安心しきるつもりはありませんでした。

どれほど美しい庭であっても、どれほど優しい言葉が与えられても、リリアを傷つけるものが現れないとは限らない。

人の世には、牙を見せずに近づく悪意があることを、蒼月は長い時の中で知っていました。

蒼月は宮殿の入口へ視線を向け、ついで庭の外へと続く道を確かめました。

窓の位置、壁の高さ、木陰の深さ、護衛の立つ場所。

そのすべてを胸に刻むように見定めてから、彼はリリアのそばへ戻りました。

リリアはまだ、夜風の中に立ち、白い宮殿を静かに見上げていました。

その横顔には、不安と期待が入り混じっていましたが、昨夜のような震えはもうありません。

蒼月は静かに彼女の隣に立ち、尾をゆっくりと揺らしました。


ここは、リリアが学ぶ場所。


そして、自分が守る場所だ。


言葉にはならない誓いを胸の奥に沈めるように、蒼月は新しい風の匂いを確かめました。



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