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銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお
第二部 第二章 ネヴァリア王国編

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第五十三話 母としての選択

夜が深まり、部屋の中には小さな灯りだけが残されていました。


リリアは寝台の端に腰を下ろし、眠るクリスを胸に抱いていました。

幼い寝息が、静かな部屋にかすかに響いています。


ラシードは、向かいに立ったまま、リリアを見つめていました。

その表情には、苦しさを押し隠しきれない影がありました。


「リリア、本気なのか」


リリアは、腕の中のクリスへ視線を落とし、その柔らかな髪を撫でました。


「俺が眷属になったときと同じになってしまう」


眷属となったあの日、ラシードの中からリリアへの愛情は失われました。

記憶は残っていても、その記憶に宿っていたはずの想いは消え、主である蒼月だけが唯一無二の存在となりました。


蒼月がラシードの名前を残し、ラシードが自分を失わずにいられるようにしてくれたから、再びリリアを愛することができています。

けれど、同じことがリリアにも起こらないとは限りません。


「分かっています」


リリアの声は、震えていました。


「それなら、どうしてだ。俺のことだけではない。クリスのことまで分からなくなるかもしれないんだぞ」


ラシードの声は、次第に苦しげに沈んでいきました。

そこに滲んでいたのは、リリアを失うことへの恐れでした。


リリアは、眠るクリスを抱く腕に力を込めました。


「でも、幼いクリスにそんな辛い思いをさせることはできないわ。クリスには人として幸せに生きてほしいの」


この子には、季節が巡る中で成長してほしい。

笑い、泣き、誰かを愛し、自ら選んだ道を歩いてほしい。

大地の眷属として長い時を生きるのではなく、人として与えられた命を、幸せの中で生きてほしい。


それが、母としてのリリアの願いでした。


腕の中にはクリスが眠っています。

リリアの涙がクリスの頬に落ち、その感触に、クリスは目を開けました。


まだ眠たそうな瞳が、リリアの濡れた頬を見つめました。


「かあさま、どうしたの?」


小さな手が伸び、リリアの頬に触れました。


「どこかいたいの?」


リリアは首を横に振りました。

けれど、涙は次々と頬を伝いました。


「かあさま泣かないで」


クリスも泣きそうになります。


その瞳に涙が浮かぶのを見て、リリアは慌てて微笑みました。


「大丈夫よ。どこも痛くないわ」


「ほんとう?」


「ええ。クリスがいてくれるから、母様は大丈夫です」


リリアはクリスの額へ、口づけました。

けれど、その声は涙に濡れたままでした。


クリスは、リリアの胸へ小さな身体を寄せました。

その背に腕を回しながら、リリアは目を閉じました。


ラシードは、そんな二人を見つめていました。

リリアを止めるべきだという思いと、クリスを守ろうとするリリアの願いが、胸の中でぶつかっていました。


やがてラシードは寝台のそばへ膝をつき、リリアとクリスを一緒に抱きしめました。


窓の外では、雲の隙間から差し込んだ月の光が、部屋を照らしていました。


三人を見つめていた蒼月の脳裏に、一つの考えが浮かびました。

このまま三人を自分の宮へ連れていき、地上へ戻さずにいようかと。

けれど、蒼月はすぐにその考えを退けました。


この地上を魔物が治めるようになったとき、理が何をするのか、蒼月は分かっていました。


魔物に支配された世界を元の姿へ戻すために理が介入すれば、五柱と眷属以外の存在はすべて消え、リリアもクリスも失われてしまいます。


それでは、結局、リリアもクリスも守れない。


それに、あのラシードとリリアが、地上を捨て、自分たちだけ助かろうとするはずがありませんでした。


考えを巡らせていた蒼月に、リリアが声をかけました。


「蒼月」


蒼月が顔を向けると、リリアは胸元に手を重ねていました。


「リリア。なぜ、あのとき名乗り出たのだ」


「それは、母ですから」


リリアは俯いていた顔を上げ、蒼月と向き合いました。

まっすぐに蒼月を見つめるその目には、強い意志が宿っていました。


蒼月の胸に、ラシードが眷属となってからの三年余りの日々がよみがえりました。


「だが、眷属となったラシードを、三年あまりも見てきただろう」


「ラシードの愛を失い、リリアが毎夜泣いていたことも知っている」


リリアの指先が、胸元の布を強く握りました。


「気丈に振る舞いながら、どれほど傷ついていたのかも」


蒼月はそこで言葉を切り、リリアを見つめました。

クリスとラシードが同じ苦しみを背負うことを思うと、蒼月の胸は痛みました。


「クリスが成長し、すべてを知ったとき、どれほどつらい思いをするか分かっているのか」


リリアの唇が震えました。

蒼月の言葉に、リリアの胸が締めつけられました。


「分かっています! そんなことは!」


張り詰めていたものが弾けるように、リリアの声が部屋へ響きました。


蒼月は息をのみました。

それは、蒼月が初めて見るリリアの姿でした。


「私も、クリスも、ラシードを思う心を失いたくありません」


声を荒らげたことに自分でも驚いたのか、リリアは一度息を整えました。

けれど、胸の内からあふれた思いを、もう押し戻すことはできません。


「それが、どれほど重いことなのかも分かっています」


リリアの声は震えていました。

握りしめた指先が、白くなっています。

それでも、蒼月をまっすぐ見つめていました。


「ラシードは、人であったときの私への愛情だけは、絶対に失わないと思っていたと……そう言っていました。でも、実際は違っていた。記憶はあるのに、そこにあったはずの感情が湧かないと」


その言葉を口にすると、抱えてきた痛みが胸を締めつけました。

愛された記憶だけが残り、その愛情はもう相手の中にない。


リリアは、その残酷さを知っています。


だからこそ、クリスやラシードに同じものを背負わせる決断が、軽いものであるはずがありませんでした。


リリアは涙をこらえ、蒼月を見据えました。


「それでも、クリスのこれからの人生を奪うわけにはいきません」


声は震えていました。

けれど、その目に涙はありませんでした。

そこには、自らが選んだ道を最後まで貫き、クリスの未来を守り抜くという、母としての決意が宿っていました。


蒼月は、リリアの目を見つめました。

その覚悟が、迷いや勢いから生まれたものではないことは、もう分かっていました。

蒼月はそのまま、言葉を返さずにリリアを見つめていました。


その沈黙を破ったのは、ラシードでした。


「リリア。やはり、お前を眷属になどさせない」


膝をついたまま、ラシードはリリアの手を握りました。


「俺が、何とかする」


リリアが顔を上げました。


「ラシード、でも……」


「同じ苦しみを、お前に味わわせたくない」


ラシードの声には、迷いがありませんでした。

自らが失ったものの重さを知っているからこそ、その言葉には確かな覚悟が宿っていました。


蒼月も、リリアへ視線を向けました。


「リリアが眷属となる必要はない」


蒼月の声は静かでした。

けれど、その奥には、揺るがぬ意志がありました。


「ほかの柱の協力がなくとも、私が何とかする」


それがどれほど無謀なことか、蒼月自身が誰よりも分かっていました。

黒、ディグラード、沙良を相手に、蒼月とラシードの二人だけで戦い続けなければなりません。

その間、魔物から人の世界を守る者がいなくなります。


それでも、リリアを差し出すという道だけは、選びたくありませんでした。


「リリア。お前は、クリスの母のままでいろ」


リリアの瞳から、こらえていた涙がこぼれました。


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