第五十二話 理
理は、床一面に映し出された地上の様子を見つめていました。
「大地は、まだ地上にいるのですね」
命を司る柱が答えました。
「そのようですね」
「無理やり戻しても、また堕ちてしまうかもしれない」
そう言うと、理はもう興味を失ったように、別の世界へと思考を巡らせていました。
理は今、女の姿をしていました。
理自体に、決まった姿形はありません。
ただ、気に入った天零がいると、時折、その者の姿を借りて現れることがありました。
命は、その様子を見届けると、自らの役目へ戻りました。
理にとって、時間という概念は、人が思うようなものではありませんでした。
一瞬も、一億年も、理の中では等しく「今」でした。
理はこれまで、幾度も世界を作り直してきました。
最初は、何もない場所に光を灯すことから始めました。
星を生み、惑星を生み、生き物が生きられるだけの器を、時をかけて整えました。
そうして生まれた大地に、理は生き物を置き、やがて知性を持つ人を置きました。
最初の世界に、神という存在はありませんでした。
人々が何かを畏れ、何かに祈るうち、いつしか、その祈りが「神」という形を得ただけでした。
理は、その世界の人々に知恵を与えました。
物を分解し、組み替え、新たな力へ変える知恵でした。
けれど、その知恵は、一万年と経たぬうちに世界そのものを灼き尽くしました。
人は、自らの手で作り上げた火によって、互いを、そして自分自身を滅ぼしました。
大気は穢れ、大地は腐り、海は死に絶えました。
理は、手をかざしました。
世界は再び、何もない場所へと戻りました。
――もう一度。
理は、二度目の世界を作りました。
今度は、人に知恵の代わりに魔力を与えました。
そして、二度と人同士が争わぬよう、人の心に、善だけを信じる完全な形を与えました。
疑わず、迷わず、ただ正しくあろうとする心でした。
その世界を見守るため、理は五つの監視の座を作りました。
光を司る者。
闇を司る者。
大地を司る者。
空を司る者。
命を司る者。
理は、その五柱にも、人と同じ心の形を与えました。
理だけを信じ、善だけを信じ、決して迷わない心でした。
数千年が過ぎた頃、理は、五柱の様子がおかしいことに気づきました。
彼らは、誰に命じられたわけでもなく、次々と自らの存在を終わらせていきました。
それと同じように、人々もまた、次々と自ら命を絶っていきました。
善だけを与えられた世界では、監視の座にある者も、人も、心の成長を止めてしまっていました。
まだ最初の世界の方が、人は人らしく生きていたように、理には思えました。
理は、その理由を長い時をかけて探りました。
――縛りすぎたのかもしれない。
迷うことを許さず、疑うことを許さず、正しさだけを背負わせ続けた心には、どこにも逃げ場がありませんでした。
逃げ場のない心は、いつか砕ける。
理は、そのことを、五柱と人々の死をもって、初めて知りました。
理は、三度目の世界を作りました。
今度は、最初の世界と同じように、人の心へ自由を与えました。
善だけではなく、悪をも受け入れる余白を残しました。
そして、新たに置いた監視の座には、もう一つの道を用意しました。
理の内側で役目を果たせなくなった時、自ら理の外へ堕ちるという逃げ道でした。
罰ではありません。
救いでもありません。
ただ、心が砕けてしまう前に、逃げられるように。
理はもう一つ、この世界に仕掛けを施しました。
監視の座にある者たちが地上へ深く関わりすぎぬよう、その力に緩やかな縛りをかけました。
その代わりとして、眷属を作りました。
けれど、地上とのつながりを完全に断つことは、理にもできませんでした。
縛られた力は、ごくまれに、その枠を超えて地上へこぼれ落ちました。
理が定めた器を超えて生まれる、魂と器でした。
理は、それをそのままにしておくことにしました。
――天零。
天の理から、零れ落ちるもの。
それは、理が監視の座に強いた縛りによって生じる、避けがたい代償でした。
理は今も、ただ地上を見つめています。
三度目の世界が、これまでで最も上手くいっていました。
そうして理が、いつか訪れるかもしれない次の世界へ考えを巡らせていた頃、先代の大地が堕ちました。
逃げ道は確かに作りました。
けれど、それが本当に選ばれるとは、理も思っていませんでした。
その時、理は、光、闇、空、命の四人の柱を呼び寄せました。
なぜ、堕ちゆく同位の者を、ただ見ていたのか。
四柱は、答えられませんでした。
それも当然でした。
彼らは、理から命じられたとおりに、世界の理を見張っていただけでした。
一柱が理から外れようとする時、他の四柱がそれを止める。
そのための五でもあることは、理にとって、命じるまでもないことでした。
けれど四柱にとって、それは、理から命じられていないことでした。
「次に、同じことがあれば」
理の声には、抑揚がありませんでした。
「この世界は、また最初からやり直す」
四柱は、何も言えませんでした。
理は一度、本当にそうしたことがありました。
核の火に灼かれ、何もかもが死に絶えた、最初の世界を。
理にとって、それは造り直せば済むだけのことでした。
けれど、五柱にとっては違いました。
積み上げてきたもの。
見守ってきたもの。
そのすべてが、初めから存在しなかったことになります。
その重さを、四柱は初めて知りました。
けれど、四柱の胸に何よりも深く残ったのは、その警告ではありませんでした。
理は、ただ一言、こう問うただけでした。
「なぜ、見ていた」
その問いに、四柱は誰一人、答えられませんでした。
理は、それ以上、何も罰しませんでした。
罰する必要がなかったのです。
理の期待通りに行動できなかった、答えられなかった、という事実だけが、消えない記憶として、四柱の中に刻まれました。
理に、失望された。
それだけが、以来ずっと、彼らを縛り続けていました。
暴力も、枷も、必要ありませんでした。
静かな失望こそが、柱たちにとって最も恐ろしい罰でした。
理は、空いた座を埋めるため、新たな大地を作りました。
そして、先代の大地が堕ちた際に生じた世界の欠片を、本来の世界から完全に切り離しました。
そこを、理から外れた者たちが住まう魔界としたのです。




