第五十一話 空の条件
リリアと蒼月、ラシードは、太陽の国へ戻っていました。
半月にわたって浄化を続けたリリアの身体には、深い疲労が残っていました。
それでもリリアは、休むことを受け入れられずにいました。
「少し休めば大丈夫です。まだ、やれます」
蒼月は、力の戻りきらないリリアの顔を見ました。
「あの寒さの中だ。無理をさせることはできない。しばらくは戦場へ行かせない。クリスとともに過ごせ」
「……」
リリアは唇を結びました。
浄化しなければ人の軍は前へ進めず、その間にも戦いは続いていきます。
言葉を返せずにいるリリアを、ラシードが腕の中へ抱き寄せました。
背に回された腕の温もりに、張りつめていたリリアの身体から力が抜けていきました。
その時、窓の外に広がる空が大きく揺らぎました。
夜空のように深い色の髪に、星を散らしたような細かな光が瞬いていました。
濃い紫の瞳には、夜そのものを閉じ込めたような色が宿っています。
空を司る柱が、三人の前へ姿を現しました。
リリアはその姿を見つめ、蒼月とは異なる美しさに魅入られました。
ラシードはリリアから腕を離し、空へ礼を取りました。
空の出現に呼応するように、戦場にいたはずの賢者と武神、建物の中にいた女神も三人の前へ姿を現し、主の前へ膝をつきました。
空は、自らの眷属たちを見渡したあと、蒼月へ視線を向けました。
「大地の。そろそろ、眷属を返してもらえないか」
その声には、拒絶を許さない響きがありました。
「あまり長く地上へ置いておくことはできない」
「空の。もう少しだけ、貸しておいてくれないか」
蒼月は、膝をついている三人へ目を向けました。
ラシード一人では、すべての戦場を守りながら、黒やディグラード、沙良を防ぐことはできませんでした。
空の眷属たちがいなくなれば、人の軍はこれまでの防衛線を維持することさえ難しくなります。
空の紫の瞳が、厳しさを増しました。
「それより、おまえはまだ地上へ直接関わっているのか」
隠すことのない苛立ちが、その声に滲んでいました。
「いい加減にしろ」
「だが、魔物は理に反している」
「眷属がいるではないか。そこに」
空の視線が、蒼月の後ろにいるラシードへ向けられました。
「ラシード一人では無理だ」
「何を言っている。その娘がいるではないか」
空の視線が、リリアへ向けられました。
その言葉に、蒼月の目が鋭く細められました。
蒼月はリリアを白銀の結界で包みました。
空の青い闘気と蒼月の白銀の戦気が正面からぶつかり合い、二人の狭間を小さな稲妻が走りました。
空の眷属とラシードにも、緊張が走りました。
「おまえ、自分が何を言っているのか分かっているのか」
低く抑えられた声に、周囲の空気が張りつめました。
空は蒼月の怒りを受けても、紫の瞳を逸らしませんでした。
「私の眷属は使いながら、自分の眷属となれる者を眷属にはしない。そんな都合のよい話があるのか」
空は、再びラシードへ目を向けました。
「それに、なんだ。その眷属は。おまえは甘すぎるぞ」
ラシードは眷属となったあと、人としての心を取り戻し、リリアへの愛も残していました。
本来の眷属とは異なる在り方を許していることを、空は甘いと言っているのです。
蒼月には、返す言葉がありませんでした。
リリアを眷属にすれば、今のリリアではなくなります。
主である蒼月が唯一無二の存在となり、ラシードへの愛も、クリスを思う母の心も失われるかもしれません。
それを知っているからこそ、蒼月には選ぶことができませんでした。
空は、リリアへ視線を戻しました。
「今、この世界に存在する天零は、その娘と、その息子しかいないのだぞ」
その言葉に、リリアの表情がこわばりました。
ラシードが顔を上げ、何かを言おうとしました。
蒼月は片手を上げ、その言葉を制しました。
空が告げました。
「どちらか一人を、大地の眷属とすることを選べ」
その言葉は、リリアか、まだ幼いクリスのどちらか一人を差し出せというものでした。
「どちらかを選べば、私は協力してやる。そしてもう人での浄化だけではこの件はかたがつくまい。息子の方も浄化が発動する可能性はある」
空は、感情を交えずに続けました。
「そうでなければ、ほかの柱へ助けを求めても眷属を貸してはくれまい」
空が求めているのは、蒼月が大地の宮へ戻り、地上のことを眷属へ委ねることでした。
そのためには、ラシードに加え、もう一人の大地の眷属が必要だというのです。
人の兵は、すでに限界へ近づいていました。
けれど、柱たちにとって、この世界は唯一のものではありませんでした。
たとえ魔物に侵され、人が滅びたとしても、初めから作り直すことができます。
今を生きている人々も、積み重ねられてきた営みも、柱たちにとっては失えば二度と戻らないものではないのです。
空は、蒼月を脅しているのではありませんでした。
理を預かる者として、協力するための条件を示しているだけでした。
蒼月もまた、空がすでに譲歩していることを理解していました。
本来ならば、この世界に残る二人の天零を、どちらも眷属とするよう求められてもおかしくありません。
そのうちの一人だけでよいと、空は告げていました。
それでも、蒼月には選べませんでした。
幼いクリスを、ラシードとリリアから奪うこともできません。
リリアから、ラシードを愛する心と、クリスの母である心を奪うこともできません。
どちらを選んでも、今ある家族は失われます。
沈黙する蒼月の後ろから、リリアが一歩前へ出ました。
「私がなります」
「リリア、それは駄目だ。クリスにとって、おまえは唯一の母なのだ」
ラシードはリリアの腕を掴み、引き留めました。
空は蒼月へ視線を向けました。
「本人がなると言っているぞ。おまえがしないのなら、私がしよう。浄化を扱える眷属は珍しいからな」
蒼月はリリアを見ました。
「リリアが、ほかの者の眷属になるのは嫌だ」
「では、しろ」
「……」
リリアの翡翠色の瞳には、隠しきれない恐れが宿っていました。
空は二人の様子を見たあと、蒼月へ告げました。
「よく考えるのだな。おまえが千年前に蒔いた種だ」
その言葉を残し、空の姿は夜空へ溶け込むように消えていきました。
賢者と武神、女神も蒼月へ礼を取ると、あとを追うように姿を消しました。
空と眷属たちの気配が完全に消えたあと、三人のそばで黒い影が揺らめきました。
影の中から、闇が姿を現しました。
「大地の。こっぴどく怒られてしまったの」
蒼月は、空が消えた場所を見上げたまま答えました。
「空の言っていることは正しい。当然のことなのだ」
闇は、蒼月の後ろに立つリリアへ目を向けました。
「もう一度、ラシードにしたのと同じことを、その娘にもすればよいではないか」
「そのことも怒られた」
「そうだな」
闇の口元に笑みが浮かびました。
「だが、条件に、それをしてはならないとは入っていない」
空が求めたのは、リリアかクリスのどちらかを、蒼月の眷属とすることでした。
けれど、蒼月の表情は晴れませんでした。
「それは賭けだ。リリアが、リリア自身を取り戻せるかは分からない」
「ラシードの時も、そうであっただろう」
闇は、ためらうことなく答えました。
ラシードが人としての心を取り戻せたからといって、リリアも同じように戻れるとは限りません。
一度眷属となれば、ラシードへの愛も、クリスを思う母の心も、すべて失ったままになるかもしれないのです。
闇はしばらく蒼月を見つめたあと、片手を差し出しました。
「ほれ。ソフィアの写しは貸してやる」
そう言い残すと、闇は影へ溶けるように消えていきました。
あとに残ったのは、重い沈黙だけでした。
蒼月はリリアとラシードを見つめたまま、言葉を見つけられずにいました。
夜空には、薄い雲が流れていました。
その切れ間に瞬く星だけが、何事もなかったかのように澄んでいました。




