第五十話 動き始めた影
クリスを女神とセシリア、リリアの母、悴に預け、リリアはネヴァリア王国の王都ネリスの戦場へ向かいました。
リリアは蒼月の結界に守られ、上空から眼下に広がる戦場を見渡していました。
隣には蒼月とラシードが立っています。
地上では、魔物の咆哮と兵士たちの怒号が重なり、剣や魔法がぶつかる音が途切れることなく響いていました。
巻き上がる雪と土煙の中で、魔物と人の軍が激しくぶつかり合っています。
リリアは、目の前で繰り広げられる戦いの激しさに息を呑みました。
「ひどい……」
隣に立つ蒼月が、眼下の戦場を見つめたまま答えました。
「そうだ。この状態が、ずっと続いている」
――私がクリスと過ごしている間も、こんな戦いがずっと続いていたなんて。
自分だけが安全な場所で穏やかな日々を過ごしていたという思いが胸に突き刺さり、リリアの心を強く締めつけました。
魔物の軍団は、人の姿をした将たちの指示に従い、まるで人の軍のように統率されていました。
その動きは、リリアが前に見た時よりも、さらに洗練されていました。
その中で、魔物たちを指揮する人の姿をした将が、リリアの目に留まりました。
将たちは、どこから見ても人と変わらない姿をしていました。
違っているのは、全員の瞳が赤く染まり、身体から瘴気を放っていることでした。
人の姿でありながら魔物であるその有り様に、リリアは悴のことを思い出しました。
違っているのは、全員の瞳が赤く染まり、身体から瘴気を放っていることでした。
そのうちの一人が上空へ顔を向けました。
赤い瞳が、結界の中にいる蒼月とラシード、リリアを捉えました。
将は三人を見上げたまま、何かを口にしました。
次の瞬間、黒が結界の前へ現れた。
手にした剣を振り上げ、そのまま結界へ斬りつける。
黒の刃が結界へ届くより早く、ラシードが冥霞を抜き、黒の刃の前へ立てた。
キィン――!
甲高い金属音が、上空へ鋭く響き渡った。
振り抜かれた刀が黒の剣を受け止め、火花が散る。
リリアは、その音に肩を跳ねさせた。
弾かれるように、ラシードと黒へ目を向ける。
黒は刃を引くと、間を置かず次の斬撃を放った。
ラシードも冥霞を返し、迫る刃を受け流す。
次の瞬間には、二人の刃が幾度も打ち合わされた。
剣と刀が交わるたびに衝撃が上空を走り、白い火花が二人の間から飛び散る。
黒はラシードの横を抜け、結界の中にいるリリアへ近づこうとした。
ラシードはその進路へ回り込み、冥霞で黒の刃を押し返す。
リリアへ近づけさせないため、ラシードは攻撃を重ねながら黒を結界から押し離していった。
激しく刃を交える二人の姿は、リリアのいる結界から遠ざかっていった。
蒼月は、青ざめたリリアの顔を覗き込みました。
「リリア、大丈夫か?」
「は……い」
リリアは戦場を見下ろしたまま、胸元へ手を当てました。
その時、空の眷属である賢者と武神が、二人のもとへ現れました。
「大地様、戦況は変わっておりません」
賢者が告げると、もう一人が続けました。
「将を倒しても、すぐに新たな将が現れ、魔物を統率していきます」
「そうか」
蒼月は眼下の戦場を見渡したあと、リリアへ顔を向けました。
「リリア、この辺一帯を浄化してくれないか」
「分かりました」
リリアは杖を掲げました。
杖の先から翡翠色の光が広がり、上空に大きな浄化の陣が描かれていきました。
完成した陣を、リリアは地上へ向けてゆっくりと降ろしました。
浄化の陣が地上へ重なると、その一帯を覆っていた瘴気が消えていきました。
瘴気の中から円形にくり抜かれたように、浄化された土地が姿を現しました。
その場にいた魔物たちは、翡翠色の光に包まれて消え去りました。
けれど、人の姿をした将は黒い結界を張り、浄化の光を防ぎました。
リリアの浄化を受けても消えることなく、黒い結界の内側からリリアを見上げ続けていました。
蒼月は、浄化によって開かれた円形の土地へ目を向けました。
「これを向こうの端まで繰り返さなければ、人の軍は進めない」
リリアは、遠くまで続く瘴気を見つめました。
黒く淀んだ大地は果てが見えず、先ほど浄化した場所は、その中に開いた小さな一角にすぎませんでした。
リリアは杖を握り直しました。
「分かりました」
同じ浄化を何度も繰り返し、人の軍が進める道を少しずつ作らなければなりません。
それは、気の遠くなるような作業でした。
蒼月は、眼下に広がる浄化された土地へ目を向けました。
「武神、人の軍へ伝えろ。浄化された場所から、進めるだけ防衛線を前へ上げるように」
「承知しました」
武神は蒼月の命を受け、人の軍へ向かいました。
リリアが土地を浄化すると、その場所へ人の軍が進み、新たな防衛線を築いていきました。
防衛線が整えば、リリアはさらに先を覆う瘴気へ杖を向けました。
その間にも、魔物の軍勢は人の軍の前進を阻むように押し寄せてきました。
浄化と前進を繰り返す戦場から、魔物の咆哮と剣戟の音が途切れることはありませんでした。
リリアが戦場へ到着してから、半月ほどが過ぎました。
浄化された土地は少しずつネリスへ向かって延び、そのあとを追うように、人の軍も防衛線を前へ進めていました。
けれど、進むほどにディグラードの寒さを含んだ冷気は厳しさを増し、これ以上瘴気を浄化しても、防衛線を上げることができなくなりました。
半月にわたり浄化を続けたリリアの体力も、限界に近づいていました。
そのため、三人は一度太陽の国へ戻ることになりました。
その頃、人の軍の内側でも変化が起こり始めていました。
初めは、誰の目にも異変とは映らないほど小さく、激しい戦いの中へ紛れてしまうものでした。
人の軍が立てた作戦を、あらかじめ知っているかのように、魔物たちの動きが変わっていきました。
兵を進めようとした場所には先回りするように魔物が集まり、守りを薄くした場所へは、狙い澄ましたように攻撃が集中しました。
一度や二度なら、偶然で済ませることもできました。
けれど、同じことが何度も繰り返されていました。
それでも、戦況が激しく移り変わる中で、その不自然さへ目を向ける者はいませんでした。
やがて、防衛線へ運ばれる食料や物資まで、途中で強奪されるようになりました。
輸送経路を変えても、魔物たちは新しい道を知っているかのように現れ、荷車を襲って積み荷を奪っていきました。
人の軍は、さらに別の道を選びました。
運ぶ時刻を変え、護衛の数も増やしました。
それでも、結果は変わりませんでした。
どの道を使っても魔物に襲われ、必要な物資が防衛線まで届かなくなっていきました。
食料の配給は日に日に減り、兵士たちは空腹を抱えたまま戦場へ立つようになりました。
傷の手当てに使う物や、壊れた武具を直すための材料も不足し始めました。
疲労と空腹が重なるにつれ、兵士たちの顔から余裕が失われていきました。
わずかな食料を巡って言い争う声が上がり、命令に苛立ちを見せる者も現れました。
物資が届かなくなった部隊から、軍の空気は次第に荒んでいきました。
長く保たれていた人の軍の秩序は、誰にも見えないところから崩れ始めていました。




