第四十九話 浄化への決意
朝の光が、太陽の国の部屋へ差し込んでいました。
寝台では、クリスが掛布を胸元までかけ、穏やかな寝息を立てていました。
リリアは寝台のそばに腰を下ろし、眠る我が子の頬へ触れました。
幼かった手足は少しずつ大きくなり、腕に抱かれているだけだったクリスは、自分の足で歩き、言葉を口にするようになっていました。
その成長をそばで見守れた時間は、リリアにとって何にも代えられないものでした。
蒼月が、リリアが戦場へ出る時を待ってくれたからこそ、クリスと過ごす日々を失わずに済みました。
けれど、その間にもネリスでは戦いが続いていました。
瘴気に覆われた土地は人間の軍の進路を阻み、瘴気に侵された傷によって命を落とした者もいたはずです。
リリアはクリスの髪を撫で、その額へ口づけました。
「クリス。少しだけ、待っていてください」
眠るクリスへ語りかける声が震えました。
離れたくないという思いを胸の奥へしまい、リリアは寝台から立ち上がりました。
別の部屋では、蒼月とラシードが待っていました。
リリアが入ると、二人の視線が向けられました。
リリアは蒼月の前まで歩みました。
胸の前で重ねた指には力が入り、すぐには言葉が出ませんでした。
クリスを残して戦場へ向かえば、いつ戻れるかは分かりません。
それでも、自分にしかできないことがあると知りながら、このまま太陽の国へ留まり続けることはできませんでした。
リリアは顔を上げ、蒼月の瞳を見つめました。
「蒼月。クリスをセシリアとお母さんに預けて、私は戦場の浄化へ出ます」
蒼月は、リリアの決意を確かめるように見つめ返しました。
「今まで、クリスと過ごす時間をたくさんくれて、ありがとう」
リリアの瞳に、眠るクリスの姿が浮かびました。
「でも、このままでは、魔物と人の戦争は終わりません。私がここで過ごしている間にも、瘴気の犠牲になった方たちが大勢いたと思います」
リリアの表情が曇りました。
剣や魔法によって負った傷であれば、治癒師が治すことができます。
けれど、瘴気に侵された傷は、傷の中に残った瘴気を浄化しなければ治りません。
その事実を、蒼月とラシードは知っていました。
それでも、これまでは誰も口に出しませんでした。
口にすれば、リリアが幼いクリスを残してでも戦場へ向かうことが分かっていたからです。
蒼月はしばらくリリアを見つめたあと、息を吐きました。
「あくまで後方からの支援だ。リリアを私の結界からは出さない」
「はい」
「太陽の国にも結界を残す。女神にも、クリスのそばにいてもらう」
張りつめていたリリアの表情が、少しだけ和らぎました。
「ありがとうございます」
蒼月は頷きましたが、その表情は厳しいままでした。
「それから、瘴気に侵された傷を負った者たちの浄化は行わない」
リリアの瞳が見開かれました。
「なぜですか」
「今回の目的は、瘴気に侵された土地を浄化し、人の軍がネリスへ進む道を作ることだ」
「ですが、瘴気に侵された傷を浄化すれば、救える命があるのでしょう」
リリアの声に力が入りました。
「救える方が目の前にいるのに、何もしないなんてできません」
「瘴気に侵された者が、あまりにも多いからだ」
蒼月の言葉に、リリアは息を呑みました。
「でも、目の前で瘴気に苦しんでいる方を見捨てるなんて……」
「見捨てるのではない」
蒼月は、リリアの瞳をまっすぐに見つめました。
「瘴気に侵された傷を負った者を一人ずつ浄化していれば、土地の浄化が進まない。その間にも戦争は続き、同じ傷を負う者がさらに増えていく」
リリアは、胸元の衣を握ったまま蒼月を見つめました。
「目の前にいる者を救い続けても、瘴気に覆われた土地が残る限り、犠牲はなくならない。戦争を終わらせるには、まず人の軍がネリスへ進める道を作らなければならない」
「これ以上は望むな」
蒼月の手に力が入りました。
「瘴気に侵された傷を負った者全員を救おうとすることは諦めろ」
リリアは俯きました。
胸元の衣を握る指に力が入り、固く唇を結びました。
ラシードはリリアのそばへ歩み寄り、その手を自分の両手で包みました。
温もりに気づいたリリアが顔を上げると、ラシードはその瞳を見つめました。
「リリアの気持ちは分かる。だが、蒼月の言っていることは正しい」
ラシードは、包んだ手に力を込めました。
「そして、俺が必ずリリアを守る」
リリアは、包まれた手を握り返しました。
「はい。お願いします、ラシード」
蒼月は、リリアの答えを待つように見つめました。
「いいな、リリア」
リリアは、蒼月の言葉を受け入れて頷きました。
「はい」
蒼月は二人を見つめたあと、頷きました。
「準備が整い次第、ネリスへ向かう」
長く動かなかった戦況を変えるため、リリアはクリスのもとを離れ、再び瘴気に覆われた地へ向かうことになりました。




