第四十八話 悲しみの果ての喜びを
夕食を終えた部屋には、クリスの笑い声の余韻が残っていました。
ラシードは幼い我が子を腕に抱き、あやすようにその顔を覗き込んでいました。
その口元には、もう失われてしまったと思っていた、あの優しい笑みが戻っていました。
リリアは、ラシードとクリスの姿を何度も確かめるように見つめていました。
待ち続けていた光景が目の前にあるだけで、胸の奥が温かく満たされていきました。
その時、蒼月がリリアを呼びました。
クリスをラシードへ任せ、リリアは蒼月のあとについて部屋を出ました。
回廊へ出てから何度か振り返ると、開いた扉の向こうには、クリスを抱くラシードの姿がありました。
窓から差し込む月の光が、夜の回廊を淡く照らしていました。
蒼月は人気のない中庭まで歩き、白い花の咲く木の下で足を止めました。
夜風に揺れた花がひとひら、二人の間へ舞い落ちました。
リリアがその背を見つめていると、蒼月は振り返りました。
「すまなかったな」
その一言に、リリアの胸に残っていたものが一気に込み上げました。
「蒼月。言ってくれれば……。心の声もあったのに」
責めたいわけではありませんでした。
けれど、あの時に感じた悲しさも、ラシードを本当に失ってしまうのではないかという恐ろしさも、簡単には消えてくれませんでした。
「リリアは、顔にすぐ出るからな」
「ひどい! 私も大人になりました」
「いや、出ているぞ。今も」
蒼月はリリアの顔を見て笑いました。
「もう、許してあげます」
リリアも唇を尖らせながら笑いました。
けれど、その瞳にはすぐに涙が滲みました。
「私こそ、蒼月。ありがとう。本当にありがとう」
リリアは一歩、蒼月へ近づきました。
「ラシードの名を残してくれて」
「ああ」
蒼月はリリアを抱きしめました。
いつもより強く、失いかけた大切なものを確かめるように、その身体を胸の中へ包み込みました。
リリアも蒼月の背へ腕を回し、白銀の衣を握りました。
「よかった。本当に……」
蒼月の声が震えました。
リリアの髪へ顔を寄せたまま、蒼い瞳から涙がこぼれました。
ラシードを眷属にしたあの日から、蒼月もまた、ずっと胸の奥で恐れていました。
自分の手で、リリアの愛する人を奪ってしまったのではないか。
名を残すことができても、その心まで戻すことはできないのではないか。
「蒼月……」
リリアは、涙を流す蒼月を抱きしめました。
もしラシードが心を取り戻さなければ、蒼月は本当に、あの言葉どおりにするつもりでした。
その場限りの言葉ではなく、リリアとクリスを自分が守り、生涯をともにする覚悟を決めていたのです。
白い花が夜風に揺れ、月明かりの中を散っていきました。
その夜、リリアとラシードは二人きりで向かい合っていました。
クリスは、隣の小さな寝台で穏やかな寝息を立てていました。
窓から差し込む月の光が、眠る幼子の頬を淡く照らしていました。
ラシードはしばらくクリスを見つめたあと、リリアへ視線を戻しました。
「リリア。長らく待たせて、すまなかった」
「ラシード。本当に……」
リリアの声は、それ以上続きませんでした。
戻ってきたことが嬉しいのに、待ち続けた日々の寂しさまで胸の奥から込み上げ、瞳に涙が滲みました。
「ああ。本当にすまない」
ラシードは、リリアの手を取りました。
「俺は、蒼月の眷属になっても、リリアとクリスを愛している」
その言葉に、リリアの指が震えました。
「ただ、眷属として蒼月を唯一無二とする感覚は、今も消えていない。これは理の中にあるものだから、どうすることもできない」
「分かっているわ」
リリアは、ラシードの指を握り返しました。
「それでも、ラシードがラシードでいられるなら、私は大丈夫です」
涙を浮かべながら、リリアは微笑みました。
「私も愛しているわ、ラシード」
ラシードは、その顔を見つめました。
泣きそうになりながら、自分を安心させようと笑う姿も、少し強くなったのに、愛する者の前では以前と変わらず涙を流すところも、すべてがラシードの愛したリリアのままでした。
「少し、強くなったか」
「母ですもの」
「そうか」
ラシードの口元に、あの悪戯っぽい笑みが浮かびました。
「リリア。こっちにおいで」
「はい」
リリアがそばへ寄ると、ラシードはその腰へ腕を回し、胸の中へ抱き寄せました。
これまでも、二人は同じ場所で過ごしていました。
けれど、今までとは違いました。
背へ回された腕の強さも、髪を撫でる指先も、リリアを愛おしいと思うラシード自身の心から生まれたものでした。
リリアは、ラシードの胸へ頬を寄せました。
耳を澄ませば、懐かしい鼓動が聞こえてきました。
「ラシード……」
「ああ」
名を呼ぶと、抱きしめる腕に力がこもりました。
ラシードは、リリアの髪へ唇を触れさせました。
額へ、濡れた目元へ、頬へと、長い間触れられなかったものを確かめるように口づけを落としていきました。
リリアは目を閉じ、頬へ添えられた手に自分の手を重ねました。
二人の視線が、間近で重なりました。
ラシードはすぐには唇を重ねず、リリアの涙の跡を親指で拭いました。
「もう、離さない」
その声に、リリアの瞳から新たな涙がこぼれました。
「はい」
ラシードは顔を寄せ、リリアの唇へ口づけました。
初めは、触れるだけの優しい口づけでした。
確かめるように一度離れた唇が、もう一度重なりました。
今度は、互いの温もりを取り戻すように深くなっていきました。
リリアの指がラシードの衣を掴み、ラシードはその身体を抱きしめました。
唇が離れても、二人は額を寄せたまま動きませんでした。
近くで重なる呼吸の中、リリアが笑いました。
ラシードも、懐かしい笑みを返しました。
月の光の中で、二人の影は離れることなく重なっていました。
しばらくして、ラシードはリリアを抱いたまま、隣の寝台で眠るクリスへ目を向けました。
小さな胸が、呼吸に合わせて上下していました。
その姿を見つめたあと、ラシードは腕の中のリリアへ視線を戻しました。
「リリア」
「はい」
「俺は、覚悟していたつもりだった」
リリアが顔を上げました。
ラシードは頬へ触れていた手を下ろし、リリアの指を包みました。
「眷属になれば何を失うのか、蒼月から聞いていた。蒼月が唯一無二の存在となり、リリアへの思いまで失うかもしれないことも」
「ええ」
「それでも、リリアを守れるなら構わないと思った。俺がどうなろうと、リリアが生きていてくれるなら、それでいいと」
雪の中で命を失いかけていたあの日、ラシードはリリアのもとへ戻るためなら、どのような代償でも受け入れられると思っていました。
愛情を失う可能性も理解したうえで選んだつもりでした。
「だが、実際にそうなってみると、俺が思っていたものとは違った」
ラシードの指に力が入りました。
「リリアへの思いを失うことが、どのようなものなのか。俺は、本当には分かっていなかった」
リリアが目の前にいても、心が動かない。
声を聞き、温もりに触れても、愛おしいと思うことができない。
リリアが苦しんでいることは分かっていました。
けれど、その苦しみを自分の痛みとして受け止めることができませんでした。
「俺は、自分が何かを失うだけだと思っていた」
ラシードは、リリアの目を見つめました。
「だが、失ったのは俺だけではなかった。リリアにも、愛されないまま俺のそばにいる時間を背負わせた」
リリアの瞳に涙が滲みました。
「それでも、リリアは離れなかった。俺が戻るかどうかも分からないまま、待ち続けてくれた」
「私が、そうしたかったのです」
「今なら、その言葉がどれほど重いものだったか分かる」
あの頃も、リリアが自分を待っていることは知っていました。
けれど、理解していたのは事実だけで、その思いの深さも苦しさも、心で受け止めることはできませんでした。
「俺は、何を失っても耐えられると思っていた」
ラシードの声が掠れました。
「今思えば、それは覚悟ではなかった。失うものの重さを、本当には知らなかっただけだ」
リリアは、包まれていた手を動かし、ラシードの指を握り返しました。
「ラシードがあの時に選ばなければ、私は今ここにいません」
「ああ」
「クリスと三人で、こうして過ごすこともできませんでした」
リリアの頬を涙が伝いました。
「苦しくなかったとは言えません。以前のラシードには、もう戻ってもらえないのではないかと、何度も思いました」
ラシードの表情が歪みました。
「それでも、あなたが私を守ろうとしてくれていたことは分かっていました」
「だが、愛することはできなかった」
「今は、愛してくれているのでしょう」
「ああ」
ラシードが迷いなく答えると、リリアの唇が涙の中でほころびました。
「なら、今はそれでいいです」
「リリア」
「失った年月も、なかったことにはなりません。でも、ラシードが戻ってきてくれたことも、なくなりません」
ラシードは、その言葉を胸の奥で受け止めました。
リリアが笑えば、胸が温かくなる。
涙を流せば、抱きしめたいと思う。
失う前には当たり前だった感情の一つ一つが、かけがえのないものとして胸へ戻っていました。
ラシードは、リリアを胸の中へ抱き寄せました。
「もう、何を失ってもいいとは思わない」
リリアの腕が、ラシードの背へ回りました。
「リリアを守ることも、愛することも、どちらも俺にとって失っていいものではなかった」
「はい」
「それを、失ってからようやく分かった」
ラシードは、リリアの髪へ唇を寄せました。
「愛している、リリア」
「私も愛しています、ラシード」
「そして、クリスを生んでくれてありがとう。あの時に言えなかった言葉も、失った時間も、これから二人で取り戻していこう」
「はい」
二人は、眠るクリスの寝息を聞きながら、互いの温もりを確かめるように抱きしめ合っていました。




