第四十七話 名に残る想い
リリアは戦場へ行くと決めていました。
それでも、すぐには発たず、クリスがもう少し大きくなるまで待つことにしました。
一度戦場へ出れば、いつ太陽の国へ戻れるか分からず、幼いクリスと長く離れることになるからです。
太陽の国では、クリスの小さな手が少しずつ大きくなるのとともに、月日が穏やかに過ぎていきました。
陽射しの降り注ぐ海辺には、ラシードとリリア、そしてクリスの姿がありました。
白い波が砂浜へ寄せては返し、潮を含んだ風が、三人の髪と衣服を揺らしていました。
砂の上には、三人の足跡が並んで続いています。
目の前に広がるのは、かつて訪れたあの海と変わらない景色でした。
けれど、リリアの隣に立つラシードは、あの頃のラシードとは違っていました。
砂浜を歩いていたクリスへ、ラシードが両手を差し伸べました。
「クリス、おいで」
クリスは小さな足でラシードのもとへ駆けていきました。
ラシードがその身体を抱き上げると、クリスは目の前にあるラシードの顔をじっと見つめました。
そして、初めてその言葉を口にしました。
「とおさま」
リリアの瞳に、瞬く間に喜びが広がっていきました。
けれど、ラシードはクリスを抱いたまま、ただその顔を見つめていました。
胸の奥で何かが揺れました。
それでも、それが何なのか、ラシードには分かりませんでした。
少し離れた場所で、その光景を蒼月が見ていました。
蒼月はしばらく三人を見つめたあと、ゆっくりと歩み寄りました。
――クリスが生まれて、すでに二年。リリアがラシードを待つといって一年以上過ぎている。
――十分、待ったではないか。
そして、何も告げないままリリアを腕の中へ抱き寄せました。
「もう、家族ごっこはやめないか」
リリアの表情から、先ほどまでの喜びが消えました。
「何を言っているの?」
蒼月は、リリアを抱く腕を緩めませんでした。
「リリアも分かっているだろう。ラシードは、ふりをしているだけだ」
「私が、リリアを愛しているから」
「分かっています。でも、そんな……蒼月、ひどい」
「十分、私はまった」
リリアが蒼月の胸を押しました。
それでも蒼月は離れず、まっすぐにラシードを見ました。
「ラシードは、リリアを私に託し、リリアを愛せと言った」
ラシードは、クリスを抱いたまま黙っていました。
「そろそろ、気づけ」
蒼月の声が、海風の中を通り抜けました。
「私が、リリアを愛する」
「今、クリスがラシードを『とおさま』と呼んだばかりです」
「知っている。リリアがラシードを想って泣いていることも。そんなリリアを、私は見ていられない。私がリリアを幸せにする」
リリアの声が震えました。
「お願い、蒼月」
クリスは、苦しそうに蒼月を見上げるリリアの顔を見つめていました。
小さな唇が震え、今にも泣き出しそうに歪んでいきます。
蒼月は、なおもラシードから視線を逸らしませんでした。
「ラシード。おまえ、このままだと本当にリリアを私がもらい受ける」
ラシードの腕の中で、クリスが身じろぎました。
「クリスも、私の子として育てよう」
蒼月の瞳に、激しい光が宿りました。
「何のための名だ、ラシード!!」
蒼月はリリアの頬へ手を添え、その唇へ顔を近づけました。
クリスが告げた「とおさま」という言葉。
目の前で、蒼月に抱き寄せられているリリア。
泣きそうになっているクリス。
そのすべてが一つになり、ラシードの内側で、何かを縛っていたものが弾け飛びました。
柱が以前と同じ名を残し、眷属となってなお消えきらぬほど強い想いが、ラシードの中に残っていた。
その二つが噛み合わなければ、決して起こらないはずのことでした。
次の瞬間、ラシードはクリスを片腕に抱いたまま、蒼月の襟首を掴んでいました。
自分でも抑えられないほどの力で、リリアから引き離します。
「蒼月、おまえ……」
喉の奥からこぼれた声は、低く震えていました。
蒼月を睨みつけるその瞳には、これまで失われていたはずの激しい感情が浮かんでいました。
「リリアに触れていいのは、俺だけだ」
ラシードはクリスを抱いたまま、もう一方の腕でリリアを蒼月から奪い返しました。
そのまま二人を胸の中へ抱き込み、誰にも渡さないと示すように、強く腕を回しました。
リリアは、息をすることさえ忘れたようにラシードを見上げました。
自分を抱く腕の強さも、蒼月へ向けられた怒りも、すべてが懐かしいものでした。
「ラシード……」
クリスは父の胸と母の身体に挟まれながら、涙をためた瞳でラシードを見つめていました。
「とおさま……」
その声に、ラシードの腕がさらに強くなりました。
幼い身体を抱き直し、リリアの髪へ顔を寄せます。
「俺の妻だ」
声は、まだ震えていました。
「俺の子だ」
その言葉を口にした瞬間、ラシードの中に残っていた最後の迷いが崩れ落ちました。
「誰にも渡さない」
リリアの瞳から、堪えていた涙がこぼれました。
それは悲しみではなく、長いあいだ待ち続けていたものが、ようやく帰ってきたことを知った涙でした。
蒼月は乱された襟元を整えながら、三人を見つめました。
その蒼い瞳にあった激しさは消え、代わりに深い安堵が浮かんでいました。
「……ふっ。やっとか」
蒼月は、ほんの少しだけ笑いました。
ラシードはその顔を見て、ようやく自分が何をされたのか悟りました。
「おまえ、まさか……」
「遅すぎるのだ、ラシード」
白い波が、三人の足元へ寄せました。
ラシードの胸の中で、クリスがもう一度、小さな声で呼びました。
「とおさま」
今度は、ラシードも迷いませんでした。
「ああ」
クリスの小さな背を撫で、涙を流すリリアを抱き寄せました。
「父さまだ」
クリスは嬉しそうに笑い、ラシードの胸へ小さな頬を寄せました。
リリアもまた、二人を包む腕の中で、目を閉じました。
蒼月は、寄り添う三人を少し離れた場所から見つめていました。
その顔には、穏やかな笑みが浮かんでいました。
白い波が足元へ寄せては返し、三人の影をひとつに重ねていきました。




