第四十六話 膠着
魔物と人間の戦争は、どちらも決定的な一手を打てぬまま、時だけが過ぎていきました。
ネヴァリア王国の王都ネリスを覆う瘴気を浄化できない以上、人間側はその奥へ攻め込むことができません。
反対に、魔物の軍勢が人間側の防衛線を押し始めれば、ラシードや空の賢者が戦場へ現れ、再びネリスの近くまで押し返しました。
ディグラードや黒、沙良が自ら戦場へ出ても、状況は変わりませんでした。
蒼月とラシードが立ちはだかり、三人を人側の陣地へ近づけさせなかったからです。
戦場には魔物の咆哮と兵士たちの怒号が響き続けていました。
それでも境界はほとんど動かず、同じ場所で戦いだけが繰り返されていました。
この膠着状態を崩すには、リリアの浄化が必要でした。
一度にすべてを浄化できなくても、ネリスへ続く道の瘴気を少しずつ消していけば、人間の軍を前へ進めることができます。
蒼月にも、それは分かっていました。
その日、蒼月は戦場を離れ、太陽の国へ戻っていました。
ラシードはディグラードを抑えるため戦場に残っており、この場所にはいませんでした。
その代わり、女神が戻っていました。
太陽の国では、穏やかな陽射しが白い建物と青い海を照らしていました。
開け放たれた窓の向こうから波の音が届く部屋で、リリアはクリスを腕に抱いています。
クリスは以前よりも身体が大きくなり、まだ言葉にはならない声を上げるまでに成長していました。
リリアが呼びかけると、その声へ応えるように手足を動かし、嬉しそうに笑います。
やがて眠りについたクリスの頬へ、リリアの指先が触れました。
リリアは愛おしそうにその顔を見つめ、腕の中の小さな身体を抱き直しました。
蒼月は、少し離れた場所から二人を見つめていました。
その隣に、女神が歩み寄りました。
女神もまた、リリアとクリスの姿へ、穏やかな眼差しを向けていました。
「大地様。まだ、迷っておられるのですね」
蒼月は、リリアとクリスを見つめたまま、口を閉ざしていました。
女神は、眠るクリスを抱くリリアを見つめたまま、言葉を続けました。
「リリア様を戦場へお連れになれば、また黒が連れ去ろうとするやもしれません」
「かといって浄化へ向かわせれば、幼いクリス様を、この地へ残すことになります」
「……分かっている」
蒼月は、低く答えました。
「今は、二人が同じ場所にいる。だから私は、リリアとクリスの両方を守れる」
蒼月の視線が、リリアの腕の中で眠るクリスへ落ちました。
「だが、リリアだけを戦場へ連れていけば、戦場に立つリリアと、この国に残るクリス。そのどちらかから、必ず目を離さなければならなくなる」
女神は、蒼月の横顔を見つめました。
「それが分かっていて、大地様は決めかねておられるのですね」
蒼月は、その言葉を否定しませんでした。
「ですが、大地様お一人で抱えることでは、ないのかもしれません」
女神は、眠るクリスを抱くリリアへ目を向けました。
「リリア様ご自身が、どうなさりたいのか。それを、聞いてみられてはいかがですか」
クリスが眠りながら小さな声を漏らしました。
その声を聞いたリリアの表情が緩み、蒼月の胸には、戦場に残してきたラシードの姿が浮かびました。
ラシードは父としてクリスを抱き、世話をするようになっていました。
リリアから頼まれなくてもクリスのもとへ向かい、泣き声を聞けば抱き上げました。
けれど、蒼月へ捧げた忠誠も、リリアへ向ける敬意も、眷属となった時から変わっていませんでした。
蒼月はリリアの腕の中にいるクリスを見つめながら、眷属となった男へ名を与えた日のことを思い返しました。
以前と同じ「ラシード」という名を残したのは、いつか失われたものが戻るかもしれないと思ったからでした。
名前だけでもつなぎ止めておけば、ラシードが再びリリアのもとへ帰ってくるかもしれない。
けれど、そんな都合のよいことは起きませんでした。
ラシードは変わらず蒼月へ仕え、命じられた役目を果たしていました。
リリアを気遣い、クリスを守っていても、そこに以前のラシードが抱いていた激しい感情は見えませんでした。
眷属となる前、ラシードは蒼月へリリアを託しました。
自分の代わりに、リリアを愛してほしいと告げたのです。
けれど、それはラシードが一人で決めたことでした。
リリアが誰を愛し、誰と生きたいのかという気持ちは、その言葉の中にはありませんでした。
蒼月はリリアを愛していました。
今も、自分だけのものにしたいという思いは消えていません。
目の前でクリスを抱くリリアの姿を見ていると、その腕ごと自分のもとへ引き寄せたいという衝動が胸の奥から込み上げました。
それでも、ラシードが戻らないことを理由に、リリアを自分のものとしてよいのか。
何も感じていないように見えるラシードの前で、その妻を奪ってよいのか。
蒼月は、眠るクリスを抱くリリアのもとへ歩み寄りました。
リリアは眠りについたクリスを寝台へ寝かせ、掛布を胸元までかけました。
小さな寝息を確かめてから、身を起こします。
蒼月は、迷いを胸に残したままリリアを腕の中へ抱き寄せました。
頬へ手を添え、驚いて顔を上げたリリアの翡翠色の瞳を見つめました。
戦場へ連れていくことも、この場所へ残していくことも、蒼月一人では決められませんでした。
ラシードから託された言葉を理由に、リリアのこれからまで決めてよいはずもありません。
「リリアは、今後どうしたい?」
蒼月はリリアの頬へ手を添えたまま、翡翠色の瞳を見つめました。
「魔物との戦争のことも、ラシードのこともだ。リリア自身が、これからどうしたいのかを聞きたい」
リリアは蒼月の胸元へ手を添えました。
蒼い瞳に浮かぶ迷いを見つめ返し、胸の内にある思いを言葉にしました。
「魔物との戦争は、終わらせたいです」
リリアは寝台で眠るクリスへ目を向けました。
小さな胸が、寝息に合わせて上下していました。
「私の浄化がなければ戦いが終わらず、その間にも多くの人が傷つき、命を失っていくのでしょう」
リリアは蒼月へ視線を戻しました。
「それなら、私は戦場へ行きます」
蒼月の瞳が揺れました。
「クリスを残してでもか」
「この子を危険に晒したいわけではありません。でも、私にできることがあるのに、クリスを理由にここへ隠れていることもできません」
リリアは蒼月の胸元へ添えていた手に力を込めました。
「クリスを守れる方法を考えます。信頼できる方に託し、結界も重ねます。それでも危険が残ることは分かっています」
寝台で眠るクリスへ、リリアはもう一度目を向けました。
「それでも私は、この子が生きていく世界を、魔物と瘴気に奪わせたくありません」
リリアは迷いを振り切るように、蒼月を見つめました。
「私は戦場へ行き、瘴気を浄化します。それが、魔物との戦争についての私の答えです」
「わかった」
蒼月は短く答えました。
「ラシードのことは、どうしたい?」
その問いに、リリアの瞳が揺れました。
寝台で眠るクリスの向こうに、戦場へ立つラシードの姿を思い浮かべているようでした。
「今のラシードが、以前とは違うことは分かっています」
リリアの声が胸の奥で震えました。
「私を見ても、以前のように笑ってくれません。私が触れても、戸惑うことも、照れることもありません」
蒼月はリリアの言葉を遮らず、その顔を見つめ続けました。
「それでも、ラシードはここにいます。私やクリスのそばにいて、私たちを守ってくれています」
リリアは蒼月の胸元を掴みました。
「戻ってくるか分からなくても、私はラシードを諦めたくありません」
その答えを聞き、蒼月の蒼い瞳に痛みが走りました。
それでも、リリアから目を逸らしませんでした。
「ラシードのその気持ちは私がリリアを愛しているからだ。それでもか? ラシードは、自分の代わりにリリアを愛してほしいと私に言った」
「それは、ラシードが決めたことです」
リリアは蒼月の頬へ手を伸ばしました。
「蒼月が私を愛してくれていることは分かっています。私を守り続けてくれたことも、クリスを大切にしてくれていることも分かっています」
リリアの指先が、蒼月の頬に触れました。
「でも、私が誰を愛し、誰と生きたいのかは、私が決めたいです」
蒼月の腕の中で、リリアはまっすぐにその瞳を見つめました。
「私は今も、ラシードを愛しています」
その言葉が、二人の間へ落ちました。
窓の外から届く波の音だけが、沈黙の中を満たしました。
「だから、もう少し待ってください」
リリアは蒼月の胸へ額を寄せました。
「ラシードが戻る可能性が残っているのなら、私は信じていたいです」
蒼月はリリアの背へ腕を回しました。
胸の奥には、リリアを自分だけのものにしたいという思いが残っていました。
それでも、リリアが選んだ答えを奪うことはできませんでした。
「分かった」
蒼月の声が、リリアの髪の上へ落ちました。
「戦争のことも、クリスのことも、ラシードのことも、リリア一人に決めさせはしない。私も考える」
リリアは蒼月の胸元で頷きました。
寝台では、クリスが二人の声を聞いたように小さく身じろぎしました。
蒼月とリリアは同時にその姿へ目を向けました。
戦争も、ラシードのことも、まだ答えは出ていませんでした。
それでも蒼月は、初めてリリア自身の望みを聞くことができました。




