第四十五話 裏切りの取引
魔物の軍勢と人間の軍がぶつかり合う戦線から、少し離れた場所でした。
剣戟と怒号が風に乗って響く中、魔物たちへ指示を出している女の将へ向かって、一人の男が歩いてきました。
女の将は、ディグラードから「寧」という名を与えられた魔物でした。
人に近い美しい姿をしていましたが、その周囲には濃い瘴気が漂い、赤い瞳には人間にはない冷たい光が宿っていました。
男は両手で白旗を掲げ、頭上で大きく振りながら寧へ近づいてきました。
周囲の魔物たちが唸り声を上げ、男へ牙を剥きました。
寧が片手を上げ、男へ魔力を放とうとした瞬間、遠くから声が響きました。
「おーい! 私に敵意はありません! お願いです、話を聞いてください!」
寧は男へ向けていた手を止め、近くにいた魔物たちへ目を向けました。
「連れてこい」
魔物たちは男を取り囲むと、両腕を後ろへ回して拘束しました。
そのまま寧の前まで連れていき、石の多い地面へ膝をつかせました。
白旗が男の手から落ち、戦場から吹きつける風に煽られて地面の上を転がりました。
寧は跪く男を冷ややかに見下ろしました。
「人が、私に何の用だ」
男は顔を上げました。
寧の整った顔立ちと、人とは異なる美しさに目を奪われ、場違いな笑みを口元へ浮かべました。
「私は、各地から人を集め、売りに出している者です」
「奴隷商か」
寧は、かつて人であった頃の記憶を辿るように男を見つめました。
「その奴隷商が、私たちに何の用だ」
「私が人を集め、皆様へお渡ししましょう」
寧の眉が動きました。
「魔物には困っていない。必要ならば、いくらでも作ることができる」
「いえ。集めた人を、魔物へ変えるために使うのではありません」
男は両腕を拘束されたまま、身体を前へ傾けました。
「捕らえた者たちを教育し、人間の中へ紛れ込ませるのです。兵や役人、商人として各国へ送り込めば、皆様のために情報を集め、国を内側から崩すことができます」
「そのような者は必要ない」
寧が言い放つと、男は慌てて言葉を続けました。
「ですが、このままでは、人との戦いは膠着したままです」
寧の赤い瞳が男を捉えました。
「何が言いたい」
「あちらには、人ならざる神たちがいます。正面から力だけで押し切るのは難しいでしょう」
寧の周囲で瘴気が激しく揺れました。
男を押さえていた魔物たちも牙を剥き、喉の奥から低い唸り声を漏らしました。
「我らの力を愚弄するつもりか!」
寧の声が荒れた大地へ響きました。
「違います! そのようなつもりではありません!」
男の顔から血の気が引きました。
それでも、ここで退けば殺されると悟っているのか、寧から目を逸らしませんでした。
「私は、この状況を打開する策を持ってきたのです。正面から倒せない者がいるのなら、人の側から崩せばよいのです」
寧は男の言葉を吟味するように、その顔を見つめました。
自らが持つ人間の知識と悪意を、魔物へ売り込もうとしていることは伝わってきました。
遠くでは、魔物と人間の軍がぶつかり合う音が続いていました。
正面から戦い続ければ、蒼月やラシード、空の眷属たちが立ちはだかります。
けれど、人間自身の手で国を内側から崩すという策ならば、これまでとは異なる戦い方ができるかもしれません。
寧は腰に下げていた黒い石を取り出し、指先で表面をなぞりました。
石の内側に赤い光が灯ると、黒い瘴気が細い煙となって立ち昇りました。
「その策は、私だけでは決められない。ディグラード様をお呼びする」
その言葉が終わると同時に、寧の背後で黒い霧が渦を巻きました。
辺りの空気が重く沈み、周囲にいた魔物たちが一斉に頭を垂れました。
霧がほどけると、その中からディグラードが姿を現しました。
黒い衣の裾が戦場から吹きつける風に揺れ、その影が拘束された男の足元まで伸びました。
「寧。何があった」
寧はディグラードへ身体を向け、頭を下げました。
「ディグラード様。この男が、人間を集めて教育し、間者として各国へ送り込む策を持ってきたと申しております」
ディグラードは男の前まで歩み寄りました。
その視線を受けた男の喉が動き、先ほどまで浮かべていた笑みが消えていきました。
「人よ。お前は、なぜ同じ人を裏切る」
男は恐怖を押し隠すように息を整えました。
「もちろん、ただで皆様へ協力するつもりはありません」
「何を望む」
男はディグラードを見上げました。
その目には、恐怖よりも強い欲望が宿っていました。
「私に、一国を与えていただきたいのです」
ディグラードの瞳が細められました。
「同族を差し出した報酬として、王になりたいということか」
「いずれ瘴気が世界へ広がれば、人はどの国でも生きられなくなります。それならば、人をすべて滅ぼさず、皆様の奴隷として残してはいかがでしょう」
男の声に熱がこもりました。
「捕らえた人を幼い頃から教育し、皆様へ逆らわないしもべとして育てるのです」
男は拘束された身体を前へ傾け、さらに続けました。
「その者たちを育てる国を、私に任せていただきたいのです。私はその国の王となり、皆様に仕える兵や間者を育て続けます」
寧は男を見つめました。
かつて人であった頃の記憶を辿っても、同族を売り渡してまで王になろうとする男の心は理解できませんでした。
「人とは、自らの欲のためなら、同族さえ差し出すのか」
男の口元に、欲深い笑みが戻りました。
「私は、滅ぼされる側になりたくないだけです」
「同じ人を差し出せば、自分だけは支配する側へ行けると思っているのだな」
「生き残るためです」
ディグラードは、男の欲望を見透かすように見下ろしました。
同族を売り渡し、その上に自らの国を築こうとする男の目には、迷いも罪悪感もありませんでした。
「面白いことを考える男だ」
男の顔に喜びが広がりました。
「それでは、私に国を――」
「勘違いするな」
ディグラードの声が低く響き、男は言葉を止めました。
「お前はまだ、何一つ成し遂げていない」
ディグラードは男を見下ろしたまま、冷えた声で続けました。
「まずは人を集めろ。その中から使える者を選び、人の国へ送り込め。成果を示した時に、お前へ何を与えるか考えてやる」
「成功すれば、一国をいただけるのですね」
「お前が、それだけの価値を示せればな」
男は欲望を隠しきれないまま、深く頭を下げました。
「必ず、ご期待に応えてみせます」
ディグラードは寧へ目を向けました。
「寧。この男を監視しろ。必要な魔物を与え、人を集めさせるのだ」
「承知しました」
「逃げるか、我らを欺こうとした時は殺せ」
寧の赤い瞳が男へ向けられました。
「聞いたな」
「もちろんです。決して皆様を裏切りません」
男は迷うことなく答えました。
けれど、その瞳に宿っているのは忠誠ではありませんでした。
自分だけが生き残り、王となる未来を思い描く、濁った欲望だけでした。
ディグラードは、その欲望を見抜いていました。
それでも、人の国を内側から崩すために利用できる間は、生かしておく価値があると考えていました。
戦場の向こうで、再び大きな衝突音が響きました。
人を裏切るために現れた男は、魔物たちに囲まれながら、自ら望んだ道へ足を踏み入れました。




