第四十四話 種
ディグラードと黒、沙良が、ネヴァリア王国の王都ネリスを拠点に蒼月とラシード、空の眷属たちを引きつけて戦っていた頃、シェザールは単独で各国を巡っていました。
シェザールが向かったのは、王都から離れた街や村、小さな集落でした。
人々の目につかない場所を選び、持ち込んだ黒い結晶を一つずつ地中へ埋めていきました。
最後に訪れた国でも、王都に近い街へ入り込みました。
人通りが途絶えた頃を見計らって下水へ降り、最も奥まった場所まで進みます。
湿った石壁の間には淀んだ水が流れ、腐ったような臭いが満ちていました。
シェザールは周囲に人の気配がないことを確かめると、懐から黒い結晶を取り出しました。
結晶の奥では、黒い瘴気が脈打つように揺れていました。
シェザールは地面を深く掘り、その中へ結晶を落としました。
「あとは、瘴気が広がるのを待つだけだ」
土を戻し、外からは何も埋められていないように石を重ねました。
「村や小さな集落なら、それほど時間はかからないだろう。だが、街ほどの広さになると、二つや三つ置いただけでは、瘴気が行き渡るまで数年はかかるかもしれないな」
シェザールは、グランヴァルド王国の王都へ黒い結晶を投げ込んだ時のことを思い出していました。
あの時は性急だったため、黒い結晶を塊のまま大量に投げ込み、ディグラードの魔力で一気に瘴気を拡散させたのです。
今回は、すぐに人々を襲うほどの瘴気が生まれるわけではありません。
黒い結晶は地中で少しずつ瘴気を放ち、土地と水を長い時間をかけて侵していくのです。
シェザールには、物を隠すことに長けた特殊な力がありました。
シェザールが触れ、隠蔽の結界を施したものは、その存在そのものが周囲から認識されにくくなり、魔力による感知にも捉えられなくなります。
その力は、人間や魔物だけではなく、柱と呼ばれる存在の感知すら欺くことができました。
各地に埋められた黒い結晶にも、すべてシェザールの結界が施されていました。
そのため、結晶が地中で瘴気を蓄えながら成長を続けていても、蒼月たちはその存在を察知できずにいました。
育つまで、蒼月や空の眷属たちに発見されなければよい。
シェザールは結晶を埋めた場所へ目を向けました。
やがて水の流れる音だけが残り、シェザールの姿は下水の闇から消えていました。
――早く、ディグラード様のもとへ戻りたい。
その思いを胸に、シェザールは王都ネリスへ戻りました。
城へ入ると、戦場から引き上げたディグラードと黒が、すでに戻っていました。
シェザールはディグラードの前まで歩み寄り、頭を下げました。
「ディグラード様。黒い結晶を、各国の街や村へ置いてまいりました」
「ご苦労だったな」
ディグラードはシェザールを抱き寄せ、頬へ手を添えました。
そのまま顔を近づけ、シェザールの唇へ口づけました。
そこへ、沙良が姿を現しました。
二人の姿を見たあと、ディグラードと黒へ目を向けました。
「なんだ。戦いは終わったのか」
「リリアとラシードの子が生まれたと聞いた。誕生を祝うため、今回は引いてきた」
沙良は呆れたように二人を見ました。
「お前たちのやっていることは、矛盾しているぞ」
黒は沙良の言葉を気にする様子もなく、口を開きました。
「子が生まれることは尊いものだ。俺も祝福したかったな」
シェザールは驚いて、黒を見ました。
「えっ。堕ちても、祝福はできるのですか」
「できないかもしれんな」
黒は自分の手を眺めました。
「堕ちてからは、祝福などしたことがないからな。今の俺にできるのか、自分でも分からん」
「やったこともないのに、祝福したかったなんて言っていたのですか……」
「殺すぞ!」
黒がシェザールを睨みつけました。
シェザールはディグラードの腕の中から、黒を見返しました。
ディグラードはシェザールの肩を抱いたまま、沙良へ目を向けました。
「種は仕込んだ。あとは、あいつらをここへ縛りつけておく必要がある。黒い結晶を発見され、封じ込められれば、仕込んだ意味がなくなるからな」
「では、また新たな将と魔物を作っておこう」
「頼む」
黒は退屈そうに息を吐きました。
「俺は、大地やラシードが相手でなければつまらんな」
黒が水鏡へ手を触れると、黒い水面に波紋が広がりました。
揺れる水の中に、リリアと生まれたばかりのクリスの姿が映し出されました。
リリアの近くには蒼月がいました。
蒼月が何かを感じ取ったように顔を上げた瞬間、水面が大きく乱れ、映像が途切れました。
黒は揺れ続ける水鏡を見下ろしました。
「あそこは、以前王都を覆っていた結界などとは違い桁違いに強い、大地の結界で守られている。本気でぶつかっても、砕けるかどうかわからない」
黒は水鏡から手を離しました。
乱れていた水面が収まりました。
「結界の中へ入れないのなら、外へ引きずり出せばいい」
沙良の言葉に、ディグラードは頷きました。
玉座の前に立つ沙良へ目を向け、次の戦いを命じます。
「沙良。人間の国へ向けて、新たな軍を進めろ。大地と眷属たちが、このネリスから目を離せぬようにな」
「分かった」
沙良は広間の中央へ歩み出しました。
纏っていた黒い衣の裾が石床をなぞり、その足元から濃い瘴気が溢れ出しました。
瘴気は冷えた床を覆いながら広がり、やがて広間の中央で渦を巻き始めました。
城の壁を震わせるような低い唸りが響き、黒い渦の中から太い腕が伸びました。
続いて大きな胴体と二本の脚が形を成し、頭部には湾曲した角が生えていきました。
人に似た姿を持ちながら、その身体は黒く硬い皮膚に覆われ、胸元では瘴気が脈打っていました。
やがて、閉じられていた二つの目が開きました。
赤い光が広間を走り、壁に並ぶ柱へ不気味な影を映し出しました。
沙良が生み出した魔物は、ゆっくりとディグラードの前へ進みました。
その場に片膝をつき、名を与えられる時を待つように頭を垂れました。
ディグラードは、生まれた魔物を見下ろしました。
「この者を、新たな将とする」
黒は水鏡のそばに立ち、興味を引かれたように魔物へ目を向けました。
沙良もまた、自らが生み出した将の姿を見守っていました。
ディグラードは玉座の前へ進み、魔物の正面で足を止めました。
広間を満たしていた瘴気が彼の周囲へ集まり、重い圧力となって石床を軋ませました。
「顔を上げろ」
魔物は命令に従い、赤い瞳をディグラードへ向けました。
ディグラードは、その瞳を見据えながら名を告げました。
「お前の名は――」
ディグラードが名を告げると、魔物の赤い瞳に知性の光が宿りました。
沙良はその後も瘴気を集め、広間に新たな魔物を生み出していきました。
ディグラードは、生まれた魔物たちへ一体ずつ名を与え、自分たちの君を率いる将として迎え入れていきました。




