第四十三話 ラシードの面影
魔王軍と人々との戦いが続く一方で、グランヴァルド王国の王都は、瘴気の一件からの復興を続けていました。
しかし、全盛期にはほど遠く、人口も街の賑わいも、かつてには及びませんでした。
復興を優先したため、国葬は大きく遅れていました。
それでも準備は進められており、近いうちに執り行われる予定でした。
国葬を前に、リリアとラシード、蒼月は、クリスを伴ってグランヴァルド王国を訪れていました。
リリアの父であるハインリヒに、クリスを会わせるためでした。
リリアたちが訪れると聞き、王宮では、これまで親しくしていた者たちを昼食へ招き、ささやかな祝いの席が設けられていました。
アレクシス王とヴィクトリア王妃、王子たちをはじめ、懐かしい顔ぶれが一堂に集まっていました。
窓から差し込む柔らかな光が、長い食卓に並べられた花々を明るく照らしていました。
リリアがクリスを抱いて広間へ入ると、集まっていた者たちの顔に笑みが広がりました。
アレクシス王は蒼月とラシードへ向き直り、これまでの尽力に対して改めて深く礼を述べました。
ヴィクトリア王妃も、穏やかな微笑みを浮かべながら頭を下げました。
ラシードは一礼しました。
「皆様、お久しぶりです。本日は私どものために、このような席を設けていただき、ありがとうございます」
「私からも、ありがとうございます」
リリアも隣で頭を下げました。
それから、腕の中の幼子を皆に見えるように抱き直しました。
「こちらは、クリスです」
クリスは大勢の視線を受けても泣くことなく、翡翠色の瞳で広間を見回していました。
ハインリヒは、その小さな顔を見た途端、堪えきれないように表情を緩めました。
リリアの前まで歩み寄り、クリスの顔を覗き込むように身をかがめました。
「クリス。じいじだぞ」
いつもは厳格な宰相の口から出た言葉に、周囲から小さな笑い声がこぼれました。
リリアも思わず笑みを浮かべました。
「父さまったら」
ハインリヒは気にする様子もなく、クリスへ指を差し出しました。
クリスはその指をじっと見つめたあと、小さな手でしっかりと握りました。
その瞬間、ハインリヒの目元が潤みました。
「よく来たな、クリス」
ハインリヒはクリスに握られた指を見つめたまま、リリアへ告げました。
「リリア、何か困ったことがあれば、何でも言うのだ」
「ありがとうございます、父さま」
エレナも近くへ歩み寄り、クリスの顔を嬉しそうに覗き込みました。
「クリス様は、ラシード様に似ていらっしゃいますね」
ラシードはクリスへ視線を向けました。
その表情は穏やかでしたが、以前のような照れや戸惑いが浮かぶことはありませんでした。
「そうですか。それは嬉しいです」
落ち着いた返事でした。
その場にいた者たちは、ラシードに何が起きたのかを聞いていました。
かつて王宮で見せていた、親しみやすく、時に感情を隠しきれなかった頃のラシードとは違うことにも、皆が気づいていました。
それでも、誰も悲しげな顔を見せませんでした。
クリスを抱くリリアの穏やかな笑顔を曇らせぬよう、以前と変わらぬ様子でラシードへ言葉をかけました。
ラシードも、それに一つずつ丁寧に答えていました。
けれど、その姿を見つめる者たちの胸には、かつての彼を知っているからこその、言葉にできない寂しさが残っていました。
グランヴァルド王国に数日滞在し、一通りの挨拶を終えたあと、リリアとラシード、蒼月は転送機を使い、サハルディア王国へ向かいました。
王宮では、サフィーラ女王が三人とクリスを迎え、ナーディルも呼び寄せていました。
広間へ入ってきたラシードの姿を見た瞬間、サフィーラ女王の瞳に涙が浮かびました。
ラシードに何が起きたのかは、すでに聞いていました。
それでも、幼い頃から知る甥が、以前とはまるで違う落ち着きをまとって立つ姿を目の前にすると、込み上げるものを抑えることはできませんでした。
ナーディルもまた、言葉を失ったようにラシードを見つめていました。
長く傍らに仕え、笑う姿も、怒る姿も、苦しみながら前へ進む姿も見てきました。
だからこそ、穏やかに一礼するラシードの中から、かつての熱が失われていることが分かってしまいました。
悪戯っぽく笑う仕草も、ふと翳りを宿す横顔も、ナーディルと交わした調子のよい掛け合いも、すべてが遠い記憶の中へ滲んでいくようでした。
サフィーラ女王は涙を拭い、ラシードへ微笑みました。
「サフィーラ女王。ラシードです」
ラシードは一礼しました。
叔母上、と呼んでいた声を、この広間にいる誰もが覚えていました。
初めて会う相手のように名乗る甥を前に、サフィーラ女王の微笑みが一瞬だけ崩れました。
けれど、それを悟らせる前に、女王は口を開きました。
「ラシード。よく戻りました」
「本日は、クリスをご紹介するために参りました」
ラシードはナーディルへ顔を向けました。
「ナーディルも、お久しぶりです。クリスを見ていただきたいと思っていました」
「……はい。お待ちしておりました」
ナーディルは込み上げるものを抑え、ラシードへ頭を下げました。
サフィーラ女王は、リリアとクリスへ目を向けました。
「何日でも、ゆっくり過ごしなさい」
それから、リリアへ微笑みかけました。
「リリア公爵。こちらでも、何か困ったことがあれば、遠慮なく言ってくださいね」
「ありがとうございます、サフィーラ女王」
リリアはクリスを抱いたまま、深く頭を下げました。
サフィーラ女王は頷き、再びラシードへ視線を向けました。
幼い頃から知るラシードの変化に、胸の奥が痛まないはずはありませんでした。
それでも、その悲しみをリリアに悟らせぬよう、サフィーラ女王もナーディルも、以前と変わらぬ様子で接していました。
「リリア公爵。クリスを抱かせてもらえますか」
「もちろんです」
リリアは微笑み、クリスをサフィーラ女王の腕へ預けました。
クリスはサフィーラ女王の顔を見上げると、人見知りすることもなく無邪気に笑いました。
その笑顔に、サフィーラ女王の記憶の中で、幼い頃のラシードの姿が重なりました。
「ラシードに似ていますね」
サフィーラ女王はクリスの頬へ触れ、目を細めました。
「リリア公爵とラシードの子です。きっと、立派で美しい子に育つでしょう」
クリスは、サフィーラ女王の指を小さな手で握りました。
その温もりに、サフィーラ女王は一度だけ目を伏せました。
腕の中にいるのは、もう幼い日のラシードではありません。
けれど、その面影を受け継いだ新しい命が、今、確かにここにいました。
ナーディルはクリスを見つめ、目を細めました。
ラシードも少し離れた場所から、女王に抱かれるクリスを見つめていました。
王宮の窓から差し込む陽射しが、クリスの柔らかな髪を明るく照らしていました。
遠い記憶の中へ滲んでいったものを、その小さな命だけが、もう一度結び直しているようでした。




