第四十二話 名付け
リリアから子の名を任されたラシードは、部屋へ戻ってからも、そのことを考え続けていました。
けれど、どれほど考えても、すぐには一つの名を選ぶことができませんでした。
ラシードは蒼月のもとを訪れ、考え込むように口を開きました。
「子の名が、なかなか決まりません」
蒼月は迷うことなく答えました。
「ラシードがよいと思う名をつければよい」
ラシードは窓の外へ目を向け、いくつもの響きを心の中で繰り返しました。
ラシードは、すでに人ではありませんでした。
人として生きていた頃の家も立場も、眷属となった今の自分が継ぐものではありません。
だからこそ、あの子にはリリアの家名を継がせたいと思いました。
リリアのもとで育ち、ヴァイスベルク家へ続いていく者として、美しく、呼びやすい名を与えたかったのです。
長く考えた末に、ラシードが口を開きました。
「クリスでは、いかがでしょうか。クリス・フォン・ヴァイスベルク」
蒼月は、その響きを確かめるように名を繰り返しました。
「クリスか。よい名だ」
ラシードは目を伏せました。
自分が選んだ名でありながら、まだ誰のものでもない響きのように感じられました。
「リリアと赤子に伝えに行こう」
蒼月に促され、ラシードはリリアと赤子のいる部屋へ向かいました。
リリアは窓辺の椅子に座り、腕の中で眠る赤子を見つめていました。
二人が部屋へ入ると、嬉しそうに顔を上げました。
ラシードはリリアの隣へ歩み寄りました。
「リリア様、子の名を考えました」
「本当ですか」
リリアの表情が明るく輝きました。
ラシードは、リリアの腕の中で眠る赤子を見つめました。
「クリスでは、いかがでしょうか」
「とてもよい名前です。響きも美しいわ」
リリアは嬉しそうに微笑み、腕の中の赤子をラシードへ差し出しました。
「さあ、ラシード。呼んであげてください」
ラシードは赤子を受け取り、その小さな身体を両腕で支えました。
しばらく腕の中の赤子を見つめてから、その名を告げました。
「お前の名は、クリスだ」
赤子は目を開き、ラシードの顔を見つめました。
何も知らない澄んだ瞳の中に、自分の姿が小さく映っていました。
「クリス・フォン・ヴァイスベルク。この子には、リリア様の家名を継いでもらいたいと思います」
リリアは驚いたようにラシードを見つめました。
やがて、ラシードの腕に抱かれたクリスの頬へ手を添えました。
「ありがとうございます、ラシード」
クリスは、名を聞き取ったかのように小さな手を動かしました。
伸ばされた指先が、ラシードの胸元へ触れました。
その瞬間、また何かがラシードの心の中へ流れ込みました。
胸の奥を塞いでいたものに、ほんの少しだけ、ひびが広がったように感じられました。
それが何なのかは、まだ分かりませんでした。
ラシードは何も言わず、腕の中のクリスを見つめ続けました。
その隣では、リリアが幸せそうに微笑んでいました。
その夜、蒼月が一人で夜空を見上げていると、足元に伸びた影が深くなりました。
月の光が届かない闇の中から、低い声が響きました。
「大地の。お前は、本当に甘いな」
蒼月は影へ目を向けました。
「何の話だ」
「なぜ、ラシードをラシードと名付けた」
蒼月は夜空を見上げたまま、唇を結びました。
闇の気配はその姿を見届けると、足元の影へ沈んでいきました。
それから数日が過ぎました。
白い街には穏やかな陽光が降り注ぎ、遠くから波の音が絶えず聞こえていました。
穏やかな日々の中で、クリスはよく眠り、よく泣きました。
その日も、窓辺の揺り籠で眠っていたクリスが、突然大きな声を上げました。
リリアが立ち上がろうとすると、先にラシードが揺り籠へ向かいました。
「私が見ます。リリア様は休んでいてください」
ラシードはクリスを抱き上げました。
腕の中で身体を支え、背を軽く叩きましたが、クリスは顔を赤くしたまま泣き続けました。
「お腹が減ったのでしょうか」
「先ほど飲んだばかりです」
リリアが答えると、蒼月がクリスの様子を見ながら近づいてきました。
「おむつだ」
ラシードは蒼月へ顔を向けました。
「分かるのですか」
「その泣き方は、腹が減った時とは違う」
蒼月は当然のことのように告げました。
ラシードは腕の中のクリスへ目を落としましたが、泣き声の違いまでは分かりませんでした。
「替えればよいのですね」
「ああ。寝台へ寝かせろ」
ラシードはクリスを寝台へ運び、布を敷いた上へ慎重に寝かせました。
しかし、その後の手が止まりました。
隣から手元を見ていた蒼月が問いかけました。
「どうした」
「いえ」
「分からぬのだろう」
「見れば分かります」
そう答えたものの、ラシードはクリスとおむつを交互に見ました。
蒼月はしばらくその様子を見てから、手を伸ばしました。
「まず、留めてある布を外す。足だけを持ち上げるな。腰へ手を入れて支えろ」
「こうですか」
「力を入れすぎだ。敵を押さえ込んでいるのではないぞ」
「そのようなつもりはありません」
「ならば、もう少し手の力を抜け」
リリアは椅子に座ったまま、二人のやり取りを眺めていました。
笑いをこらえているのか、口元へ手を添えていました。
ラシードは蒼月に教えられたとおり、クリスの腰を支えました。
小さな身体を傷つけないよう、戦場で刀を握る時よりも慎重に手を動かしました。
「布は折ってから身体の下へ入れる」
「この向きですか」
「逆だ」
「形は同じに見えます」
「同じならば、前と後ろを分ける必要はないだろう」
ラシードは布の向きを直しました。
ようやく新しいおむつをつけ終えると、先ほどまで泣いていたクリスが声を止めました。
ラシードは安堵したように息を吐きました。
蒼月は仕上がりを見て、眉を寄せました。
「曲がっている」
「外れてはいません」
「クリスが動きにくい」
蒼月は留めた布を外すと、手早く形を整えました。
「これでよい」
ラシードは蒼月の手元を見つめました。
「ずいぶん慣れているのですね」
リリアが笑いながら言いました。
蒼月は何でもないことのように答えました。
「この程度、難しいことではない」
蒼月が答えた直後、クリスの小さな手が伸びました。
指先が蒼月の指を掴み、そのまま離そうとしません。
蒼月は動きを止め、握られた指を見下ろしました。
「蒼月、離さないのですか」
「無理に抜けば、また泣くだろう」
ラシードは、クリスに握られた蒼月の指へ目を向けました。
「先ほど、難しいことではないと仰っていましたが」
蒼月は顔を上げました。
「おむつを替えることと、指を離させることは別だ」
リリアはとうとう声を上げて笑いました。
その笑い声を聞いたクリスも、何が楽しいのか分からないまま、口元を緩めました。
ラシードは、その顔を見つめました。
自分が名付けた子がクリスと呼ばれ、泣き、笑い、こうして皆の手の中で育っていく。
それは、これまで知っていたどの喜びとも異なるものでした。
ラシードは手を伸ばし、クリスの頬へ指先で触れました。
「クリス」
名を呼ぶと、クリスは蒼月の指を握ったまま、ラシードの方へ顔を向けました。
その仕草を見たリリアが、幸せそうに微笑みました。
白い街の外から、波の音が届いていました。
戦いの気配から遠く離れた部屋の中で、三人はしばらくの間、クリスを囲んで過ごしました。




