第四十話 父となる
赤子の泣き声が聞こえたあとも、ラシードは扉の前を離れられずにいました。
入ってよいのか、まだ待つべきなのか分からず、閉ざされた扉を見つめていました。
やがて扉が開き、セシリアが顔を見せました。
「ラシード様、どうぞ」
ラシードは一礼し、セシリアの横を通って部屋へ入りました。
寝台の上にいるリリアと、その胸元で眠る赤子の姿を目にすると、足を止めました。
リリアの顔には疲労が残っていましたが、ラシードを見つめる翡翠色の瞳には、安堵の光が宿っていました。
「ラシード……」
ラシードは寝台の傍らまで歩み寄り、リリアの顔を確かめました。
「リリア様、ご無事で何よりです」
「間に合いましたね」
「はい。大地様が、私を戻してくださいました」
ラシードはリリアの胸元へ目を向けました。
柔らかな布に包まれた赤子は目を閉じ、小さな胸を上下させていました。
これまで子供のことを聞かされても、どこか他人の話のようにしか感じられませんでした。
自分とリリアの間に生まれる子だと言われても、ラシードの中に実感はありませんでした。
それでも、目の前にいる小さな命から、すぐに視線を外すことができませんでした。
「ラシード、抱きますか」
ラシードはリリアを見たあと、もう一度赤子へ目を向けました。
刀を握ることしか考えてこなかった両手を見下ろしました。
「私が抱いても、よろしいのでしょうか」
「あなたの子ですよ」
リリアは赤子を支えながら、ラシードへ差し出しました。
「抱いてあげてください」
ラシードは両腕を伸ばしました。
赤子の頭と身体を支えるように教えられながら、力を加えすぎないよう慎重に受け取りました。
腕の中へ収まった身体は、ラシードが想像していたよりも小さく、温かいものでした。
規則正しく聞こえる寝息も、布の下から伝わる鼓動も、確かに生きている者のものでした。
赤子が目を開きました。
まだ何もはっきりとは見えていない瞳が、ラシードのいる方へ向けられました。
小さな手が布の中から動き、ラシードの指へ触れました。
ラシードが指を差し出すと、赤子の手がその指を握りました。
その瞬間、胸の奥で何かが強く脈打ちました。
何が起きたのか分からず、ラシードは赤子を見つめました。
「この子が、私の子なのですね」
「はい。あなたと私の子です」
リリアの言葉を聞いても、失われた想いが戻ることはありませんでした。
それでも、腕の中の小さな命を守らなければならないという思いだけは、誰かに命じられたものではなく、ラシード自身の内側から生まれていました。
ラシードは赤子の額へ顔を寄せました。
「生まれてきてくださり、ありがとうございます」
赤子の額へ口づけると、小さな手がラシードの指を握る力を強めました。
リリアは口元を押さえ、流れる涙を拭いました。
母とセシリアも、ラシードの腕に抱かれた赤子を見つめていました。
女神はラシードの隣から赤子の顔を覗き込みました。
「お父様に抱いてもらえて、嬉しそうですね」
ラシードは腕の中の赤子へ目を落としました。
「私には、この子が何を感じているのか分かりません」
「これから分かるようになりますよ」
女神は笑みを浮かべました。
「抱いて、声を聞き、成長を見守っていけばよいのです」
ラシードは、その言葉を受け止めるように頷きました。
「分かりました」
セシリアはラシードの腕の中にいる赤子を確認したあと、寝台の上のリリアへ目を向けました。
「ラシード様、リリア様を休ませてあげてくださいませ」
ラシードはリリアの顔を見ました。
その表情に残る疲労を確かめると、赤子をリリアの胸元へ戻しました。
「承知しました」
ラシードは赤子の身体が安定していることを確認し、リリアへ頭を下げました。
「リリア様も、お休みください。また参ります」
「はい。待っています」
ラシードはリリアの額へ口づけました。
「よく頑張りましたね」
リリアの瞳から、再び涙がこぼれました。
ラシードは一度だけ赤子へ目を向けると、セシリアとともに部屋を出ました。
翌朝、窓から差し込む光の中で、赤子はリリアの枕元に置かれた小さな寝台で眠っていました。
リリアは女神の力によって出産で傷ついた身体を癒やされ、失った体力も取り戻し始めていました。
扉が開き、ラシードが部屋へ入りました。
リリアへ一礼したあと、眠っている赤子へ目を向けました。
「リリア様、お身体はもうよろしいのですか」
「まだ少し重いですけれど、大丈夫です」
ラシードは寝台の傍らへ腰を下ろしました。
眠っている赤子の小さな手を見つめ、昨夜握られた自分の指へ目を落としました。
リリアはラシードの横顔を見つめました。
「この子の名前は、ラシードに決めてもらいたいのです」
ラシードは眠っている赤子へ目を向けました。
しばらくその小さな顔を見つめてから、リリアへ頷きました。
「分かりました」
朝の光の中で、まだ名を持たない赤子が小さな手を開きました。
ラシードが指を差し出すと、赤子はもう一度、その指を握りました。
ラシードは説明できない感覚を胸の奥に抱えたまま、小さな手を見つめていました。




