第三十九話 誕生
ラシードが別荘へ戻ると、セシリアに呼び止められました。
戦場から戻ったばかりの衣服には、雪と泥がこびりつき、黒い魔力の跡も残っていました。
「ラシード様、まずは湯浴みをしてくださいませ。そのお姿では、リリア様のお側へは入れません」
ラシードは自分の姿を見下ろし、すぐに頷きました。
湯浴みと着替えを終えたラシードは、固く閉ざされた扉の前を何度も行き来していました。
中からリリアの苦しそうな声が聞こえるたびに足を止め、扉へ手を伸ばしかけては、どうにか堪えていました。
「リリア様は大丈夫なのか!」
返事を待つ間にも、扉の向こうからリリアの苦しげな声が聞こえてきました。
ラシードは眉間に深い皺を寄せ、胸元を強く掴みました。
「ひどく苦しそうだ」
扉の向こうから、セシリアの声が返ってきました。
「ラシード様、落ち着いてくださいませ」
「一番頑張っているリリア様を、そこで応援してあげてください」
ラシードは扉の前に立ち、目を閉じました。
自分にできることが何もないという事実が、戦場で刀を振るうことよりも苦しく感じられました。
部屋の中では、セシリアが汗に濡れたリリアの額を、冷たい布で拭っていました。
「リリア様、ゆっくり息をしてくださいませ」
「はい……」
答えた直後、再び強い痛みが襲ってきました。
リリアは声を抑えようとしましたが、指先に力が入り、敷布を強く掴みました。
リリアは痛みに耐えながら、目を閉じました。
母が寝台の傍らに座り、その手を両手で包みました。
「我慢しなくていいのですよ」
「お母さん……」
「大丈夫です。私も、あなたを産んだ時は同じでした」
母の手は温かく、幼い頃に何度も髪を撫でてもらった時と同じ温もりがありました。
リリアはその手に縋るように指を絡めました。
女神がリリアの腹部へ手をかざしました。
淡い紫色の光が広がり、疲れ切った身体を柔らかく包みました。
「痛みをすべて消すことはできませんが、力が尽きないように支えます」
「ありがとうございます……」
「もう少しですよ。赤子も一生懸命に外へ出ようとしています」
その言葉を聞いた瞬間、リリアの胸に、人であった頃のラシードの姿が浮かびました。
あの頃のラシードなら、この子が生まれる日を、誰よりも待ち望んでくれたでしょう。
「ラシード……」
小さくこぼれた名に、母の手が強く重なりました。
「扉の向こうで、あなたとこの子を待っていますよ」
リリアは涙を浮かべながら、何度も頷きました。
「この子を、ラシードに抱かせてあげなければなりません」
痛みの間隔は、次第に短くなっていきました。
ひとつの波が過ぎたと思えば、息を整える暇もなく、次の波が身体を突き抜けていきました。
窓の外では、夕暮れが白い街を包み始めていました。
薄い橙色の光が部屋へ差し込み、白い寝具の上に長い影を落としていました。
「リリア様、もう一度です」
セシリアの声に、リリアは残された力を振り絞りました。
母の手を握り、何度も息を吸い込みました。
「もう少しです。赤子の頭が見えていますよ」
女神の声にも、先ほどまでの穏やかな明るさとは違う、真剣な響きが宿っていました。
リリアは唇を噛みしめました。
身体が裂けてしまいそうな痛みの中で、それでもただひとつだけを願いました。
無事に、生まれてきてほしい。
ラシードと自分のもとへ、どうか無事に来てほしい。
リリアは母と女神の声に支えられるように、深く息を吸いました。
「リリア様、今です」
リリアは声を上げました。
母の手を強く握りしめ、最後の力を込めました。
次の瞬間、それまで部屋を満たしていた苦しげな呼吸が途切れました。
短い静寂が訪れました。
やがて、小さく震える声が響きました。
その声は次第に大きくなり、部屋いっぱいに広がっていきました。
赤子の泣き声でした。
扉の外で、ラシードが足を止めました。
「生まれた……」
その声は震えていました。
ラシードは閉ざされた扉を見つめたまま、胸元へ手を当てました。
部屋の中では、リリアが目を見開いていました。
涙が頬を伝いましたが、拭う力も残っていませんでした。
「生まれましたよ」
女神が、柔らかな布に包んだ赤子を抱き上げました。
その顔には、いつもの朗らかな笑みが戻っていました。
「とても元気な男の子です」
母は口元を押さえ、声を震わせていました。
セシリアも目に涙を浮かべながら、何度も頷いていました。
女神が赤子へ手をかざすと、淡い紫色の光が小さな身体を包みました。
光が消える頃には身体がきれいに拭われ、女神は赤子をリリアの胸元へ横たえました。
小さな身体は温かく、懸命に息をしていました。
柔らかな頬も、小さな指も、何もかもが壊れてしまいそうなほど小さく見えました。
リリアが指を差し出すと、赤子の手がその指を握りました。
ほんのわずかな力でしたが、その温もりは確かにリリアの心へ届きました。
「会いたかった……」
涙に濡れた声で、リリアは囁きました。
「ずっと、あなたに会いたかったの」
赤子は泣き疲れたように目を閉じ、リリアの胸に頬を寄せました。
「ラシードは、この子を抱いたら、きっと驚きます」
「きっと……泣いてしまいます」
リリアがそう言うと、母とセシリアが小さく笑いました。
女神も嬉しそうに頷きました。
「生命とは、不思議なものですね」
女神は眠り始めた赤子を見つめました。
「こんなにも小さいのに、部屋にいる全員の心を、一度に満たしてしまうのですから」
窓の外では、夕暮れの最後の光が消えようとしていました。
その代わりに、夜空へ淡い月の光が昇り始めていました。
新しい命は、扉の向こうで待つ父へ泣き声を届けたあと、リリアの腕の中で穏やかな寝息を立てていました。
ラシードは閉ざされた扉の前に立ち、部屋へ入ることを許される時を待ち続けていました。




