第三十六話 戦神と剣神
ラシードが前線へ加わってから、戦況は少しずつ変わり始めました。
これまで魔物の軍勢に押し込まれていた戦線は、ラシードを先頭に、徐々に押し返されていきました。
ラシードが冥霞で切り開いた場所へ空の眷属たちが続き、魔物たちが陣形を立て直す前に攻め込みます。
魔物の数は、まだ少なくありませんでした。
それでも、戦場を覆っていた勢いは確実に失われつつありました。
いつしか兵士たちは、先陣で刀を振るうその姿を、戦神と呼ぶようになっていました。
名も知れぬ誰かが呼び始めた名は、瞬く間に防衛線の端から端まで広がっていきました。
そうして今、ラシードとディグラードが、戦場のただ中で向かい合っていました。
周囲には倒れた魔物と砕けた武器が散らばり、幾度も魔法が撃ち込まれた雪原は深く抉れていました。
風が雪煙を巻き上げ、その向こうで二人の姿を揺らしています。
かつて剣神と呼ばれていたディグラード。
そして今、戦神と呼ばれるラシード。
ラシードは冥霞の柄を両手で握り、切っ先をディグラードへ向けました。
腰を落とし、余分な力を抜きます。
足の運びも、呼吸も、一定に整っていました。
先に動いたのは、ディグラードだった。
地を蹴った姿が、一瞬でラシードの眼前まで迫った。
振り下ろされた剣を、ラシードは冥霞で受けず、剣先を逸らす。
半歩だけ身を引き、刀身を傾ける。
ディグラードの剣が冥霞の鎬を滑り、ラシードの肩の脇へ流れていった。
そのままラシードは身体を返し、冥霞を斜めに振り下ろす。
ディグラードはすぐさま剣を引き戻し、その斬撃を受け流した。
冥霞の切っ先が衣を掠め、布地に細い裂け目を残す。
二人は同時に間合いを外した。
足が止まったのは、一瞬だった。
ラシードが再び踏み込んだ。
冥霞が下段から跳ね上がり、ディグラードの脇腹を狙う。
ディグラードが剣で軌道を逸らすと、ラシードはその流れのまま冥霞を頭上へ回した。
次の斬撃が、間を置かず振り下ろされた。
ディグラードは身体を横へずらし、紙一重で避ける。
冥霞の刃が地面へ触れる寸前、ラシードは手首を返し、横薙ぎへとつなげる。
ディグラードの剣が、それを受け止めた。
甲高い音が響き、火花が散る。
けれど、ラシードは刃を合わせた瞬間に力を抜き、冥霞を滑らせるように引き戻す。
支えを失ったディグラードの剣が、前へ流れた。
その隙を逃さず、ラシードは懐へ踏み込む。
冥霞の切っ先が、ディグラードの胸へ迫る。
ディグラードは上体をひねって突きを避けると、剣の柄でラシードの腕を打ち払おうとした。
ラシードは肘を引き、身体ごと横へ回りながら間合いを外す。
直後、ディグラードの剣が横一文字に薙ぎ払われた。
ラシードは低く身を沈める。
銀色の刃が頭上を通り過ぎ、その風圧が髪を激しく揺らす。
低い姿勢のまま、ラシードは前へ踏み込んだ。
冥霞が鋭く振り上げられる。
ディグラードは後ろへ跳んだが、避け切れなかった。
刃先が胸元を浅く裂き、黒い衣に一本の線が走る。
着地したディグラードが、間を置かず踏み返した。
突き出された剣先をラシードは身体をひねって避けたが、肩口を浅く切り裂かれた。
血が衣へ滲む。
ラシードはすぐに冥霞を構え直した。
両手で柄を握り、ディグラードを見据える。
純粋な力では、眷属となったラシードが上回る場面もあった。
けれど、ディグラードには、数え切れないほどの戦いを経て身につけた剣技がある。
ラシードが刃を振るう前に、その肩の動きを読み取る。
足の向きから、次に踏み込む場所を見抜く。
かすかに変わる呼吸から、斬撃の間を測る。
ディグラードは、ラシードの動きを先回りするように剣を振るう。
斬撃と斬撃の間に、迷う時間はない。
一つの攻撃が終わる前に、次の動きが始まる。
その戦いに、空の眷属たちは踏み込めずにいた。
二人は絶えず位置を入れ替え、狭い間合いの中で刃を交えている。
魔法を放てば、ディグラードだけでなくラシードまで巻き込むおそれがあった。
武器を手に踏み込もうとしても、どちらの攻撃を妨げることになるのか、一瞬では見極められない。
無理に加われば、ラシードの刀筋を乱してしまう。
その乱れが、ディグラードに命を奪われる隙となりかねなかった。
空の眷属たちは周囲の魔物を退けながら、二人の戦いから目を離さなかった。
ディグラードの剣が振り下ろされた。
ラシードは冥霞を斜めに差し入れ、刃を鎬へ滑らせる。
剣筋を外へ流しながら踏み込み、すれ違いざまに冥霞を振り抜く。
ディグラードの頬に、細い傷が走った。
一筋の血が流れる。
ディグラードは数歩先で立ち止まり、頬へ指を触れた。
指先についた血を見つめたあと、ゆっくりとラシードへ振り返る。
ラシードも冥霞を構え直した。
二人の間を、雪を含んだ風が吹き抜けていく。
どちらも、その場に踏みとどまっていた。
その少し後方では、シェザールが不安を滲ませた瞳で、ディグラードの姿を見つめていた。
刃が交わるたびに、指先が掌へ食い込むほど、手を強く握りしめる。
日をまたいでも、ラシードとディグラードの力は拮抗したままだった。
冥霞と剣が激しくぶつかり、弾けた火花が雪を照らす。
二人は同時に間合いを取った。
次の瞬間には、再び互いへ向かって地を蹴る。
戦神と剣神の戦いは、幾度刃を交えても決着がつかないまま、その後も続いていった。




