第三十五話 雪原の攻防
王都の転送機を使い、一行が移った先は「太陽の国」でした。
戦場から遠く離れたその国には、魔物との戦いさえ遠い出来事に思えるほど、穏やかな時間が流れていました。
白い街並みには明るい陽射しが降り注ぎ、乾いた風が、静かな通りをゆっくりと吹き抜けています。
しかし、その平穏は唐突に破られました。
淡い紫の光とともに、突然、女神が姿を現したのです。
「『黒』が出てまいりました。ラシード様、ご対応いただけませんでしょうか」
「……分かった」
ラシードは愛刀である冥霞を携え、女神とともに出陣していきました。
ラシードは、自分の中にあったはずのリリアへの思いや、子供のことを聞いても、どこか他人事のように感じていました。
確かに、リリアを大切に思う気持ちはありました。
けれど、それは大地が愛している相手だからであって、自分自身の思いとは違いました。
リリアとの子供のことも、二人で過ごした過去のことも、どれほど聞かされても実感が湧きませんでした。
それでも、心の奥深くで、何かが必死に叫んでいる。
そんな声が聞こえるような気がする自分もいました。
ラシードは、胸の奥から響く声を振り払うように、首を横に振りました。
自分は、大地に仕える眷属なのだ。
ラシードは冥霞を振り抜き、黒へ斬りかかった。
黒の剣が、その一閃を正面から受け止めた。
刃と刃が激しくぶつかり、散った火花が降りしきる雪の中へ鮮やかな線を描く。
互いの刃を押しつけたまま、二人は雪原を横へ駆けた。
冥霞と黒の剣が擦れ合うたびに火花が弾け、踏み込む足が積もった雪を激しく跳ね上げる。
黒が剣をひねり、冥霞を外へ弾いた。
ラシードは流された勢いのまま身体を回し、横薙ぎに冥霞を振り抜く。
黒は身を沈めて切っ先をかわし、すぐさま剣を斬り上げた。
ラシードが冥霞で受け止めると、二人の足元から衝撃が広がり、積もっていた雪が円を描くように吹き飛ぶ。
ラシードは黒の剣を押し返し、斜面を駆け上がりながらさらに斬り込んだ。
黒も並ぶように雪上を走り、迫る冥霞を受け止める。
二人は刃を合わせたまま斜面を横切り、幾度も位置を入れ替えた。
散り続ける火花と蹴り上げられた雪が、その軌跡を追うように後方へ流れる。
黒が大きく踏み込み、ラシードを剣ごと押し返した。
ラシードの身体は雪の上を滑ったが、冥霞を雪面へ突き立てて勢いを止め、再び黒へ向かって駆け出す。
次の瞬間、二人の刃が再び激突した。
その衝撃が雪山へ響き、耐えきれなくなった山肌が大きく崩れる。
積もっていた雪が轟音とともに滑り落ち、白い濁流となって二人へ迫った。
黒が剣を横薙ぎに振るうと、巻き起こった風が渦を巻いた。
雪崩から舞い上がった雪を巻き込み、竜巻のように空高く舞い上げていく。
白く荒れ狂う風の中から、ラシードが飛び出した。
冥霞の切っ先が黒の胸元へ迫る。
けれど、黒は身体を引いただけで刃をかわし、すれ違いざまに剣を振るった。
ラシードはすぐに冥霞を返して受け止め、そのまま再び刃を噛み合わせる。
黒との攻防は、なお続いた。
かつて大地の柱であった黒の方が上であることは、ラシードにも分かっていた。
それでも黒は、ラシードを打ち倒すより、その力を確かめることを楽しむように剣を振るい続けた。
ラシードが斬り込むたびに受け止め、押し返し、ときには自ら間合いへ踏み込みながら、その力を確かめるように刃を交える。
やがて黒は冥霞を大きく弾き、ラシードとの間合いを開けた。
巻き上げられていた雪が、二人の間へ降り注ぐ。
黒は刃を引きながら、どこか満足したように微笑んだ。
そして、白く霞む雪の向こうへ姿を消していく。
残されたラシードは冥霞を握ったまま、黒が消えた先を見つめていた。
崩れた山肌から雪が滑り落ちる音が、戦いの余韻となって辺りに響き続けた。
別の場所では、空の眷属三人と沙良が戦っていた。
武神は吹雪の中を駆け抜け、沙良の胸元へ槍を突き出した。
沙良が片手を振ると、噴き上がった瘴気が穂先を横から弾き、武神の身体を雪原の上へ押し流す。
武神は槍を地面へ突き立てて勢いを止め、足元の雪を蹴り上げると、再び沙良へ向かった。
その頭上では、賢者の周囲に幾重もの魔法陣が広がり、そこから放たれた風の刃が四方から沙良へ襲いかかる。
沙良は両腕を広げ、全身から濃い瘴気を噴き上げた。
風の刃は瘴気を切り裂き、沙良の腕や頬へ傷を刻んだが、傷口は黒い気に覆われ、すぐに塞がっていく。
「何度やっても無駄だ!」
沙良の叫びとともに、周囲へ広がっていた瘴気が一斉に形を変えた。
黒い塊から鋭い爪と牙が生え、幾十もの魔物となって三人へ襲いかかる。
女神が両手を掲げると、淡い紫色の結界が三人を包んだ。
魔物たちが次々と結界へ爪を振り下ろし、そのたびに表面へ激しい光が走る。
「長くは持ちません!」
「十分だ!」
武神は結界の内側から飛び出した。
長い槍が弧を描き、迫っていた魔物の胴体をまとめて薙ぎ払う。
魔物たちは瘴気へ戻り、雪原の上へ崩れ落ちた。
しかし、沙良の足元から新たな黒い塊が膨れ上がり、失われた数を埋めるように魔物の姿を作っていく。
賢者は紫水晶の瞳を細め、沙良の周囲を覆う瘴気へ手を向けた。
激しい風が一点へ集まり、渦となって沙良の身体を包み込むと、瘴気が引き剥がされ、黒い霧となって空へ巻き上げられていく。
「今だ!」
賢者の声を受け、武神が沙良との距離を一気に詰めた。
繰り出された槍が瘴気の薄くなった場所を貫き、沙良の肩口を深く抉る。
沙良の身体が後ろへ傾いた。
武神は槍を引き抜き、続けて胸元を狙う。
沙良は穂先を素手で掴んだ。
掌から黒い血が流れたが、構うことなく槍を引き寄せ、武神の腹へ膝を叩き込む。
武神の身体が宙へ浮き、雪原へ投げ出された。
女神が結界を広げて受け止めると、武神は片膝をつき、苦しげに息を吐く。
女神は武神の背へ手を添え、治癒の力を注いだ。
淡い光が身体を包み、傷ついた内側を癒やしていく。
「まだ動けますか」
「ああ。これくらいで倒れるものか」
沙良の肩口では、抉られた傷がすでに塞がり始めていた。
賢者が吹き飛ばした瘴気も、周囲から吸い寄せられるように沙良の身体へ戻っていく。
沙良は三人を睨みつけ、歯を食いしばった。
「邪魔をするな! 私は人間をすべて滅ぼす!」
沙良は蒼月たちが進んだ方角へ身体を向けた。
その前へ賢者が降り立ち、左右には武神と女神が並んで、三人で沙良の行く手を塞ぐ。
「空様より、お前を食い止めるよう命じられている」
賢者の周囲へ、再び魔法陣が広がった。
武神は槍を構え、女神は二人を守る結界を張り直す。
「倒しきれずとも、ここから先へは行かせない」
沙良の顔が憎しみに歪んだ。
その身体から噴き上がった瘴気が吹雪を黒く染め、三人を呑み込むように広がっていく。
武神が先頭に立って駆け出し、その背後から賢者の魔法が放たれた。
女神も二人を追い、瘴気の中へ結界を押し広げる。
白い雪と黒い瘴気が激しく渦を巻く中、沙良と空の眷属たちの戦いは続いていた。




