第三十四話 決意と喪失
その頃、リリアは、以前ラシードと過ごした湖畔の小館で過ごしていました。
窓の外には穏やかな景色が広がり、館の中には静かな時間が流れていました。
雪山での出来事が、遠い悪夢であったかのように、リリアの日常は穏やかに過ぎていきました。
けれど、心まで穏やかになったわけではありませんでした。
リリアは椅子に腰掛け、まだ何の変化も見えない腹部へ手を添えました。
ラシードの赤ちゃん。
そう思うだけで、胸の奥に温かなものが広がりました。
同時に、息が苦しくなるほどの悲しみが込み上げてきました。
この子は、ラシードがまだ自分を愛していた頃に授かった命でした。
自分を守るために、ラシードが捨てた想い。
もう二度と、自分へ向けられることのない愛情。
もし、人であった頃のラシードが、この子のことを知ったなら。
きっとリリアを抱き上げて、あの力強い腕で胸元へ抱き寄せてくれたでしょう。
「リリア。よくやった、うれしいよ」
そう言って、何度も笑ってくれたはずでした。
リリアの頬を、涙が伝いました。
今のラシードも、子どもの誕生を喜んでくれました。
優しく抱き寄せてもくれました。
けれど、あの腕に抱かれても、以前のような温もりを感じることはできませんでした。
リリアは腹部を守るように、両手で包みました。
この子の中には、確かに残っている。
自分を愛してくれたラシードが、この世に遺してくれたものが。
リリアは、こぼれる涙を拭わず、まだ小さな命へ語りかけるように、微笑みました。
――私が、この子を守らなければ。
――もう、守られてばかりではいられない。
――ラシードのためにも。
腹部へ添えた手に、力がこもりました。
これまで、何度も誰かに守られてきました。
蒼月に、ラシードに、多くの人たちに支えられ、その命をつないでもらいました。
けれど、これからは、自分がこの子を守らなければなりません。
ラシードが、自分への想いを失ってまで守ろうとした命。
その愛がこの世に残した、小さな命を。
悲しみの中で、それでも前を向こうとする強い意志が、リリアの胸に芽生えていきました。
この子を守り、育てていく。
母になるという決意が、けれど確かに生まれていました。
蒼月は、湖畔を歩くリリアを見ていました。
その傍らには、ラシードが寄り添っています。
けれど、そこにいるのは、以前のラシードではありません。
今のラシードは、リリアを守ることだけを考えて生きていました。
喜びも、怒りも、リリアへの激しい愛情さえ、その顔から見ることはできません。
蒼月は、リリアをあれほど欲しいと思っていました。
今も、間違いなく愛しています。
ラシードの隣にいる彼女を見つめながら、何度、自分のものであればと願ったか分かりません。
それなのに今は、リリアからラシードを奪ってしまった責任だけが、胸を占めていました。
リリアは、蒼月を責めませんでした。
本当は、返してほしいと泣きながら訴えたいはずなのに。
変わってしまったラシードの傍らで、以前と変わらぬ笑顔を見せようとしていました。
蒼月は、二人のもとへ歩み寄りました。
「リリア、冷えるぞ」
そう言って、リリアの身体を抱き上げます。
リリアが驚いて蒼月の胸へ手を添えても、ラシードの表情は変わりませんでした。
以前なら、すぐに眉を寄せたはずです。
「蒼月!」
そう声を上げ、本気で怒り、リリアを自分の腕へ取り戻そうとしたはずです。
けれど今のラシードは、黙って頭を垂れるだけでした。
その変わらない表情を見つめながら、蒼月は、胸の奥に空いたものの正体を知りました。
いつの間にか、ラシードという人間を、好きになっていたのです。
すぐに怒り、蒼月を睨み、それでも最後には同じ場所で笑っていた男を。
リリアを挟んで言い争い、互いに譲らず、それでも三人で笑っていた日々を。
リリアと結婚した初日、ラシードは言いました。
「お前の心は、俺が受け止めてやる。それから、お前の面倒も、俺がみてやる」
そう言って、蒼月の涙を拭ってくれた男は、もうどこにもいません。
あの頃は、この日々がずっと続いていくのだと思っていました。
失ってから初めて、それがどれほど大切な時間だったのかを思い知らされます。
腕の中には、愛するリリアがいる。
すぐそばには、守りたかったラシードもいる。
それなのに、あの三人は、もうどこにもいませんでした。
蒼月はリリアを抱いたまま、何も映さないラシードの目を見つめました。
戻ってきてほしい。
もう一度、睨みつけてほしい。
リリアを奪うなと怒り、この腕から連れ戻してほしい。
けれど、その願いを口にすることはできませんでした。
ラシードをこの姿にしたのは、ほかでもない、蒼月自身なのですから。
湖畔の小館で穏やかな日々を過ごしている間も、魔物の軍勢と人との戦いは続いていました。
空の眷属たちが加勢したことで、どうにか均衡を保っている状態でした。
蒼月とラシードは、黒とディグラードを警戒して戦いには加わらず、リリアのそばを離れることなく守っていました。
そんなある日、蒼月は、小館へ向かって歩いてくる魔物の姿に気づきました。
遠くから見ても分かるほど小さく、力もほとんど感じられない魔物でした。
蒼月は一瞬でその前へ降り立つと、悴の額へ手を当てました。
「どこへ向かっている」
蒼月の掌から、大地の力が滲みました。
「返答次第では、このまま消えてもらう」
悴は恐怖に身体を震わせ、涙をこぼしました。
「リリア様のもとへ……」
そのとき、後ろからリリアの声がしました。
「蒼月、待って」
蒼月が振り返ると、リリアが小館から出てきていました。
そのそばには、ラシードも立っていました。
「その子は、ディグラードに捕まっていたときに、私のお世話をしてくれた子なの」
リリアは、泣いている悴を見つめました。
「殺さないで。許してあげて」
その言葉を聞いた途端、悴は蒼月の脇をすり抜け、リリアのもとへ走り寄りました。
けれど、リリアへたどり着く前に、ラシードがその前へ立ちはだかりました。
伸ばされた悴の腕を掴み、動きを止めます。
「ラシード、手を放してあげて」
「ですが、これは魔物です。それをリリア様のおそばには置けません」
ラシードは、悴を冷たい瞳で見下ろしました。
「消すのが嫌なら、どこか遠くへ捨ててきます」
「いいえ、お願いです。ラシード」
リリアは、はっきりと首を横へ振りました。
蒼月は、怯える悴の力を確かめるように見つめました。
「この魔物には、人を傷つけるだけの力はない。ラシード、放してやれ」
「御心のままに」
ラシードは、悴の腕から手を放しました。
解放された悴は、再びリリアへ駆け寄りました。
リリアはその場へ膝をつき、飛び込んできた小さな身体を両腕で受け止めました。
「リリア様……」
悴はリリアへしがみつき、声を上げて泣きました。
リリアは、その冷え切った背中を優しく撫でました。
「悴。あなたは、ディグラードに仕えていたのではないのですか」
悴は涙を流したまま、何度も首を横へ振りました。
「何があったのか、話してください」
リリアは埃と泥に汚れた悴の姿を見つめ、少しだけ表情を和らげました。
悴の目から、再び大粒の涙がこぼれました。
吹雪の中を歩き続けた小さな魔物は、ようやく求めていた場所へたどり着いたのです。
悴は、セシリアに身体をきれいにされていました。
城を出てから、まともに身を整えることもできなかったのでしょう。
濡らした布が肌を拭うたび、薄く積もっていた砂や埃が落ちていきます。
けれど、その下から現れた身体は、人のものと何ひとつ変わらないように見えました。
セシリアは悴の腕を拭きながら、戸惑ったように尋ねました。
「リリア様、悴は本当に魔物なのですか。人にしか見えませんが……」
「はい。目の前で見ましたから」
リリアが答えると、セシリアはもう一度、悴の姿を確かめるように見つめました。
身体を拭き終えた悴は、何も身につけていない自分を見下ろしました。
そして、胸元へ手をかざします。
黒い気が一瞬だけ身体を覆い、それが消えたときには、悴はすでに服を身につけていました。
セシリアはその光景を見て、ようやく悴が人ではないことを深く理解しました。
身支度を終えたあと、リリアと蒼月、ラシード、悴の四人は、ひとつのテーブルを囲んでいました。
湯気の立つ茶が置かれていますが、決して穏やかな茶の時間と呼べる空気ではありません。
悴へ向けられる蒼月とラシードの眼差しは、酷く冷たいものでした。
少しでも不審な動きを見せれば、一瞬で消す。
言葉にされずとも、その刺すような気配は悴にも十分に伝わっていました。
悴は身を縮め、リリアのそばへすがるように寄りました。
「リリア様、怖いです」
「大丈夫です。悴、詳しくお話を聞かせて」
リリアに優しく促され、悴は小さく頷きました。
「はい。私は、リリア様がいなくなったので、ディグラード様より任を解かれ、『どこへでも行くがいい』と言われました」
悴は膝の上で、両手を強く握りしめました。
「私はとても悲しくて、リリア様を追って城を飛び出しました。それは役目を終えれば消えていくだけの定めでした。ですが、そこへシェザール様が現れて、ここに留まるだけの力を分けてくださったのです」
与えられた役目を失えば、いずれ消えていく。
それは、理の中に生み出された存在であるがゆえの、避けられない定めでした。
「それで、私はリリア様の気配だけをたどって、ここまで着いたのです」
悴の話を聞き終えた蒼月は、目を細めました。
「場所を移した方がいいな。ここに居座れば、リリアの気配が外へ漏れているということになる」
「それは、大丈夫だと思います。私はこれを持っていましたから」
そう言って、悴は大切そうに一本の髪を取り出しました。
「私はこのリリア様の髪で、気配をたどれたのです」
「それでもだ。お前自身が、誰かにつけられていないとも限らん」
蒼月のその一言で、リリアたちは急ぎ、転居の支度に追われることになりました。




