第三十二話 失われた想い、芽吹く命
暖炉の火は変わらず燃えていました。
けれど、その温もりは、言葉を失ったリリアのもとまで届いてはいないようでした。
目の前にいるのは、間違いなくラシードです。
それなのに、リリアを見つめる瞳からは、これまでそこにあった想いだけが失われていました。
蒼月は、そんなリリアをしばらく見つめていました。
やがて、その悲しみを受け止めるように、リリアの前へ膝をつきました。
「リリア、話したいことがある」
その声に、リリアは不安そうに蒼月を見つめました。
蒼月は、部屋にいる者たちへ視線を向けました。
「皆、出てくれ」
ラシードたちが部屋を出ると、扉が閉じられました。
蒼月は、なかなか言葉を口にできませんでした。
暖炉の薪が小さく爆ぜ、その音だけが部屋に響いていました。
やがて、蒼月は重い口を開きました。
「ラシードは、私の眷属となった」
「眷属に……」
リリアの瞳から、涙があふれました。
「ラシードは間違いなく、リリアを愛していた。それを分かってほしい。そして、リリアを守る力が欲しいと、私の眷属になることを望んでいたのだ」
蒼月は、リリアから目を逸らさずに続けました。
「眷属となれば、名を授けた柱が唯一無二となる。人であった頃に抱いていた想いは失われる」
「それは、ラシードは知っていたのですか」
「ああ」
蒼月の声が、沈みました。
「私は、だから断っていた。ずっと、ラシードのお前への想いも、お前のラシードへの想いも知っていたからだ」
蒼月は膝の上で、両手を強く握りました。
「だが、あの馬鹿は、リリアを助けるために、一人でこの雪山を登り始めてしまったのだ」
リリアの唇が、かすかに震えました。
「ディグラードの魔力が混じった寒さは、人の身では、結界を張っても防ぎきれない」
蒼月の瞳に、雪の中へ倒れていたラシードの姿がよみがえりました。
「私が見つけたときには、ラシードの命は失われかけていた」
蒼月は一度、目を伏せました。
「だから私は、ラシードの望みを叶え、ラシードを眷属とした」
リリアは、毛布を握りしめました。
「今のラシードがお前を守ろうとするのは、お前が天零であることと、私がお前を愛しているからだ」
そこに、夫としてリリアを愛していたラシードの想いは、もうありませんでした。
リリアは、涙に濡れた瞳で蒼月を見つめました。
「どうして……」
「お前を守る力を得るためだ」
暖炉の火が、小さく揺れました。
「お前を愛せなくなると知っていて、それでも、ラシードはお前を守れる力を望んだ」
「そして、私なら必ずリリアを守ろうとすることを知っていた。だから選んだのだ」
リリアの頬を、新たな涙が伝いました。
暖炉の炎が、蒼月の頬を赤く照らしていました。
その蒼い瞳にも、隠しきれない涙が浮かんでいました。
「だから、ラシードをどうか責めないでくれ。私は、ラシードから、お前への想いを奪った」
蒼月の声が震えました。
「詫びて済むことではないと分かっている」
それでも蒼月は、深く頭を下げました。
「それでも、詫びさせてくれ」
一滴の涙が、床へ落ちました。
「すまない」
その一言が、静かな部屋に長く尾を引いて落ちました。
リリアは、唇を閉ざしたまま俯きました。
ただ、蒼月の悲しみと、ラシードが差し出したものと、自分を守るために失われた愛の重さを、同時に受け止めることしかできませんでした。
蒼月は、涙を流し続けるリリアを抱きしめました。
何も言わず、その髪を何度も優しく撫でました。
どれほどそうしていたのか、やがて蒼月はリリアの身体を毛布へ戻し、扉の外で待つ者たちを呼びました。
女神と賢者、武神、そしてラシードが部屋へ入ってきました。
女神はリリアのそばへ膝をつきました。
「リリア様、お身体の回復と、お怪我がないか見させてください」
「お願いします」
女神が手をかざすと、淡い光がリリアの身体を包みました。
冷え切っていた身体に、柔らかな温もりが少しずつ戻っていきます。
けれど、女神は何かに気づいたように目を見開きました。
「まあ……」
リリアは、不安そうに女神を見つめました。
「どうしたのですか」
女神の顔に、優しい笑みが広がりました。
「リリア様。お腹に、お子がいらっしゃいますよ」
リリアは、意味を受け止めきれないまま、女神を見つめました。
「お子……」
「はい。ラシード様のお子様ですね」
リリアの手が、毛布の上から腹部へ触れました。
「ラシードとの赤ちゃん……」
その言葉を口にした途端、リリアの瞳から涙があふれました。
女神は、泣き始めたリリアを優しく抱き寄せました。
「よかったですね。よかったですね」
喜びと悲しみが、胸の中で入り混じっていました。
ラシードが人であった頃、自分を愛してくれていた時間。
二人が夫婦として重ねた日々。
そのすべてが失われたわけではなかったのです。
女神はリリアの背を撫でながら、柔らかく続けました。
「お子がいらっしゃるなら、このような場所に長く留まってはいけませんね。明日にでも、もっと暖かく、きれいなところへ移りましょう。リリア様が心穏やかに過ごせる場所でなければなりません」
ラシードが、リリアの前へ進み出ました。
「リリア様。私との子ですか」
「はい……」
リリアは、涙を流しながら頷きました。
ラシードの表情が、和らぎました。
「うれしい」
ラシードは、リリアの身体をいたわるように、ふわりと抱き寄せました。
その腕は、以前と変わらず温かく、優しいものでした。
けれど、その胸に抱かれながら、リリアは分かっていました。
今のラシードが抱いているものは、かつて自分へ向けられていた愛とは違うのだと。
蒼月は、リリアを抱くラシードを見つめていました。
眷属となっても、喜びが失われるわけではありません。
主である蒼月が案じるリリアの、その腹に子が宿った。
守るべきものが増えたことを、今のラシードは喜んでいるのです。
同じ「うれしい」でも、その言葉が生まれてくる場所が、もう違っていました。
それでも、その愛がこの世に残した小さな命は、確かにリリアの中で息づいていました。
蒼月は涙をこらえるように目を伏せ、告げました。
「よかったな、リリア」
リリアは、一人きりになった部屋で、腹部へ手を添えていました。
暖炉の火が、静かな室内を淡く照らしていました。
ラシードが戻ってきたのに、いつものラシードはもういませんでした。
湖で、二人で過ごした日のこと。
花火を見て、蛍を見たこと。
プロポーズの言葉。
いたずらっぽく笑っていた顔。
自分のために、真剣に怒ってくれた顔。
いつも自分のことより、リリアのことを優先してくれていたこと。
忘れられるはずのない記憶が、一つずつ胸の奥によみがえりました。
「……俺は、リリアを愛している」
「俺と、結婚してくれないか」
「リリア」
「一緒に歩もう」
毎夜、甘い声で囁いてくれていた愛の言葉。
その一つひとつを思い出すたびに、リリアの頬を涙が伝いました。
ラシードは生きています。
けれど、もう二度と、あの声で愛を告げてくれることはありません。
静かな部屋の中で、リリアは一人、失われたラシードの想いを抱きしめるように泣き続けました。




