第三十話 失われた面影
陣を満たしていた光が、ゆっくりと薄れていきました。
その中央にいたラシードは、もう人ではありませんでした。
人の身を離れ、大地を司る者によって名を授けられた眷属となったのです。
ラシードは身を起こすと、蒼月の前へ片膝をつきました。
「大地様」
その呼び方を聞いた瞬間、蒼月の顔が悲しみに歪みました。
これまでラシードは、どれほど改まった場であっても、蒼月を蒼月と呼んでいました。
けれど、今、蒼月を見上げる瞳には、柱へ仕える眷属としての揺るぎない敬意だけが宿っていました。
外見は、人だった頃とそれほど大きく変わっていませんでした。
それでも、人だった頃のラシードらしさは、完全に消えていました。
金色に淡い緑を溶かしたような髪は長く伸び、肩から背へ流れていました。
身体も以前より一回り大きくなり、立っているだけで、戦いを司る神のような威厳を漂わせています。
その姿には迷いも隙もなく、鋭く研ぎ澄まされた力が満ちていました。
凛とした、眷属そのものの姿でした。
扉が開き、外で待っていた空の眷属たちが部屋へ入ってきました。
陣の中央に立つラシードを見た武神が、思わず声を上げました。
「おお、すごいですね」
武神は、かつて何度も手合わせしたラシードの姿を見つめました。
「これなら、今度は私も本気で相手をしなければなりませんね」
ラシードは武神へ目を向けました。
「望むところだ」
武神は楽しそうに笑いました。
賢者は、ラシードから放たれる力を確かめるように見つめました。
「歴代のなかでも、三本の指に入るかもしれません」
蒼月は答えず、目の前に立つラシードを見つめ続けていました。
確かに、強い眷属が生まれました。
ディグラードと戦うために必要な力を、ラシードは手に入れたのです。
けれど、その代わりに失われたものを思えば、喜ぶことなどできませんでした。
やがて蒼月は、ラシードの腰元へ視線を落としました。
そこには、これまで使っていた剣が残されていました。
「ラシードの武器を用意せねばならない」
眷属となったラシードの力に、人の手で作られた武器が耐えられるはずはありませんでした。
「ソフィアのものでも、耐えられまい」
そのとき、部屋の隅から黒い影が広がりました。
影の中から闇が姿を現し、指を鳴らします。
黒い靄がその手へ集まり、やがて一本の刀を形作りました。
「私からの餞別じゃ。これを使うがよい」
刀は漆黒の鞘に収められ、触れずとも伝わるほど濃い闇の力をまとっていました。
「銘は『冥霞』」
それだけを告げると、闇は蒼月へ刀を渡し、影の中へ消えていきました。
蒼月は受け取った冥霞を、ラシードへ差し出しました。
「ラシード。これをお前に授ける」
ラシードは蒼月の前へ跪き、両手で刀を受け取りました。
「ありがとうございます」
その頃、ディグラードは、リリアの部屋を訪れていました。
ベッドのそばに立ち、リリアを値踏みするように見つめています。
ソフィアとは、何もかもが違う女でした。
呪われていたアルヴァンを助け、その心をつなぎとめた人間。
ディグラードには、それほどまでにアルヴァンがリリアを大切にする理由が分かりませんでした。
「おまえのどこがいいのか、全然分からん。確かに美しいが、ソフィアのように強くもない。ただアルヴァンに守られるだけの、弱い存在ではないか」
リリアは、膝の上で両手を握りました。
怖くないはずはありませんでした。
それでも、ディグラードから目を逸らさず言いました。
「私は、弱いです」
あまりにも素直に認めたため、ディグラードの眉が動きました。
「蒼月に、何度も守ってもらいました。今も、助けてもらうことを願っています」
「ならば、やはり守られるだけではないか」
「それでも、私は蒼月を守りたいと思っています」
ディグラードの瞳が、細められました。
「おまえが、アルヴァンを守るだと?」
「蒼月が傷ついているとき、そばにいることはできます。悲しんでいるとき、その名前を呼ぶこともできます」
リリアは、胸元へ手を添えました。
「私にできることが少なくても、何もできないわけではありません」
部屋に、静寂が落ちました。
ディグラードは、リリアの言葉を嘲笑うこともなく、ただ冷たい瞳で見つめていました。
「ソフィアとは、まるで違うな」
「私は、ソフィア様ではありません」
「分かっている」
ディグラードの声が、低くなりました。
「だからこそ、分からんのだ」
リリアは、しばらく黙っていました。
「蒼月が、私のどこを大切に思ってくれているのか、私にもすべては分かりません」
その声には、迷いがありませんでした。
「けれど、分からなくてもいいのです。私は、蒼月が蒼月でいてくれるだけでいいから」
ディグラードの表情から、ほんの一瞬だけ感情が消えました。
それはかつて、ソフィアがアルヴァンへ向けていたものとは違いました。
強さを求める言葉でも、何かを成し遂げることを望む言葉でもありません。
ただ、その存在を受け入れる言葉でした。
ディグラードの口元に、冷たい笑みが浮かびました。
「強気だな。私はその思いを踏みにじり、お前を強引に自分のものにしてもいいのだぞ」
「あなたはしないわ。あなたにはシェザールがいるもの。たとえ、それが蒼月や私への嫌がらせでも、シェザールが嫌がることはしないと思うわ」
ここ数日、リリアは、ディグラードとシェザールが互いを大切にしていることに気づいていました。
悴からも、二人のことを聞いていました。
ディグラードの視線が、部屋の隅に控えていた悴へ向けられました。
「悴、余計なことは話すな」
「分かりました、ディグラード様」
リリアは、ディグラードを見つめました。
「あなたは、もう分かっているのではないのですか。何が一番大切で、失いたくないものなのかを……」
ディグラードの表情から、笑みが消えました。
「それを失ったとき、あなたはどうするのですか」
リリアの声は穏やかでした。
けれど、その言葉は、ディグラードが触れられたくない場所へ真っ直ぐ届いていました。
「もっと大切なものがあると思うのです」
リリアは、続けました。
「失ってから、もっと大切にすればよかったと願っても、もうその手には戻りません」
ディグラードの瞳が、揺れました。
「あなたにはまだ、失う前に抱きしめられる方がいるのでしょう」
そのとき、部屋の中に黒い影が広がりました。
影の中から現れた黒が、リリアへ視線を向けました。
「俺なら、躊躇なくいけるぜ」
黒は、そのままリリアへ近づきました。
逃れようとしたリリアの両腕を押さえ、強引に顔を近づけます。
――蒼月と同じ顔をしているのに、怖い……。
「いやです。やめて……」
リリアは身をよじりましたが、黒の腕を振りほどくことはできませんでした。
黒は、別にリリアには興味はありませんでした。
大地がこの女を、けがされたと知ったときの顔に興味がありました。
――あいつも、堕ちるかな。
「嫌がられたら燃えるだろ。そういうの、分かってるのか」
「やめてください、黒様。リリア様が泣いています」
悴は黒の腕へしがみつき、必死に引き離そうとしました。
黒は悴を気にも留めず、泣いているリリアへさらに顔を近づけました。
その様子を、ディグラードは不敵な笑みを浮かべて眺めていました。
シェザールはディグラードの首に腕を回し、その隣から成り行きを見つめていました。




