第二十九話 大地の眷属
降りしきる雪が、ラシードの足跡を次々と覆い隠していました。
凍える風が頬を打ちつけても、その歩みを止めませんでした。
蒼月は、皆で作戦を立ててからリリアを助けに向かうと言っていました。
それでもラシードは、リリアが連れ去られたまま待つことに耐えられず、どうしても自分の手で助け出したかったのです。
砂漠の国で生まれ育ったラシードにとって、山を覆う寒さは、身体の芯まで凍りつくほど厳しいものでした。
できる限りの防寒具をそろえ、雪に埋もれた道を確かめながら、城へ続く山道を探して進んでいきました。
その頃、宿では、空の女神がラシードの姿が見えないことに気づいていました。
「大地様、ラシード様がいません」
「なに」
「ラシード様の荷物がなくなっています。一人で行かれてしまったのでしょうか」
蒼月は窓の外へ視線を向けました。
白く閉ざされた山々には、ディグラードの魔力が濃く漂っていました。
「この中をか」
蒼月の声が、低く沈みました。
「ディグラードの魔力によって、寒さは人では耐えられない領域に達している。すぐ探しに出てくれないか。私も出る」
空の眷属たちは、すぐに宿を飛び出しました。
蒼月も雪山へ入り、ラシードの気配を追いました。
けれど、三日間探し回っても、ラシードは見つかりませんでした。
――ラシード、名を呼べ。
蒼月は、吹き荒れる雪の中で、何度も強く呼びかけました。
ただ自分の名を呼んでくれれば、どれほど遠く離れていても、その声をたどって見つけ出せる。
そう願いながら、白く閉ざされた山を探し続けました。
ラシードは、身を守る結界を張りながら、城のある方角へ向かって進んでいました。
空は凛と澄み渡っていました。
その静かな青空とは裏腹に、空気は刃のように冷たく、息をするたびに喉と肺が刺されるように痛みました。
城へ近づくほど、寒さは強くなっていきました。
ラシードの結界では、もはやディグラードの魔力を帯びた冷気を防ぎきれませんでした。
指先の感覚はとうに失われ、足は雪の中へ沈むたびに重くなっていきました。
身体の奥から熱が消え、意識まで白く霞み始めました。
ラシードは、ついに雪の上へ膝をつきました。
立ち上がろうとしても、身体は動きませんでした。
薄れゆく意識の中に、リリアの姿が浮かびました。
「リリア、すまない」
謝りたいことも、伝えたいことも、まだ数えきれないほどありました。
このまま一人で死ぬわけにはいかない。
そう思っても、まぶたは閉じていきました。
そのとき、胸の奥に、蒼月の声が触れたような気がしました。
「蒼月……」
掠れた声で、その名を呼びました。
次の瞬間、雪を巻き上げる風の中に、白銀の光が降り立ちました。
「ラシード!」
蒼月は雪の中へ倒れたラシードを抱き起こしました。
腕の中の身体は冷え切り、呼吸も、命の気配も、今にも消えてしまいそうなほど弱くなっていました。
蒼月はラシードを強く抱きしめると、白銀の光に包まれ、その場から姿を消しました。
宿へ戻り、ラシードを寝台へ横たえたとき、部屋の隅から黒い影がゆっくりと広がりました。
影の中から、闇の声が響きました。
「こやつも強情よの。呼べば来るのに最後まで呼ばなんだ」
蒼月は冷え切ったラシードの腕を掴み、かすかに残る命の気配を確かめました。
もう片方の手をラシードの身体へかざし、失われた体力を戻そうと力を注ぎ続けました。
しかし、ディグラードの魔力と瘴気に侵された身体は、なかなか体温を取り戻しませんでした。
「大地の。お前は、この男の心を守っているつもりなのだろう」
闇は、ラシードへ視線を向けました。
「だが、このままでは、心より先に命がなくなるぞ」
蒼月の指が、ラシードの腕を掴んだまま強く震えました。
「眷属にせず、死なせるのがお前の優しさか? ラシードなら、まだ間に合う。リリアのときのように、魂が削られてはいないからな」
その言葉が、蒼月の胸の奥へ深く突き刺さりました。
蒼月は、長いあいだラシードを眷属にすることを拒み続けていました。
柱と眷属の間に結ばれる強い絆が、ラシードの心を変えてしまうことを恐れていたからでした。
けれど、ラシードの命は、今まさに消えようとしていました。
「私は……リリアから、お前の想いを奪いたくなかった。だが、このままお前まで失わせるわけにはいかない」
蒼月の瞳から、涙がこぼれました。
その雫が、ラシードの冷えた頬へ落ちました。
「ラシード。お前を、私の眷属とする」
「宮へ戻る」
蒼月が右手をかざした瞬間、地上を流れていた時が止まりました。
暖炉の炎は揺らぎを失い、窓の向こうで舞っていた雪も、空中に留まったまま動かなくなりました。
音も風も消えた静寂の中で、白銀の光が蒼月たちを包み込みました。
光が薄れると、目の前には、大地の宮へ続く巨大な門がそびえていました。
蒼月が門へ手を触れると、人の姿を形作っていた光がほどけていきました。
白銀の獣耳と獣尾を備えた本来の姿へ戻った蒼月の前で、閉ざされていた門が、重く厳かな音を立てながら開いていきます。
門の向こうには、白い床がどこまでも続いていました。
床に刻まれた銀の線が淡い光を放ち、宮の奥へと道を示していました。
「賢者よ、ラシードを連れてきてくれないか」
「承知しました」
賢者は、冷え切ったラシードの身体を慎重に抱き上げました。
蒼月を先頭に、一行は静まり返った宮の奥へ進んでいきました。
闇の黒い影も、床を滑るように、その後ろへ続いていました。
やがてたどり着いた広間には、高い天井から白銀の光が降り注いでいました。
人の世から切り離されたその場所には、声を発することさえためらわれるような、神聖な静けさが満ちていました。
蒼月が広間の中央へ進み、右手をかざしました。
白い床を走る銀の線が大地の色へ染まり、幾重にも重なりながら、一つの巨大な紋様を描いていきました。
やがて、大地の理を刻んだ眷属の陣が、広間の中央に完成しました。
賢者は、ラシードの身体を、その陣の中央へ寝かせました。
女神がラシードのそばへ膝をつきました。
「ラシード様の意識が戻るまでの回復を行います。ただ、もう寒さの魔力に当てられすぎています」
「よい」
蒼月は、ラシードから視線を離さないまま答えました。
「ラシードが目覚めるまでの回復で。意識がなければ名を受け入れられない」
「承知しました」
女神が両手を掲げると、柔らかな光がラシードの身体を包みました。
凍りついたように青ざめていた頬へ、ほんの少し血の色が戻っていきました。
やがてラシードのまぶたが震え、ゆっくりと目が開きました。
焦点の定まらない瞳が、そばにいる蒼月を見上げました。
「これから大地の眷属の儀を行う。ラシード、起きていろよ。そして、名を呼ばれたら答えよ」
ラシードは息を吐きました。
ぼやける意識の中で、蒼月の姿を確認しこれから何をするのか理解しました。
「蒼月、ああ」
武神が、床に広がる陣を見つめました。
「眷属の儀式は久しぶりに見る」
蒼月は、空の眷属たちへ顔を向けました。
「すまない。皆、席を外せ」
空の眷属たちは頭を下げ、部屋から出ていきました。
闇も、黒い影とともに、その場から姿を消しました。
部屋に残されたのは、蒼月とラシードだけでした。
蒼月は陣の前へ膝をつき、ラシードの胸元へ右手をかざしました。
「いくぞ、ラシード」
大地の色を宿した光が、陣の紋様をゆっくりと巡り始めました。
「――大地の理よ。
古き始源より続く、力の流れよ。
眠りし名を呼び起こし、
このものに刻まれし真を示せ。
山脈のごとく揺るがぬ定めを与え、
大地の息吹を、その魂に結びつけよ。
――いま、われは理に従い、名を授く。
名は道を開き、
名は縁を結び、
名は力を呼ぶ。
このもの、われの眷属となりて、
大地の加護を受け、
理の循環に連なる者となさん。
その歩む道は揺らぐことなく、
その立つ場所は崩れることなく、
その抱く願いは大地に根を張り、
やがて世界を支える礎となるだろう。
――大地の理よ、応えよ。
名を授けられし者を受け入れ、
その魂を、理の環へと迎え入れよ。
――ここに、眷属の誕生を宣言する。
大地の名のもとに。
われの名のもとに。
理の定めのもとに――」
言霊が終わると、陣から立ち昇った光が、蒼月とラシードの身体を包みました。
蒼月は、ラシードへ顔を近づけ、その唇へ自らの唇を重ねました。
それは、命をつなぎ、柱と眷属の絆を深く刻むための、口づけでした。
ラシードは顔を背けて拒もうとしましたが、身体には抗うだけの力が残っていませんでした。
「ラシード、我慢しろ」
蒼月は苦々しげに眉を寄せました。
「私も嫌だ」
唇が離れると、蒼月はラシードの額へ手を置きました。
大地の光が、二人の間を強く結び始めました。
「我は、ラシードと名付ける」
ラシードは、弱々しくも口元を緩めました。
「なんだ、単純だな」
そして、蒼月の瞳を真っ直ぐに見つめました。
「受け入れる」
その瞬間、陣が眩い光を放ちました。
床を覆う大地の紋様が一斉に輝き、光の筋がラシードの身体へ流れ込んでいきました。
ラシードの身体から、眩い光があふれ始めました。
冷え切っていた身体の奥深くへ、大地の息吹が根を張るように広がり、そのすべてを作り変えていきます。
世界を形づくる理、柱や眷属を縛る理。人として生きてきたラシードには知り得なかったものが、頭の中へ一気に流れ込んできました。
それとともに、何よりも大切だったはずのリリアへの思いが、少しずつ薄れていきます。
リリアを愛していたことも、助けたいと願っていたことも、記憶の中には残っていました。
ただ、その記憶に結びついていた思いだけが少しずつ薄れ、ラシードの心はリリアから離れていきました。
ラシードの中で大地だけが唯一無二の存在となっていきました。




