第二十七話 愛を失っても
蒼月たち一行は、深い沈黙に落ちていました。
リリアが消えた場所には、何の痕跡も残されていませんでした。
吹き荒れる雪が足跡さえ覆い隠し、凍てついた風だけが、何事もなかったかのように白い大地を駆け抜けていきます。
空の眷属たちは、蒼月とラシードに何と声をかければよいのか分からないようでした。
吹きつける雪の音だけが、重い沈黙の中を通り過ぎていきました。
ラシードは、リリアへ伸ばしたままだった手を、ゆっくりと下ろしました。
胸の奥には、あの男に何ひとつできなかった自分への怒りが、焼けるように残っていました。
「蒼月、やはり俺はお前の眷属になる」
蒼月が振り向くよりも早く、ラシードは言葉を重ねました。
「いや、もう俺を眷属にしろ」
迷いを残さない、低く張り詰めた声でした。
「このままでは俺はリリアを守れない。守れなければ、気持ちなどと言っていられる場合ではない」
ラシードは強く拳を握りしめました。
爪が掌へ食い込んでも、その痛みさえほとんど感じませんでした。
「そして、俺は明らかに足手まといだ。俺が俺でなくなっても、蒼月がリリアを救いたいと思うなら、俺はそれに従う。それでいい」
眷属となれば、蒼月が唯一無二の存在となる。
今、胸の中を占めているリリアへの想いも、自分のものでは無くなる。
それを、ラシードはすでに知っていました。
それでも、人のまま何もできず、再びリリアを奪われることだけは耐えられませんでした。
蒼月は、何も答えられませんでした。
その蒼い瞳から、涙がこぼれていました。
「リリアの気持ちはどうするのだ」
掠れた声でした。
ラシードを眷属にすれば、リリアが愛したラシードを、自らの手で変えてしまうことになります。
かつて拒んだ理由は、今も何ひとつ変わっていませんでした。
ラシードは、泣いている蒼月をまっすぐに見つめました。
「お前が代わりに愛してくれ」
蒼月の瞳が揺れました。
「それはリリアの意思ではない」
「リリアの意思を尊重したい。だが、もうそう言っていられる状況ではない」
ラシードの声には、苦しみが滲んでいました。
リリアの心を無視したいわけではありません。
リリアの愛した自分を捨てたいわけでもありません。
それでも、守れなければ、すべてを失うのです。
「それと、俺はあの黒いやつを殴りたい」
その言葉だけは、何の理屈も飾りもありませんでした。
目の前でリリアを奪い、見せつけるように口づけた男を、この手で殴りたい。
それは、ラシードの中に残る、あまりにも人らしい怒りでした。
その時、雪の上へ深い闇が広がりました。
白い大地を染めるように黒い影が揺らぎ、その奥から闇の声が響きました。
「大地がしないなら、私がしてもいいぞ」
ラシードは、闇へ視線を向けました。
「それでは意味がない。リリアを大切に思っているやつでないと、リリアを守れない」
闇の眷属になれば、ラシードにとって唯一無二の存在となるのは闇です。
リリアへの想いが無くなった後、闇がリリアを救おうとしなければ、ラシードはその命令に逆らうことができません。
けれど蒼月ならば、違います。
自分がリリアを愛せなくなったとしても、蒼月はリリアを救おうとする。
蒼月の眷属となり、その意思に従う限り、ラシードはリリアを守り続けることができます。
闇は、しばらくラシードを見つめていました。
やがて、納得したように低く呟きました。
「まあ、そうじゃの」
吹き荒れる雪の中で、蒼月は涙を流したまま、ラシードを見つめていました。
ラシードの覚悟も、その先に待つものも、すべて分かっていました。
だからこそ、蒼月は答えることができませんでした。
やがて蒼月は、流れていた涙を拭うこともせず、低い声で告げました。
「少し考えさせてくれ」
ラシードは、すぐに首を横へ振りました。
「リリアをすぐに追いたい」
蒼月は、消えていった黒の気配を探るように、白い大地の先へ視線を向けました。
「もし今、眷属になって追っても、返り討ちに遭うだけだ」
「慎重に行こう」
焦りを押し殺すような声でした。
蒼月自身も、今すぐに駆け出したい気持ちは同じでした。
「リリアは、城の中だ。そして無事だ。魂が繋がっているから分かる」
けれど、その魂が深い絶望に打ちひしがれていることも、蒼月には伝わっていました。
それだけは、ラシードに告げませんでした。
蒼月は目を閉じ、遠く離れたリリアの魂へ意識を向けました。
細く繋がった魂を辿り、心の声を送りました。
――リリア。聞こえるか。
深く沈んでいたリリアの魂が、かすかに揺れました。
――私は、ここにいる。
――おまえがどこにいるのかも分かっている。必ず迎えに行く。
繋がった魂の向こうから伝わる絶望は、消えませんでした。
けれど、蒼月の声が届いたことだけは分かりました。
――ラシードも無事だ。
――だから、私たちが行くまで待っていてくれ。
蒼月は、もう一度だけ、強く言葉を送りました。
――必ず迎えに行く。
しばらくして、リリアの魂が、震えました。
それが返事なのかどうかは分かりませんでした。
それでも蒼月は、繋がった魂から意識を離しませんでした。
その細い糸だけが、今もリリアへ届く唯一の道でした。




