第二十五話 理から外れた者
戦いを終え、城へ戻った蒼月たちの間には、まだ張りつめた空気が残っていました。
蒼月は、アレクシス王とアステルに、ディグラードと沙良が姿を消すまでの経緯を話しました。
アレクシス王は、魔王が復活したことを知らせ、戦いに備えるよう求める書簡を世界各国へ送るため、早馬を走らせました。
ラシードが、険しい表情で蒼月へ問いかけました。
「蒼月、どうするのだ」
「出方を待つしかない」
リリアは、蒼月の顔を見上げました。
「蒼月のせいではないわ」
「ああ、ありがとう」
――やはり、自らが出なければならないのか。
蒼月がそう考えたとき、室内の空気が変わりました。
頭上から白い光が差し込み、床へ届くと同時に、一本の光の柱となって天井まで伸びていきました。
広間が白い輝きに満たされる中、幾重もの光が柱の内側で重なり、人の輪郭にも似た姿を形作りました。
光の眷属たちは、その姿が現れると一斉に頭を垂れました。
「大地の。私の眷属は引き揚げます。自我を失って暴れているだけの沙良を、このままではあまりに哀れだと考え、慈悲をかけました。ですが、自らの意思を持ったのなら話は別です」
声が広間へ響くと、光の眷属たちの身体を包んでいた輝きが強まりました。
蒼月は、彼らがすでに引き揚げる準備に入ったことを悟り、表情を引き締めました。
「地上で起きることは、地上を司るあなたの管轄です」
光の柱から注がれる視線が、蒼月だけへ向けられているように感じられました。
蒼月は何も言わず、その言葉を受け止めました。
「ですが、柱であるあなた自身が、そのすべてに手を下す必要はありません。柱には、自らに代わって地上で役目を果たす者を置くこともできるはずです」
その言葉が何を意味しているのか、蒼月には分かっていました。
自らの力を分け与え、地上を守る眷属を生み出すことも、柱に許された力の一つでした。
「そのことを、くれぐれもお忘れなく」
「眷属を貸してくれたことに感謝する」
蒼月の言葉を受けると、光の柱がひときわ強く輝きました。
光の眷属たちは蒼月へ一礼し、その姿を足元から光の粒へ変えていきました。
光の柱も天井へ吸い上げられるように細くなり、眷属たちとともに消えていきました。
眩い輝きが失われると、広間には元の明るさが戻りました。
蒼月は光が消えた場所を見つめたまま、その言葉の意味を胸の内で噛み締めていました。
光の柱の言葉は、もっともでした。
地上を形作る大地は蒼月の管轄ではあっても、人の世で起きる争いへ自ら手を下すことまで許されているわけではありません。
本来、五柱自らが地上へ降り、人の世で起きる出来事に直接関わることではないのです。
一方、三人の空の眷属たちは、残りました。
三人は蒼月の前に並び、深く頭を下げました。
「空様より、引き続き大地様のお力になるよう仰せつかりました」
「ありがとう」
蒼月は、三人の顔を順に見つめました。
それから間もなく、ディグラードと沙良が、グランヴァルド王国の北にあるネヴァリア王国の王都ネリスを拠点としていることが分かりました。
厚い雲に覆われ、雪と氷に閉ざされた王都ネリスは、すでに人の暮らせる場所ではなくなっていました。
そこから、将に率いられた魔物の軍勢が、人の世界へ攻め込んでいました。
氷の大地との境には、戦いが続くにつれ、長く連なる防衛線が築かれていきました。
世界各国から集まった兵士や傭兵たちは、凍てつく風と雪に耐えながら、押し寄せる魔物を食い止めていました。
白い大地には戦いの跡が幾重にも刻まれ、遠くからは剣戟と魔法の轟きが絶え間なく響いていました。
一方、氷の大地の奥にそびえる城では、沙良が広間の中央に立ち、濃い瘴気を吐き続けていました。
吐き出された瘴気は床を這い、黒い塊となって膨れ上がると、次々と魔物を作り出していきました。
新たな魔物が生まれるたび、石床を爪で引っかく音と獣のような唸り声が広間へ響きました。
壁際からその様子を見ていた黒は、興味を失ったように口を開きました。
「よく働くな。俺は地上や人間のことに興味はない」
沙良は瘴気を吐くのを止め、苛立ちを露わにして黒を睨みました。
「協力する気がないのに、なぜここにいる!?」
「面白そうだからだ」
黒は悪びれる様子もなく答えました。
沙良は眉を寄せ、黒から顔を背けました。
「私とは考えが合わない」
沙良は玉座に座るディグラードへ向き直りました。
「ディグラード、なぜこのような奴を入れている」
「面白そうだからだ」
「お前もか!」
沙良の声が広間へ響き渡りましたが、ディグラードは意に介した様子もなく、傍らにいたシェザールへ腕を回しました。
「どうせ、この世の終わりが来るときには消えるのだ。それまで、憎しみだけを抱えているつもりか」
ディグラードはシェザールを抱き寄せ、その顔を見つめました。
「少しは楽しめ。理の縛りから外されたのだ」
そう告げると、ディグラードはシェザールの唇へ口づけました。
その様子を眺めていた黒は、今度は沙良へ顔を向けました。
「お前、俺の女になるか。俺はお前より強いぞ」
沙良が怪訝そうに眉を寄せると、黒は口元に笑みを浮かべました。
「楽しませてやる」
「断る!」
沙良は間を置かずに言い放ちました。
「男など腐ってしまえ!」
「女がいいなら、女になってもいいぞ」
「そういう問題ではない!」
黒は怒りを露わにする沙良を見つめました。
その表情からふざけた色が消え、少し悲しそうな顔を沙良へ向けました。
「まあ、人などろくな奴がいないからな。お前の憎しみを見れば、おおよそのことは予想がつく」
沙良は黒を睨んだまま、何も言い返せませんでした。
二人のやり取りを聞いていたディグラードは、シェザールを抱き寄せたまま口を開きました。
「各将には、眷属を相手にするよう伝えてある。一人ではかなわなくとも、数人ならそこそこの足止めにはなるだろう」
ディグラードは、広間の外に広がる氷の大地へ目を向けました。
「その間に、街や村を襲わせよう」
黒は壁から背を離し、外套の裾を揺らしながら尋ねました。
「俺は自由にしていいか」
「ああ」
ディグラードが答えると、黒の身体が濃い霧となってほどけ、その場から消えていきました。
蒼月たちは、その防衛線を越え、ディグラードと沙良のいる城へ向かって進みました。
視界を埋め尽くすほどの魔物が、人の築いた陣へ向かって次々と押し寄せています。
その群れを見つめ、空の眷属の一人が口を開きました。
「魔物など、大地様の言霊で消してしまっては?」
「沙良がいる限り、消してもきりがない。一時しのぎにしかならん。元をやらねば意味がない」
蒼月は吹きつける雪の向こうへ目を凝らし、氷の大地の奥にそびえる城へ視線を向けました。
「ここは人に任せて、我らは先に進もう」
そのときでした。
何の気配もなく、フードを深く被った男が蒼月たちの前に現れました。
その腕には、リリアが抱かれていました。
「なに……」
蒼月の足が止まりました。
ラシードの顔から一瞬にして血の気が引き、切り裂くような声が凍てついた大地に響きました。
「貴様!! リリアを離せ」
フードの奥から、愉しげな声が響きました。
男は慌てる様子もなく、蒼月へ見せつけるようにリリアを抱いていました。
「大地の、楽しそうだなぁ。この娘はもらっていくぞ」
リリアは男の腕から逃れようと、懸命に身体をよじりました。
細い指が男の腕を押し返そうとしますが、その拘束は緩みませんでした。
「嫌、離して」
フードの男はリリアの耳元へ顔を寄せ、低く囁きました。
「おとなしくしていろ」
その声が届いた瞬間、リリアの翡翠色の瞳が大きく揺れました。
透き通った瞳に薄く涙が滲み、抵抗していた身体から急速に力が抜けていきました。
焦点を失った瞳は、何も映していないかのように、ぼんやりと宙を見つめていました。
ラシードは、リリアへ手を伸ばしかけました。
その手が、途中で止まります。
――なぜ、気づかなかった。
男が現れるまで、蒼月はその気配をまったく捉えることができませんでした。
大地に触れている者の動きも、周囲に満ちる力の揺らぎも、蒼月ならば感じ取れるはずでした。
けれど、その男だけは、初めからそこに存在していなかったかのように、何の兆しも残していませんでした。
蒼月の瞳から驚きが消え、凍てつくほど静かな怒りが満ちていきました。
周囲の空気が重く沈み、足元の雪がかすかに震えました。
「リリアを離せ!! そうでないと――」
「そうでないと、どうするのだ」
男の腕が、リリアの細い身体をさらに強く抱き込みました。
意識を失ったリリアの金の髪が、力なく男の腕からこぼれ落ちました。
「この細い身体が、どうなってもよいのか」
「くっ……」
蒼月の指先が、震えました。
力を放てば、男だけでなく、その腕の中にいるリリアまで巻き込んでしまうかもしれません。
蒼月は動きを止めたまま、男を鋭く睨みつけました。
「お前は何者だ?」
フードの男は、蒼月の問いを待っていたかのように、ゆっくりとフードへ手をかけました。
黒い布が肩へ落ち、その下に隠されていた姿が露わになりました。
現れたのは、蒼月の姿を、そのまま漆黒に染めたような姿でした。
白銀であるはずの髪も、身を包む衣も、光を飲み込むような黒に覆われています。
鏡に映した姿を闇の中で反転させたような、不気味なほどよく似た姿でした。
「教えてやる。俺は、前のお前だ。黒という」
蒼月の目が、大きく見開かれました。
漆黒の男の言葉は、理解するより先に、蒼月が積み重ねてきた記憶そのものを揺さぶりました。
「まあ、お前は知らんだろう。一度、大地は堕ちたのだ」
蒼月には、何億年も前から存在していた記憶がありました。
自らが生まれた瞬間の記憶さえ、確かに残っています。
理から生まれ、大地を与えられ、世界が形作られていく様子を見つめてきた記憶に、途切れた場所などありませんでした。
――それすらも、理が埋めた記憶だというのか……。
初めから自分が大地を司っていたと信じてきた記憶が、急に見知らぬもののように感じられました。
その奥に、消された何者かの存在が隠されていたのだとすれば、蒼月が知る世界の成り立ちさえ揺らいでしまいます。
「なぜ、そんな……。そんなことを、理が許すはずがない」
「理は、理から外れた堕ちた者には興味がないのさ」
漆黒の男は、嘲るように口元を歪めました。
そこには、理への恐れも、自らの存在を隠そうとする様子もありませんでした。
「だからお前たちは、我らを感知できないのだろう」
理から外れた者であるからこそ、理の内側にいる蒼月たちの感覚には触れない。
その言葉は、男がリリアを奪うまで誰一人として気づけなかった事実と、あまりにも深く重なっていました。
男は、腕の中のリリアを抱いたまま、続けました。
「それに、完璧な仕組みだけでは、世界は回らぬのだ。ある程度の歪みがなければならない。だから柱も眷属も堕ちるのだ」
男は、意識を失ったリリアへ視線を落としました。
その目には、ひとりの人間を見つめる温度などなく、ただ手に入れたものを確かめるような薄い笑みが浮かんでいました。
「この女は俺がもらってもいい」
男は蒼月たちへ見せつけるように、意識を失ったリリアの顎へ指をかけ、その唇に口づけました。
顔を上げた男の口元に、嗤いが浮かびました。
「大地の。お前は、この娘にこうすることすらできなかっただろう」
男は、意識のないリリアの頬を撫でました。
「俺は、前のお前だ。お前がしなかったことを、してやるだけだ。ではな」
蒼月が踏み出すよりも早く、男の姿が周囲の景色へ溶けるように薄れていきました。
伸ばされた手は何にも触れず、漆黒の男はリリアを抱いたまま、その場から完全に姿を消しました。
ラシードは、消えていくリリアへ手を伸ばし、声を限りに叫びました。
「リリア!!!」
その声が届くことはありませんでした。
あとに残ったのは、激しく舞い上がる白い雪だけでした。
リリアがいたはずの空間を、凍てついた風が音もなく吹き抜けていきました。
女神が、とっさにラシードの前へ結界を張りました。
その直後、蒼月から闘気が放たれ、周囲の雪が外側へはじかれました。




