第二十四話 集う影
黒い霧が、ディグラードの城の広間へ流れ込みました。
冷えた石床の上で渦を巻いた霧がほどけると、その中からディグラードとシェザール、沙良が姿を現しました。
三人の間には、戦いの余韻を引きずるような重い空気が残っていました。
ディグラードは玉座へ向かいながら、背後にいる二人を見渡して口を開きました。
「眷属が邪魔だな。こちらも将を作ろう。ただの魔物だけでは烏合の衆だ」
沙良は頷き、ディグラードへ問いかけました。
「そうだな。ところで、お前は何がしたいのだ」
ディグラードは少し考えてから答えました。
「……最初は、ただの暇つぶしだった」
「なるほど」
沙良は、ディグラードをまっすぐに見ました。
「私は、この世界を壊したい。それでも構わないか」
ディグラードは迷わず答えました。
「ああ」
「世界を完全に壊せば、理によって世界ごと消されることになる。それでもよいのか」
「ああ」
「その時に、我々元眷属は消されるぞ」
「知っている」
シェザールは顔を上げ、目に涙を浮かべ何かを言いたそうにしましたが、うつむきました。
ディグラードはシェザールへ振り向きました。
「人から魔物に変わった者の中から、人であった頃に優れていた者を集めておいてくれ」
ディグラードは続けました。
「名を授ける」
シェザールは、一瞬、返事をためらいました。
自分以外の魔物に、ディグラードが名をつける。
その言葉が胸へ落ちた途端、奥深くに細い痛みが走り、シェザールはその痛みを隠すように瞳を伏せました。
「心配するな。お前との契約とは違う」
何も言っていないのに、ディグラードにはすべて分かっていたようでした。
シェザールの唇が、かすかに動きました。
「分かりました」
シェザールは、ディグラードに言われたとおり、人であった頃に強靭な肉体を持っていたと思われる者や、知恵のありそうな魔物を選び、城の前にある広場へ集めました。
集められた魔物たちは、どれもすでに人の姿を大きく失っていました。
腕が異様に長く伸びた者。
背から硬い骨が突き出している者。
黒く濁った皮膚に覆われ、人の顔すら残していない者。
それでも、その立ち方や眼差しには、かつて持っていた力の名残が残っていました。
獲物を見定める鋭さや、周囲を警戒する慎重さ。
魔物となった今も、すべてが失われたわけではありませんでした。
やがて、広場の奥からディグラードが姿を現しました。
その足音が近づくにつれ、魔物たちのざわめきが消えていきました。
誰に命じられたわけでもないのに、集められた者たちは、その気配に圧されるように次々と身を低くしました。
ディグラードは、広場の中央まで進むと、一人ずつ魔物を見定めました。
身体に残る力。
濁った瞳の奥に残された知性。
そして、その身を満たしている瘴気の深さ。
すべてを確かめるように視線を巡らせたあと、順に名を授けていきました。
ディグラードの口から新しい名が告げられるたび、黒い光が魔物の身体を包みました。
瘴気が激しく渦を巻き、歪んでいた骨格が軋みながら形を変えていきました。
獣のように曲がっていた背が起き上がり、長く伸びていた腕や爪が、人に近い形へと戻っていきました。
名を与えられた魔物たちは、次々と姿を変え、人であった頃の面影を宿していきました。
その光景を見つめながら、シェザールの胸は締めつけられていました。
俺もかつて、こうして名を与えられました。
人としての形すら失い、暗い瘴気の中に沈んでいた俺へ、ディグラードが名をくれたのです。
与えられた名は、シェザール。
名を呼ばれるたび、俺はここにいるのだと感じることができました。
それが、自分だけのものではなくなっていくように思えて、視界が少しずつ滲みました。
最後の一人に名を授け終えたディグラードが、シェザールへ目を向けました。
「なぜ泣きそうな顔をしている」
「泣いてなどおりません」
シェザールは顔を伏せましたが、その声は震えていました。
ディグラードは、並んだ魔物たちの前を離れ、シェザールのもとまで歩み寄りました。
足元を這っていた瘴気が、その動きに合わせて左右へ分かれていきました。
「先ほども言っただろう。お前とは違う」
「ですが、ディグラード様が名をお与えになるところを見ていると……」
それ以上は言葉にできませんでした。
胸の奥にあるものを口にすれば、ひどく幼い感情に思えてしまいます。
シェザールは、逃げるように唇を結びました。
「お前に与えた名には、私との契約が刻まれている」
ディグラードの手が、俯いていたシェザールの頬に触れました。
冷たい指先が肌へ触れると、シェザールの肩が揺れました。
顔を上げると、ディグラードの黒紫の瞳が、まっすぐに自分を見つめていました。
「あれらに与えた名と、お前の名を同じにするな」
シェザールは、確かめるようにディグラードを見つめました。
「俺の名は、特別なのでしょうか」
「ああ」
迷いのない答えでした。
その一言が胸の奥へ深く沈み、シェザールの瞳から、一粒の涙がこぼれました。
「では、これからも俺を一番近くに置いてください」
「そのために、お前をここへ残している」
ディグラードは、シェザールの頬を伝った涙を指先で拭いました。
その仕草を見つめながら、シェザールは、ようやく小さく息を吐きました。
広場には、名を与えられ、人であった頃の面影を取り戻した魔物たちが並んでいました。
皆、ディグラードの次の言葉を待ち、微動だにしませんでした。
ディグラードはシェザールから手を離すと、広場を見渡しました。
「さて、皆そろったな。やることは分かっているな」
名を授けられた者たちの瞳に、暗い光が宿りました。
「地上を、地獄と化そうぞ」
魔物たちは一斉に膝をつき、深く頭を下げました。
「承知いたしました」
幾重にも重なった声が、瘴気に覆われた空へ響き渡りました。
やがて魔物たちは立ち上がり、黒い翼を広げる者、影へ溶ける者、地を蹴って走り出す者に分かれ、それぞれ異なる方角へ飛び立っていきました。
黒い影が次々と空へ昇り、厚い雲の中へ消えていきました。
地上へ向かう者たちの気配がすべて遠ざかるまで、ディグラードは黙ってその空を見つめていました。
最後の姿が見えなくなると、誰もいなくなった広場で口を開きました。
「まだ、やることがある」
ディグラードは、シェザールを伴い、魔界のさらに奥深くへ向かいました。
そこには、黒い岩山に囲まれるように、小さな城が建っていました。
城そのものは大きくありませんでしたが、その周囲は、息をすることさえためらうほど濃い瘴気に包まれていました。
黒く濁った霧が城壁へ生き物のようにまとわりつき、細い塔の先さえ覆い隠していました。
地面には草一本生えておらず、辺りには魔物の鳴き声すらありませんでした。
ただ、重く淀んだ静けさだけが、城の周囲へ沈んでいました。
ディグラードは、閉ざされた黒い扉の前に立ちました。
シェザールは、その少し後ろから、城の奥に潜む気配を探るように目を細めました。
「おい、いるか」
ディグラードの声が、静まり返った城内へ響きました。
しばらくして、重い扉が軋みながら内側へ開きました。
冷たい瘴気が隙間から流れ出し、その奥から、深くフードをかぶった男が姿を現しました。
顔のほとんどは影に隠れ、薄く開かれた口元しか見えません。
身にまとっている黒い外套は古びていましたが、その周囲に漂う力は、自分たちとも比べものになりませんでした。
男は扉の内側へ立ったまま、ディグラードとシェザールを眺めました。
「なんだ。お前は誰だ」
「私は、ディグラード」
男は、顔を傾けました。
フードの奥から、探るような視線が向けられました。
「なんだ、名持ちか」
その声に、驚いた様子はありませんでした。
興味すら薄いような、気怠い声でした。
「何の用だ。俺は隠居している。邪魔をするな」
男はそう言いながら、扉の横にある壁へ背を預けました。
「暇なら一緒に来ないか」
フードの影から、低い笑い声が漏れました。
「断る。誰も俺を従わせることなどできない」
男がそう告げた瞬間、二人の間を流れる濃い瘴気が、目に見えぬ火花を散らすようにパチパチと爆ぜました。
互いの領域が触れ合っているにもかかわらず、どちらも身構える様子はありません。
ディグラードは、フードの奥に潜む漆黒の瞳をまっすぐに見つめました。
「そうだな」
男は腕を組み、壁へ預けた背をさらに深く沈めました。
「お前も、堕ちた者であろう」
「ああ。俺も堕ちた」
男の声は、どこまでも淡々としていました。
過去を語っているというのに、そこには怒りも悲しみもありませんでした。
「だが、別に恨んではいない」
ディグラードの黒紫の瞳が、細められました。
「むしろ、理に縛られずに済む。自由でいいではないか」
男はそう言うと、フードの奥からディグラードを見つめました。
「まだ理や柱の光にこだわっているのは、お前の方だろう」
その言葉が落ちると、城を包んでいた瘴気が、風もないのに揺れました。
「そんなものは、忘れてしまえ」
しばしの沈黙のあと、ディグラードが低く告げました。
「相手は、大地ぞ」
フードの男は、一瞬、言葉を止めました。
壁へ預けていた肩が動き、それまで気怠そうだった空気が、ほんの少しだけ変わりました。
やがて、影に隠れた口元が、ゆっくりと笑みを刻みました。
「それは、おもしろそうではないか」
男は壁から背を離しました。
黒い外套の裾が揺れ、その足元から、さらに濃い瘴気が広がっていきました。
「少し、見てやろう」
男はディグラードの前まで歩み寄ると、念を押すように言いました。
「俺には名をつけるな。面倒だ」
フードの奥で、口元だけが笑いました。
「黒とだけ呼んでくれ」
「分かった」
ディグラードが踵を返すと、黒と名乗った男も、そのあとに続きました。
シェザールも、二人の背を見つめてから続きました。
三人の姿は、城を包む濃い瘴気の中へ溶けるように消えていきました。




