第二十話 眷属の理
埋葬が終わったあと、蒼月は、まだ土の匂いが残る中で告げました。
「次のことは、明日にしよう」
蒼月は、リリアとラシードへ視線を向けました。
二人の衣服には土と灰が残り、その顔には、隠しきれない疲れが深く刻まれていました。
「我々はいいが、リリアとラシードには休息が必要だ」
「私は、大丈夫です」
リリアはそう答えましたが、その声には力がありませんでした。
立っているだけでも、張り詰めた心だけで身体を支えていることが分かりました。
「リリア、無理はいけない。今夜は休むのだ」
蒼月の声は穏やかでした。
離宮は、黒く焼け落ちていました。
崩れた壁と焦げた柱から、焦げた匂いがいまだに立ち昇っています。
窓枠は焼け落ち、かつて淡い光を映していた白い壁には、炎が舐めた跡が黒く残っていました。
光の眷属である光輝が、手をかざしました。
白い光が指先から広がり、焼け落ちた離宮全体を包み込みました。
光は傷ついた壁の一つ一つへ染み込むように巡り、焼け焦げた壁が元の色を取り戻し、崩れていた柱や窓が、時を遡るように形を戻していきます。
砕けた石片が浮かび上がり、失われた場所へ吸い寄せられ、静かな音を立てながら元の形へ戻っていきました。
やがて光が消えると、離宮は戦いの前と変わらない姿を取り戻していました。
「これで、休めます」
光輝の声が、静まり返った離宮に響きました。
ラシードとリリアは、二人の部屋へ戻りました。
休むように言われましたが、眠れるはずもありませんでした。
扉を閉めても、外で見た光景も、土の下へ眠らせた者たちの姿も、瞼の裏から消えてはくれませんでした。
離宮は、誰の気配もなく静まり返っていました。
いつもなら、まだ誰かの足音や話し声が聞こえている時間でした。
廊下を歩く侍女の衣擦れや、遠くで扉が開く音。
食堂から届く食器の触れ合う音さえ、今夜はありませんでした。
風が窓をかすかに揺らす音だけが、広い廊下の向こうから届いていました。
しばらくして、ラシードが自ら温めたスープとパンを持って戻ってきました。
湯気の立つ器を卓上へ置き、リリアの隣に腰を下ろします。
「ラシード……」
リリアの翡翠色の瞳には、まだ涙が浮かんでいました。
その視線は、目の前に置かれた食事を見ているようで、どこか遠くを見つめていました。
「リリア。倒れないためにも、少しでいいから食べよう」
リリアは小さく頷き、震える手で匙を取りました。
指先に力が入らず、匙が器の縁へかすかに触れました。
涙をこぼしながら、温かなスープを一口だけ口に含みます。
その温かな味に、セシリアが用意してくれた食事を思い出しました。
朝も、昼も、夜も。
身体を気遣いながら、食べやすいものを選び、何も言わずにそばで見守ってくれていた人の姿が、鮮明に蘇りました。
髪を整えてくれた指先も、穏やかに呼びかけてくれた声も、まるで今もすぐそばにあるようでした。
「セシリア……」
匙が、器の縁に小さな音を立てました。
堪えていた涙が、次々と頬を伝っていきます。
ラシードは黙って器を遠ざけると、リリアを腕の中へ抱き寄せました。
震える身体を包み込み、何度もその髪を撫でる。
リリアはラシードの胸元に顔を埋め、声を抑えることもできずに泣き続けました。
細い肩が何度も震え、そのたびにラシードの衣服を掴む指へ力がこもりました。
やがて泣き疲れたリリアの呼吸が、少しずつ深くなっていきました。
ラシードは腕の中で眠りに落ちたリリアを抱き上げ、寝台へ横たえました。
頬に残った涙を拭い、乱れた髪を整えてから、しばらくその寝顔を見つめました。
それから立ち上がり、蒼月のもとへ向かいました。
蒼月は、一人で離宮の外に立っていました。
修復された白い壁の向こうには、焼けた王都の影が暗く沈んでいました。
夜風が白銀の髪を揺らしても、蒼月は身じろぎ一つせず、遠くを見つめていました。
ラシードの足音に気づき、蒼月が振り返りました。
「なんだ。ラシードも休め」
蒼月は、ラシードの顔へ視線を留めました。
「お前に倒れられると困る」
「俺は平気だ。砂漠では、何日も眠らずに過ごしたことがあるからな」
その言葉には強がりではなく、これまで生きてきた過酷な日々の重みがありました。
けれど、心まで疲れていないわけではありませんでした。
ラシードは、蒼月の隣に立ちました。
二人の前には、灯りを失った王都が広がっていました。
「蒼月。これから、どうするのだ」
「ああ。まずは、転送機を使った跡を辿ろう」
蒼月は、静まり返った王宮へ視線を向けました。
「そのあと、決着をつけなければなるまい」
その声が、低く沈みました。
「ディグラードとも、沙良ともな」
蒼月を包む空気が、ゆっくりと変わりました。
その佇まいは静かなままでした。
けれど、足元の土が震え、夜風が蒼月を避けるように流れを変えました。
押し殺された怒りが、夜の冷気を震わせるほど満ちていました。
ラシードは蒼月を見つめながら、もう人の力でどうにかできる相手ではないのだと、改めて思い知らされました。
これほどの力を持つ蒼月でさえ、すべてを守ることはできなかったのです。
人の身のままでは、リリアの隣に立ち続けることすら、いつか叶わなくなるのではないか。
その恐れが、胸の奥から離れませんでした。
「蒼月。俺を、お前の眷属にしてくれ」
「駄目だ」
蒼月は、迷うことなく答えました。
あまりにも早い拒絶に、ラシードの眉が動きました。
「それは、リリアを捨てるということだぞ」
「違う」
「同じことだ」
「リリアを守るためだ。今の俺では、あまりにも力が足りない」
ラシードの声には焦りが滲んでいました。
王都で起きた惨状も、泣き崩れたリリアの姿も、まだ鮮明に残っていました。
守りたいと願いながら、何もできなかった自分を許すことができませんでした。
「お前は人として、十分すぎるほどやっている」
蒼月は、まっすぐにラシードを見ました。
「それに、リリアを支えられるのは、お前しかいないのだぞ」
「だからこそ、もっと力が必要なんだ」
「ラシード。お前が私を選んでしまったら――」
「そういうことではない。俺は、リリアのために」
「違うのだ」
蒼月の声が、遮りました。
その一言には、これ以上誤解させてはならないという強い響きがありました。
「根本から違うのだ。お前が考えているようなものではない」
蒼月は、言葉を選ぶように間を置きました。
眷属になるということを、人の言葉だけで正しく伝えることの難しさを感じているようでした。
「確かに、眷属となれば力を得る。人の身を離れ、人に神と呼ばれることもできる」
蒼月が、ラシードを見つめました。
「だが、それは私を選ぶということだ」
「お前にとって、私が唯一無二の存在となるのだぞ」
ラシードの表情が、強張りました。
その言葉が意味するものを、すぐには受け止めきれませんでした。
「今、リリアへ抱いている想いも、無くなる」
「そんなはずは――」
「あるのだ。愛しているという記憶は残る。今までのことも覚えている。だが、それは覚えているというだけだ。リリアへの感情は私がリリアを愛しているから、お前も愛しているという感情に変わる。それはお前が愛しているという感情ではない」
蒼月は、首を横へ振りました。
「それが眷属になるということだ」
そこには、理を知る者にしか分からない重さがありました。
蒼月は、ラシードを見据えました。
「それだけではない、眷属となれば年も取らなくなる。人として生きていくリリアだけが、少しずつ年老いていくのだぞ」
ラシードの喉が、小さく鳴りました。
「そしてリリアも、年を取らず、ずっと変わらない姿のお前を見ながら生きていくことになる」
蒼月の声は、静かでした。
けれど、その一言ずつが、ラシードの胸へ重く沈んでいきました。
「それに、リリアとの間に子もできなくなる。それでもよいのか」
ラシードは、答えられませんでした。
「リリアは天零だ。他の眷属たちがリリアへ親しく接しているのも同じことだ。お前も、それと同列になるのだぞ」
ラシードは黙ったまま、蒼月の言葉を聞いていました。
「だが、それさえ完全に本人たちだけの意思とは言えない。柱と眷属の結びつきも、その感情も、すべて理の中にある」
本人の心と、理が形づくったもの。
その境目を、蒼月自身も決めることはできませんでした。
蒼月の声が、やわらぎました。
「私は、リリアからお前を奪いたくない」
ラシードは、何も返せませんでした。
力を得る代わりに、リリアを想う心が、自分のものではなくなる。
それでは、何のために眷属になるのか分かりませんでした。
蒼月は、続けました。
「だが、それを超えた負の感情が生まれた時、柱も眷属も闇に堕ちる。その結果が、ディグラードだ」
かつて自らの眷属だった者の名を口にした瞬間、蒼月の瞳に深い痛みが浮かびました。
自由を与えたことも、人としての心を強く残したことも、すべては眷属を一人の存在として尊重したかったからでした。
けれど、その想いが、悲しみと執着の中で歪み、やがて世界へ害をなす存在を生み出してしまいました。
「二度と、同じことは起こしたくない。だから次に誰かを眷属とする時は、強く縛らなければならなくなる」
その言葉を、少し離れた場所で聞いていた空の女神が、姿を現しました。
淡紫の髪が夜風に揺れ、その紫水晶の瞳が、痛ましげに蒼月へ向けられました。
「大地様は、優しすぎるのです。眷属に人としての心を残しすぎておられます」
「優しくなどない」
蒼月は、目を伏せました。
「その結果が、これだ……」
その声には、深い悔恨が滲んでいました。
焼け落ちた王都も、失われた命も、自らの過去から続いているのだと、蒼月は背負おうとしていました。
「私は、駄目な柱なのだ」
女神はそれ以上言葉を重ねず、蒼月へ頭を下げました。
ラシードは蒼月の背を見つめたまま、言葉を失っていました。
その背にあるものが、あまりにも大きいことを、初めて明確に感じていました。
蒼月の中にも、迷いはありました。
ラシードを眷属にすれば、恐らく並ぶ者のないほど強い存在となるでしょう。
闇の中でも怯まず、何度傷ついても立ち上がり、守ると決めた者のためなら自らの命さえ惜しまない。
その心と力を眷属へ引き上げれば、ディグラードにも届くほどの眷属となるかもしれませんでした。
けれど、それはできませんでした。
夜の中で、三人の間に長い沈黙が落ちました。
遠くの王都は、輪郭だけを夜に残しています。
空の端には、朝へ向かう薄い光が滲み始めていました。




