第十八話 罠
そうして、リリアが浄化の陣を学び、ラシードたちが次の戦いに備える日々が続いていました。
離宮には束の間の穏やかな時間が流れ、このまま何事もなく日々が過ぎていくのではないかと思えるほどでした。
そんなある日、王宮へ急報が届いた。
かつて蒼月が結界を張った瘴気のたまり場で、その結界が破られ、魔物が現れたという報せでした。
王をはじめ、主だった者たちが会議室へ集められていました。
アレクシス王、ラシード、アステル、そして蒼月。
その場には、リリアと眷属たちも席を連ねていた。
蒼月の目が、冷たく細められます。
「ディグラードしかいないであろうな」
低く落とされた声に、会議室の空気が静まります。
空の女神が、リリアへ視線を向けました。
「危険はございます。ですが、リリア様が浄化の力を実戦で確かめる機会には、なるのではございませんか」
蒼月は、すぐに首を振りました。
「リリアを使いたくない」
即答でした。
けれど、空の眷属である賢者が口を開きます。
「正直に申し上げます。それでは、リリア様はまったく成長できません」
蒼月の視線が、賢者へ向けられた。
鋭い圧が、部屋の空気を震わせます。
賢者はその圧を正面から受け止め、言葉を続けた。
「あの魔王を浄化なさるのでしょう。ならば、リリア様ご自身が、浄化の力を扱えるようにならなければなりません」
武神も続きます。
「大地様は、少し過保護でございます」
「過保護で何が悪い」
蒼月の声は、低く冷えていました。
武神は気圧されながらも、言葉を続けます。
「今は、魂も体力も戻られたのでしょう。ならば、守られながらでも、実戦の中で力を確かめるべきです」
リリアは、胸の前で手を握りました。
「私、行きます」
その声は小さく、けれど真っ直ぐでした。
ラシードが、すぐにリリアの隣へ立つ。
「リリアが決めたなら、俺も行く」
蒼月は、二人を見ました。
リリアの決意。
ラシードの覚悟。
二人の意志は固い。
蒼月は、深く息を吐いた。
「……女神」
「はい」
「リリアを、絶対に守ってくれ」
空の女神は、頭を垂れました。
「承知いたしました。私の力に代えても、必ず」
出発の前に、蒼月は王都を包む守りの結界を張り直しました。
蒼月と六人の眷属たち、そしてリリアとラシードは、瘴気のたまり場の前に立っていた。
リリアとラシードの周囲には、二人を守るように幾重もの強固な結界が張り巡らされています。
目の前には、黒く淀んだ瘴気が厚く立ち込めていました。
その奥では、無数の魔物たちが折り重なるようにうごめき、赤い瞳だけが闇の中に浮かんでいます。
やがて、魔物たちが蒼月たちの存在に気づいた。
低い唸り声がいくつも重なり、次の瞬間、群れが一斉に動き出す。
牙をむき、爪を振り上げ、黒い瘴気を引きずりながら押し寄せてきた。
リリアはソフィアの杖を握り、浄化のために一歩前へ出る。
蒼月は、その姿へ視線を向けた。
「魔物は、我らで食い止める。リリアは浄化を」
「はい」
リリアは頷いた。
向かってくる魔物を、六人の眷属たちが正面から迎え撃つ。
振るわれる武器が黒い群れを次々と押し返し、リリアが浄化へ集中するための場所を作っていく。
蒼月は瘴気の中へ踏み込んだ。
魔物の群れのさらに奥へ回り込み、瘴気のたまり場を囲う結界を張っていく。
その間にも、眷属たちの間を抜けた魔物がリリアへ向かってくる。
ラシードはソフィアの剣を抜き、リリアの前へ立った。
武神が振り返る。
「ラシード様、後ろは任せました」
「ああ」
返事と同時に、ラシードが地を蹴った。
最初の一体が爪を振り下ろす。
ラシードは身体をずらしてそれをかわし、すれ違いざまに剣を振り抜いた。
魔物の身体が傾くより早く、次の一体へ踏み込む。
左右から二体。
一体の牙を剣で受け流し、その勢いを利用して身体を回すと、背後から迫っていた魔物へ刃を叩き込んだ。
すぐに剣を返し、正面の一体を斬り伏せる。
瘴気の奥から、さらに魔物が押し寄せてきた。
背後にはリリアがいる。
それだけ分かっていれば十分だった。
「リリア、そのまま続けろ」
「はい」
リリアはソフィアの杖を握り、浄化へ意識を集中させる。
魔物が一斉にラシードへ飛びかかった。
ラシードは一歩踏み込む。
剣が走る。
一体。
二体。
三体。
迫る爪をかわし、牙を受け流し、隙を見つけるたびに刃を差し込む。
ラシードは、魔物の動きを一つずつ見切っていた。
魔物が身体を沈める瞬間、踏み込む足、爪を振り上げる肩の動き。
そのすべてを捉え、次に来る攻撃より先に剣を置く。
武神が戦いながら、その姿へ目を向けた。
人でありながら、眷属たちの戦いについてきている。
リリアへ迫る魔物は、すべてラシードの剣に阻まれていた。
「なるほど……」
武神の口元に笑みが浮かぶ。
「大地様が認めるだけはある」
ラシードは剣を構え直し、迫る魔物へ視線を向けた。
さらに一体を斬り伏せ、剣先についた黒い瘴気を振り払う。
「来るなら来い」
その背後では、リリアの杖から翡翠色の光が広がり、幾重もの線となって淀んだ空気に陣を描いていた。
リリアが空の陣をゆっくりと下ろすと、翡翠色の光が瘴気の上へ広がり、黒く濁った空気が端から薄れていく。
魔物たちが咆哮し、さらにリリアめがけて走る。
蒼月とラシード、眷属たちが正面から迎え撃った。
槍が閃き、光の剣が走り、結界がリリアの前を守る。
やがて陣が地面へ落ちると、瘴気は完全に消え去った。
魔物たちも光に呑まれて崩れ、瘴気の中心にあった黒い結晶からも、黒い気配がすうっと抜け落ちていった。
「やった……」
リリアの声が震えた。
空の女神が微笑みます。
「やりましたね、リリア様」
ラシードはすぐにリリアの肩へ手を添えました。
「苦しくないか。大丈夫か」
リリアは、ラシードを見上げて頷きました。
「うん。平気よ。魔力は、この杖が助けてくれるわ」
空の女神も頷きます。
「そうです。正しく使えば、魂や生命力を使わずに、浄化の力をもっと強めることができます」
その場に安堵が広がりました。
蒼月は、浄化された黒い結晶を見つめたまま、眉をひそめています。
「簡単すぎるな」
低い声が落ちました。
リリアの胸に、小さな冷たさが落ちました。
蒼月の言葉を受け、張り詰めた空気が戻ります。
蒼月たちは、王都へ戻りました。
戻った先には、変わり果てた王都が広がっていた。
街の上に、黒い瘴気が満ちています。
蒼月が張り直した結界は砕かれ、王都の石畳には黒い気が這い、建物からは火があがっていました。
「なっ……!」
ラシードが息を呑んだ。
蒼月の顔から、血の気が引いていきます。
リリアが小さな声で呟きました。
「お母さん……父さま……みんな……」
瘴気が城壁を越え、王宮の方へまで流れ込んでいました。
リリアの瞳から、涙がこぼれました。
光輝が口を開きます。
「私が見てまいりましょう」
光輝は、白い光をまとって街へ飛び込んだ。
瘴気の中を抜け、王宮へ向かっていく。
ラシードがそばに立ち、リリアの肩を支えています。
蒼月は、街を見つめたまま、唇を強く結んでいました。
やがて、光輝が戻ってきました。
眉をひそめ、首を振ります。
「王宮も、瘴気に呑まれています。生きた気配を、はっきりとは辿れませんでした」
リリアの膝から、力が抜けました。
「いや……」
ラシードが咄嗟に支えた。
リリアはその腕の中で泣き崩れました。
お母さん、父さま、アレクシス王、ヴィクトリア王妃、アステル、セシリア、エレナ、ミラ、ガレス、ルーク。
大切な人たちの顔が、次々と胸の奥に浮かびました。
「いや……いやよ……」
リリアの周囲の空気が揺れた。
翡翠色の光が乱れ、白く濁り、リリアの魔力が激しく波打ちます。
蒼月が目を見開いた。
「リリア!」
ラシードは、リリアの頬を両手で包みました。
そして、ぱちん、と軽く頬を叩く。
「リリア!」
リリアの瞳が、揺れながらラシードを映した。
ラシードは、そのままリリアを強く抱きしめます。
「しっかりしろ。また同じことをするつもりか」
リリアの息が震えました。
「でも……みんなが……」
涙が次々と頬を伝います。
リリアはラシードの胸に縋り、泣きながら顔を上げました。
「みんなが、死んでしまったら……私……」
「まだ決まってない」
ラシードは、リリアを抱く腕に力を込めた。
「まだ誰も、終わったなんて言ってない。だから、戻ってこい。リリア」
リリアは、涙に濡れた瞳でラシードを見ました。
崩れかけていた光が、かすかに震えながら留まります。
ラシードは、額が触れるほど近くで言いました。
「泣いていい。怖がっていい。でも、ここで壊れるな。リリアが壊れたら、救えるものまで救えなくなる」
リリアの唇が小さく震えた。
「……ラシード」
「俺がいる。蒼月もいる。まだ間に合うものを、全部取り返しに行くぞ」
リリアは、涙をこぼしたまま頷きました。
声の代わりに、その頷きだけを返します。
やがて荒れていた魔力が少しずつ鎮まり、翡翠色の光が再びリリアの周囲に戻っていきました。
蒼月は、その光を見つめていました。
そして、王都を覆う瘴気へ視線を向けます。
その蒼い瞳に、冷たい怒りが宿る。
その頃、遠く離れた場所で、ディグラードは王都を映す黒い水鏡を見つめていました。
水面には、瘴気に覆われた王都と、泣き崩れるリリアの姿が揺れています。
「ふふ」
傍らに立つシェザールが口を開いた。
「楽しいのですか」
ディグラードは、水鏡へ視線を据えたまま答えました。
「そうだな。これで、前回の仕返しはできたであろうな」
「そうですね」
シェザールは、そう答えます。
けれど、ディグラードの横顔には、冷えた静けさだけが残っていました。
王都を覆う黒い瘴気の向こうで、泣き崩れる娘の姿が小さく揺れています。
ディグラードは、水鏡の中のリリアを見つめ続けていた。




