第十七話 ラシードの決意
夜は深まり、中庭には月明かりが降りていました。
風が木々の葉を揺らすたび、石畳に落ちた影が形を変えていきます。
離宮の窓にはまだいくつか明かりが残っていましたが、ラシードはそこから離れ、一人で夜の中に立っていました。
手には、ソフィアの剣がありました。
胸の奥に抱えた問いは、誰にでも聞けるものではありませんでした。
ラシードは、月の光が届かない木陰へ目を向けました。
「闇」
声に出した瞬間、木々が落とす影が、夜の底から応えるように濃くなりました。
「なんだ。呼んだか」
闇は、姿を現しました。
「本来、私は人には答えん」
闇は、ラシードを見下ろして笑いました。
「私は、お前が気に入っているから答えているのだ」
ラシードは、ソフィアの剣を前に構えて聞きました。
「眷属になったら、もっと強くなれるのか」
闇の目が、細まりました。
「なれるぞ」
短い答えでした。
「人としての記憶は?」
「それは人によるな。眷属になった衝撃で、忘れてしまう者もいる」
「全部か」
「全部の者もいる。一部だけ失う者もいる。逆に、ほとんど残る者もいる。だが、何も変わらずに済むと思うな」
闇は、続けました。
「人が柱の眷属になるということは、存在の位が変わるということだ。肉体も、魂も、理の側へ引き上げられる」
ラシードは、剣を下ろしました。
「闇はいま、何人眷属がいるんだ」
「私は基本、眷属を持たん」
「持たないのか」
「持たずとも、私自身がする。闇なのだからな。私が堕ちることはない」
闇は、少し楽しそうに笑いました。
「だが、いたことはあるぞ。狼とか、熊とか」
ラシードは眉を寄せました。
「眷属って、人とは限らないのか」
「当然じゃ。生命は等しいからな。動物にも天零はいる」
闇は、当たり前のことのように言いました。
「ただ、柱の姿に近いこと。地上で活動しやすいこと。言葉を操り、人の社会に紛れやすいこと。そのあたりの理由で、人から選ばれることが多いだけじゃ」
「今のままの俺でいられるか」
「それは無理じゃな」
ラシードの目が、闇へ向きました。
「柱に連なる高位の存在となるのだ。人臭さは薄れ、感情も抑えられる。怒りも、悲しみも、愛しさも、今のお前が感じている形では残らん」
闇は、王宮の奥に灯るリリアの部屋の明かりへ、ちらりと視線を向けました。
「そして契約を結ぶということは、第一がその主となる」
「第一?」
「契約した柱だ。眷属にとって、主が第一となる。理や他の柱や眷属は別として、あとはその他だ」
ラシードの喉が、かすかに鳴りました。
「リリアもか」
「普通ならな」
闇は、肩をすくめました。
「ああして眷属どもが感情を出し、人と馴染んでいるように見えるのは、ほとんどがフリだ。人の世でうまくやっていくためのフリだな」
「フリ……」
「主に命じられたから協力しているだけだ。実のところ、世の中がどうなろうと構わんと思っている者も多い」
その言葉は冷たく、けれど嘘ではありませんでした。
「ただし、天零や、柱が深く愛した者に関しては若干違う。そこには理だけでは割り切れぬ揺らぎが生まれる」
ラシードは、ソフィアの剣を握る手に、力を込めました。
「俺には力が足りない」
声は低く沈んでいました。
「このままでは、リリアを守れない」
闇は、面白がるように目を細めました。
「では、私の眷属になるか」
ラシードは即座に答えました。
「もしなっても、お前の眷属には、ならん」
「つれないの」
闇は、くつくつと笑いました。
「契約はどうやるのだ」
「ん?」
闇が、少しだけ意外そうにラシードを見ました。
「聞くだけだ」
「そうか。契約は、主となる柱の宮で陣を敷き、その上で儀式を行う。契約の言霊を唱え、神気を通すために儀式の口づけをする。最後に、主が眷属となる者へ、名か呼び名を与える」
「口づけ?」
「そうじゃ。ただの儀式だ。神気を通し、魂に印を刻むためのものにすぎん」
闇は、何がおかしいのか、くつくつと笑いました。
「そして与えられた名を受け入れた時、主従の理が結ばれる。以後、眷属にとって第一は主となる」
ラシードは、しばらく黙っていました。
「……くそ。無理だ」
闇は、わざとらしく首を傾げました。
「口づけなど、ただの儀式じゃぞ」
「それでもだ」
ラシードは低く言い切りました。
「俺がそんな形で誰かに名を与えられ、主と結ばれるのは無理だ」
闇は、一瞬黙り、それから愉快そうに笑いました。
「まったく、お前は本当に面白い」
「悪いか」
「悪くない。だから私は、お前が気に入っている」
眷属になれば、力は手に入る。
けれど、その代わりに失うものがある。
記憶。
感情。
人としての自分。
そして、リリアを何より大切に思うこの心さえ、今のままでは残らないかもしれない。
そんな力に、意味があるのか。
「俺は、人のまま強くなる」
闇は、笑みを消さずにラシードを見ていました。
「難しいぞ」
「分かっている」
「人の身で、眷属に連なるものに届こうというのだからな」
「それでもだ」
ラシードは息を吐きました。
「俺は、人としてリリアの隣にいると誓った」
闇は、少しだけ目を伏せました。
「ならば、足掻け」
その声は、先ほどまでよりもわずかに低く、深く響きました。
「人として足掻き、人として剣を振れ。お前がどこまで届くか、私も見ていてやろう」
ラシードは、闇を見返しました。
「頼んでいない」
「知っている」
闇は、ふっと目を細めました。
「ヒントをやろう。まず、瘴気の中で自由に動けるようになれ。それができなければ、今後の戦いでお前がそこにいる意味はない」
言い終えると、闇は影に溶けるように薄れていきました。
「だが、見ている」
その声だけを残して、闇は中庭の影へ沈みました。
ラシードはしばらく黙っていました。
朝へ向かう気配だけが、かすかに息づいていました。
「俺は、俺のまま強くなる」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやきました。
ソフィアの剣が、夜気の中で淡く光を返していました。




