第十五話 名付けの重さ
ラシードは、眠っているリリアの髪をなでながら、天井を見上げていました。
ソフィア……。
大地を司る柱に「アルヴァン」と名付け、その眷属に「ヴァイド」と名付けました。
そのヴァイドが、なぜ堕ちたのかの理由を聞きました。
五柱の一柱を「名と愛」で狂わせ、その柱に仕える眷属までも狂わせた。
人で言う神に名を与えるという行為が、どれほど重いものなのか。
今なら、少しだけ分かる気がしました。
だから神々は、本当の名ではなく、司るものや新たに付けてもらった名だけを使うのだろう。
おそらくソフィアは、何気なく名を付けた。
悪意などなかったはずだ。
それでも、その名は千年を越えて残り、今もなお、恐ろしい形で世界に影を落としている。
――ある意味、呪いだな……。
けれど、リリアもまた、名を付けた。
記憶を失い、世界をさまよっていた銀狼に、リリアは蒼月という名を与えた。
あれも、きっと何気ない優しさだった。
だが、その名は蒼月をこの世界につなぎとめ、リリアのそばにいる蒼月という存在にした。
同じ名付けでも、残るものがこれほど違うのか。
そして、他の柱や眷属の口からも、ソフィアの名は当然のように出ていた。
闇が貸した写しの人形でさえ、実物の八割の力であれほどだった。
本人は、どれほどの闘気を放っていたのか。
ラシードは、眠るリリアの髪を指で梳きました。
リリアの寝息は、穏やかに続いていました。
その音を聞いているうちに、ラシードの瞼も、少しずつ重くなっていきました。
翌日から、リリアの浄化の訓練が始まりました。
王宮の訓練場には、朝の光が差し込んでいました。
リリアは、淡紫の髪をした女神の前に立ち、両手の間に小さな光を灯していました。
浄化の光はまだ細く、けれど以前よりも澄んでいます。
「リリア様、そのまま練習を続けてくださいませ」
女神の声は穏やかでした。
リリアは小さく頷き、胸の奥で息を整えました。
少し離れた場所では、ラシードが武神を相手に剣を構えていました。
武神は余裕を崩さず、ラシードの攻撃をかわし、鋭く打ち込んできました。
ラシードは短く息を吐き、痛みの残る腕に力を込めました。
「人としては、悪くありませんよ」
武神は、楽しげにそう言いました。
「それは、褒めているのか」
「もちろんです」
武神は槍を構え直しました。
「ですが、まだ踏み込みが甘い。もう一度いきますよ」
「望むところだ」
武神は楽しそうに笑いました。
悪意のない笑顔でした。
だからこそ、ラシードは余計に傷つきました。
「あなたとの訓練は、なかなか楽しいですよ」
「それはどうも」
「これからも付き合いますよ。いずれは、もう少し本気を出してもよさそうですね」
ラシードは口元を上げました。
「最初からそうしろ」
リリアは浄化の光を保ちながら、思わずそちらへ視線を向けました。
その瞬間、手元の光が揺れます。
「リリア様」
女神が、やわらかく呼びました。
「そのまま練習を続けてくださいませ」
「はい」
リリアは慌てて前を向き、もう一度、光を整えました。
その時、ソフィアの姿をした人形が、ラシードに向かって一歩前へ出ました。
「では、私が」
ラシードは、剣を構えたままそちらを見ました。
ソフィアの写しは、穏やかに微笑みました。
「八割でいきます」
「……最初からか」
ラシードが低くつぶやいた直後、ソフィアの写しの姿が揺れました。
踏み込みの音すら、ほとんどありませんでした。
次の瞬間には、木剣がラシードの剣の内側へ入り込んでいました。
ラシードは咄嗟に受けようとしました。
けれど、間に合いませんでした。
手首を弾かれ、肩を押さえられ、足を払われる。
視界が反転し、背中が訓練場の床に叩きつけられました。
「っ……」
息が詰まりました。
それでも、ラシードはすぐに身を起こしました。
「もう一度だ」
ソフィアの写しは、木剣を構え直しました。
「はい」
その声は穏やかでした。
けれど、構えた木剣の先には、揺らぎひとつありませんでした。
ラシードは奥歯を噛み、痛む腕に力を込めました。
リリアは、その横顔を一瞬だけ見つめ、それからもう一度、自分の手の中の光へ意識を戻しました。
しばらくして稽古を終えたラシードは、額の汗を拭いながら、訓練場の端にいた賢者のもとへ向かいました。
「一つ、聞きたいことがある」
「なんでしょう」
「ソフィアは、なぜそれほど知られているのだ。それに、お前はあいつと呼ぶのに、ほかの者たちはソフィア様と呼んでいるだろう」
賢者は、少し考えてから答えました。
「本来、人が五柱の宮へたどり着くことはできません。それに、五柱へ自ら声をかけることなど、あり得ないのです」
「ソフィア様は、それをいとも簡単に行いました。それほど天零の力が強く、人の理から外れた存在だったのです」
「それで、ソフィアのことは蒼月以外の柱にも知られていたのか」
「はい。ですが、柱が地上のことに深く関わるのは、理から外れることです。皆様はそれぞれの宮から、地上にいる大地様をご覧になっていました」
ラシードは、賢者の言葉を聞きながら、リリアへ目を向けました。
「それなら、なぜほかの眷属まで、ソフィアに様をつける」
「私たち眷属は、柱を崇敬しております。なかでもソフィア様は、大地様が深く愛し、何よりも大切にされていた方です。仕える柱が違っても、私たちにとって特別な存在なのです」
賢者は、どこか懐かしむように目を細めました。
「私がソフィア様を『あいつ』と呼ぶのは、敬意がないからではありません。あの方は、誰にも思いつかないようなことを平然となさる、とんでもない方でしたから。敬う言葉だけでは、言い表せないのです」
そこで言葉を切り、賢者は続けました。
「それに、ソフィア様は人の身でありながら、大地様へ名を授け、その存在の奥深くにまで触れました。私たち眷属にとっては、あまりにも恐れ多いことです……」
名を授けることで、柱の存在そのものに触れる。
それは、ラシード自身も考えていたことでした。
けれど、実際に眷属の口から告げられると、その重みが改めて胸の奥へ沈んでいきました。
賢者の視線が、浄化の光を保つリリアへ向かいました。
「柱や眷属へ名を授け、その名を受け入れられる。それがどれほど重いことなのか、人には分からないのでしょう」
ラシードも、賢者の視線を追いました。
リリアは二人の話に気づかず、女神の教えに従い、手の中の光を整えていました。
森で銀狼と出会い、蒼月と名付けた。
ラシードが知るリリアにとって、それは神の存在に触れようとして与えた名ではありません。
目の前にいた銀狼を呼びたいと願い、心を込めて選んだ、大切な名でした。
だからこそ、蒼月も、その名を受け入れたのだろう。
けれど、柱に仕える者たちの目には、それはただの呼び名ではありませんでした。
人が神へ名を与え、その名を受け入れられる。
森の中で交わされたその出来事が、眷属たちにとっては、畏れを抱くほど重いものとして映っている。
ラシードは、リリアと柱に仕える者たちの間にある、その隔たりを初めて知りました。




