第十四話 束の間の時間
会議室から戻り、食事を終えたころには、月の光が離宮の窓から差し込んでいました。
戦いの余韻を残したまま、蒼月、リリア、ラシード、六人の眷属はしばしの休息を求めて離宮に集まっていました。
眷属たちは、人だった頃を懐かしむように、離宮の中を見渡していました。
「ほう。人の住まいというのは、今はこういう趣なのだな」
賢者が、柱の彫刻を興味深そうに眺めながら呟きました。
「懐かしいものだ」
武神も、廊下の窓から差し込む光を、目を細めて見つめています。
これほど多くの眷属が一堂に会し、しかも異なる柱に仕える者同士が、共に地上で時を過ごすことなど、これまでにありませんでした。
「我らが光様の宮は、それはもう美しくてな」
光輝が、誇らしげに語り始めます。
「いや、空様の宮の方が広大だぞ」
賢者が、口を挟みました。
「広いだけが取り柄ではないでしょう」
澄光が、やんわりと返します。
それぞれが、自分の仕える柱を語り、楽しげな空気が離宮に満ちていきました。
その様子を眺めながら、ラシードは小さく息を吐きました。
「一気に増えたな。しかも、全員でかい」
「そうだな」
蒼月が、当然のように頷きました。
「私と、お前くらいの背丈だな」
蒼月が、椅子に腰を下ろしながら言いました。
「疲れた、リリアに癒されたい」
「神でも、疲れるのか」
ラシードが、怪訝そうに尋ねます。
「身体的なものではない」
リリアは眷属に囲まれていました。
皆、リリアに興味津々でした。
女神は、うっとりとした表情で、リリアを見つめました。
リリアは、その視線に少し戸惑いながらも、ふと気になったことを口にしました。
「光様の眷属様は、空様の眷属様より、人のようなお名前のようですね」
澄光が、微笑みました。
「私たちは、眷属になる際に、それぞれの柱より、新たな名を頂きます」
「では、人だった頃の名前ではないのですか」
「人だった頃の名はあります。でも、もうその名を語ることはありません」
賢者が、横から低く付け加えました。
「空様は、あまり人の名に興味をお持ちではないようで、人の世で使われている役割を、そのまま名として私たちに授けられています。そのため、人の名らしくはありません。それでも、私たちにとっては大切な名なのです」
その言葉に、リリアは小さく頷きました。
澄光が、改めてリリアへ視線を向けました。
「リリア様は、お美しいですね。大地様がお好きになるのも、分かる気がいたします」
その言葉に、リリアは頬を染めました。
「私から、祝福を授けてもよろしいでしょうか」
リリアが戸惑いながらも頷くと、澄光はその身体を抱き寄せ、額に軽く唇を落としました。
すると、リリアの額がほわりと淡く光り、その光は額の奥へと溶け込んでいきました。
「わ……」
リリアが小さく声を上げた、その時でした。
「私も、したいです!」
光輝が、勢いよく手を挙げました。
「おい!」
ラシードが鋭い声を上げ、リリアを抱きかかえました。
「けちですね。唇でもないのに」
光輝の不満げな声に、広間へ楽しげな笑いが広がりました。
全員に個室を用意するようルークに指示を出したあと、ラシードはリリアとともに寝室へ戻りました。
扉が閉まると、広間の賑やかな声は遠ざかりました。
二人きりになった部屋で、ラシードはリリアを抱き寄せました。
リリアの身体は、だいぶ元に戻っていました。
それでも、以前に比べればまだ細く、腕の中に収まる体温が、どこか儚く感じられました。
「リリア」
ラシードの声は、低く震えていました。
「もう、危険なことをしないでくれ」
リリアは、ラシードの胸元に頬を寄せたまま、目を伏せました。
「蒼月たちに任せておけばよかったのではないのか」
その声には、抑えきれない不安が滲んでいました。
「蒼月たちだけに、背負わせるわけにはいきません」
リリアは、小さく首を振りました。
「私たちの世界のことです。私にできることは、したいのです」
その言葉に、ラシードは何も返せませんでした。
そういうリリアだからこそ、惹かれ、愛するようになったのです。
痛いほど、分かっていました。
けれど、分かっていることと、耐えられることは同じではありませんでした。
一度失った命でした。
もう二度と、あの冷たさを腕の中で感じたくありませんでした。
リリアなしでは、自分がどうなってしまうのか分からない。
その思いが、胸の奥で軋みました。
ラシードは、リリアの頬に手を添えました。
リリアが、ゆっくりと顔を上げます。
二人の唇が、重なりました。
最初は、触れるだけの口づけでした。
けれど、離れようとした瞬間、リリアの指がラシードの服を掴みました。
ラシードの呼吸が乱れました。
それでも彼は、すぐに唇を離しました。
「すまない。まだ、本調子ではないよな」
そう言って、リリアの身体を気遣うように腕の力を緩めました。
リリアが、死から復活して、三か月以上が経っていました。
それでもラシードは、ずっとリリアの体調を気遣い、抱きしめるだけに留めていました。
リリアは、頬を赤く染めました。
俯いたまま、ためらいながら唇を開きます。
「……ラシード。少しなら、平気です」
ラシードは、苦しげに目を細めました。
「駄目だ。今、無理をしてはいけない」
「無理ではありません」
リリアは、ラシードの胸元を掴む指に力を込めました。
「私が、そうしたいのです」
腕の中のリリアは、まだ細く、守らなければならないほど儚く見えました。
けれど、その瞳には、確かな意思が宿っていました。
ラシードは、リリアを抱きしめ直しました。
「……少しだけだ」
リリアが、小さく頷きました。
ラシードは、壊れものに触れるように、けれど愛しさを隠せないまま、リリアを大切に抱きしめました。
窓の外では、夜の風が揺れていました。
離宮の灯りが、淡く部屋を包んでいました。
その頃、蒼月は、星術の塔の上にいました。
夜風が、白銀の髪を揺らしていました。
遠くには王都の灯りが瞬き、離宮の窓からは、まだ眷属たちの楽しげな気配がかすかに届いていました。
蒼月は、月を見上げていました。
何かを考えているようで、けれど何も言葉にはしていませんでした。
その背後に、空の女神がふわりと降り立ちました。
「見ているこちらまで、胸が温かくなりますね」
蒼月は振り返らずに、答えました。
「何がだ」
「リリア様とラシード様です。あの二人を見ていると、胸がきゅっとなります」
女神は、楽しげにそう言いました。
けれど、蒼月の横顔を見た瞬間、その笑みが薄れました。
「そんな寂しげなお顔をなさらないでくださいませ」
蒼月は、月を見上げたまま、息を吐きました。
「そうだな」
女神は、少し首を傾げました。
「大地様。私が代わりをお勤めいたしましょうか」
蒼月は、すぐに答えました。
「いらない」
「そうですか」
女神は、あっさりと引き下がりました。
「では、そんなお顔をしてはいけません」
そう言って、女神は蒼月を抱きしめました。
蒼月は、目を伏せました。
女神の腕は、リリアのものではありませんでした。
その温もりも、声も、魂の気配も、何もかも違っていました。
それでも、今だけは。
誰かがそばにいるということが、胸の奥へ届きました。
「しばらく、このままでおります」
女神が、声を落として告げました。
蒼月は、夜風の中で頷きました。
「ああ。ありがとう」
月の光が、寄り添う二人の影を塔の上へ長く伸ばしていました。
遠く離宮には、リリアたちのいる部屋の明かりがともっています。
蒼月はそれを見つめながら、今だけは、女神の腕に胸の奥の寂しさを預けていました。




