第十二話 ヴァイド
黒髪の男を見つめたまま、蒼月は息を止めました。
黒く変わり果てた姿の中に、かつて白かった面影が残っていました。
「……ヴァイド」
名を呼ばれた黒髪の男は、ゆっくりとこちらを向きました。
「その名で呼ぶな」
黒い気の奥で、男が薄く笑いました。
「私はもう、ヴァイドではない。今は、ディグラードと名乗っている」
蒼月の瞳が、揺れました。
「……ディグラード」
その声に、六人の眷属の顔へ悲しみが走りました。
「あなたは……」
誰かが、かすれた声で呟きました。
ディグラードは、眷属たちの顔を見て、薄く笑いました。
「そんな哀れんだ顔をするな。私は今、幸せだ」
黒い気が、ゆらりと揺れました。
「怒りも、憎しみも、妬みも、悲しみも、すべて私のものだ。眷属でいた頃より、ずっと自由だ」
蒼月は、一歩前へ出ました。
「ならば、その自由ごと、ここで止める」
その時、ディグラードの視線が、ソフィアの写しに奪われました。
黒い瞳が、大きく見開かれます。
生きた魂はありませんでしたが、その顔は、かつてディグラードが見ていたソフィアの面影を宿していました。
ディグラードの空気が、変わりました。
「……なんだ、それは」
低い声でした。
怒りとも、怯えともつかない声でした。
「それは、なんだ」
ディグラードの黒い気が、激しく揺れました。
「ソフィアではない」
「分かっている」
蒼月は、ディグラードを見据えました。
「お前がソフィアと見えるのなら、お前の心が、まだそこに縛られているからだ」
ディグラードの顔が歪みました。
「縛られている?」
その声に、黒い魔力が滲みました。
「縛られていたのは、お前だろう。アルヴァン」
ディグラードは、ソフィアの姿をした人形を睨みつけたまま、笑いました。
「私を責めるつもりか、アルヴァン」
蒼月の瞳が、揺れました。
ディグラードは、ソフィアの面影から目を離さずに続けました。
「私は、お前たちのそばにいた。ソフィアがお前を見るたびに、あの女の心が誰に向いているのか、嫌というほど分かった」
ディグラードの笑みが、歪みました。
黒い気が、濃くなっていきました。
「それでも私は、何も言えなかった。大地を司るお前の眷属で、ソフィアとの旅の仲間で、その顔をして隣に立つしかなかった」
ディグラードの声が、さらに低くなりました。
「私も、ソフィアを愛していた」
結界の内側が、重く沈みました。
「選ばれなかったことは、悲しかった。ああ、悲しかったさ。お前ではなく、私を見てほしかった。私の名を呼び、私の手を取ってほしかった」
ディグラードは、そこで一度笑いました。
その笑いは、ひどく乾いていました。
蒼月は、ディグラードを見据えました。
「私が呪われたあと、お前はソフィアと共に旅をし、神殿まで建てた。それなのに、なぜソフィアの前から姿を消したのだ」
蒼月は問いを重ねました。
「そして、ソフィアが死んだあとに堕ちたと聞いた。ソフィアの死がお前を悲しませ、堕としたのか」
ディグラードは、ソフィアの写しを見つめたまま答えました。
「お前は勘違いをしている。本当に私を壊したのは、そこではない」
ディグラードの目は、写しの中にあるソフィアの面影へ向けられていました。
「お前を世界樹に預けたあと、あの女は神殿を建てた。そして、その神殿の設計に携わった人間と結婚した」
ディグラードの声は淡々としていました。
その奥に渦巻く感情は、結界の中の空気を歪ませるほど深く濁っていました。
「お前と、あれほど愛し合っていたのに。泣くほどお前を愛していたはずなのに、お前を世界樹に預けたあと、あの女は別の男の隣で生きた」
ディグラードの指が固く握られました。
「私の大地を捨てて」
その一言を聞いた眷属たちは、悲しげに目を伏せました。
眷属にとって、柱は唯一無二の存在です。
その柱と愛しあった者に選ばれなかったことは、眷属である彼らにも耐え難いことでした。
蒼月だけは、ディグラードから目を逸らしませんでした。
その痛みを、蒼月もまた知っていたからです。
ディグラードは、もう一度乾いた笑みを浮かべました。
「許せなかった。ソフィアがお前を置いて生きたことが、お前以外の者と笑ったことが。子を産み、年老い、人として死んでいったことが」
黒い魔力が、ディグラードの足元から滲み上がりました。
「そして、ソフィアが死んだ時……」
ディグラードの声が、かすかに震えました。
「私は、大地を司るお前の眷属でありながら、あの女を嘲った」
蒼月の表情が初めて揺れました。
ディグラードは、自分自身を嘲るように笑いました。
「ざまあみろと思った。お前を置いて生きたからだと。お前を捨てたからだと。人を選んだから、眷属にもなれず、老いて死んだのだと」
その場にいた誰もが、声を上げられませんでした。
ディグラードの笑みが、ゆっくりと崩れていきました。
「愛していたのに」
黒い気の奥から響くその声だけが、ひどく人間じみて聞こえました。
「選ばれなかった悲しみだけなら、まだ眷属でいられたかもしれない。愛した女を失った悲しみだけなら、まだ戻れたかもしれない」
ディグラードは蒼月を見ました。
「だが私は、あの女の死を悲しむより先に、喜んだ」
黒い気が、ディグラードの周囲で渦を巻きました。
「その瞬間、私は眷属ではなくなった」
ディグラードの瞳に、深い闇が宿りました。
「それが、私が堕ちた理由だ」
蒼月は、ようやく口を開きました。
「……ヴァイド」
その名を呼ぶ声には、怒りよりも深い、悲しみがありました。
ディグラードは、蒼月を見つめたまま、薄く笑いました。
「だから、そんな顔をするな。アルヴァン」
黒い魔力が、再び膨れ上がりました。
「私はもう、救われたいなどと思っていない」
蒼月は、息を呑みました。
「やはり、すべて私のせいなのだな」
その言葉に、ディグラードの顔が歪みました。
「違う!」
黒い気が、激しく揺れました。
「私が弱かっただけだ。私が、ソフィアを愛した。私が、お前を妬んだ。私が、死んだソフィアを嘲った」
ディグラードは、苦しげに笑いました。
「それでも、思うのだ。やはり人などと関わるのではなかった。眷属が人を愛するなど、理に背く戯れだったのだと」
蒼月は、黙ってディグラードを見ていました。
ディグラードの瞳が、かすかに揺れました。
「アルヴァン。私の大地」
その呼び声は、かつての眷属のものに似ていました。
けれど、次の瞬間、その声は黒く濁りました。
「だが、今は違う」
ディグラードは、ゆっくりと手を上げました。
黒い魔力が、その指先に集まっていきます。
「戯言は、これくらいにしておこう」
結界の内側に、重い圧が満ちました。
「さあ、やり合おうか。お前たちで、私に勝てるかな」
六人の眷属が、一斉に構えました。
そこからの戦いは、長く続きました。
一日ではありません。
十日でもありません。
結界の中では、ソフィアの写しが沙良を押さえ続け、その間、六人の眷属とディグラードは、三か月にわたって戦い続けました。
蒼月は、外から結界を張り続けました。
沙良とディグラードの黒い魔力が地上へ漏れれば、そこから瘴気が広がります。
だから蒼月は、結界を解くことができませんでした。
六人の眷属は、代わるがわる前へ出ました。
槍が黒い気を裂き、剣が魔力の渦を断ち、術式が幾重にもディグラードを縛りました。
それでも、決着はつきませんでした。
相手は、ディグラード一人と、その背後に沙良が一人いるだけでした。
それなのに、六人がかりでも押し切れませんでした。
無理もありませんでした。
ヴァイドは、かつて蒼月の眷属の中でも、とりわけ強い眷属でした。
戦いを知り、術を知り、蒼月の力の癖さえ知っていました。
その者が、理を外れ、悪神として堕ちているのです。
眷属たちの傷は増えていきました。
光の眷属も、空の眷属も誰一人として無傷ではありませんでした。
ディグラードは、黒い気の中で笑いました。
「足りない」
六人の眷属が、息を荒げました。
「その程度では、私には届かない」
黒い魔力が、結界の内側で爆ぜた。
眷属たちが吹き飛ばされ、地面へ叩きつけられる。
ディグラードは、結界の外にいる蒼月を見ました。
「早く出てこい、アルヴァン」
蒼月は、目を伏せました。
眷属たちが、顔を上げました。
「大地様、なりません」
「結界が」
「我らが、まだ」
蒼月は首を振りました。
「もうよい」
その声は、ひどく静かでした。
「これ以上、預かっているお前たちを傷つけるわけにはいかない」
蒼月は結界の外側に手を添えました。
張り巡らせていた力の一部を、地へ沈めます。
そして、自ら結界の内側へ入りました。
ディグラードの口元が、上がりました。
「ようやくか」
黒い魔力が、槍のように蒼月へ向かって放たれた。
眷属たちが叫んだ。
「大地様!」
蒼月は、避けなかった。
黒い魔力が、蒼月の胸を貫くように打ちつけた。
白銀の髪が揺れ、蒼月の体が大きく傾ぐ。
膝が、地についた。
ディグラードの顔から、笑みが消えました。
「……なぜだ」
蒼月は、片膝をついたまま、ゆっくりと顔を上げました。
胸元から、淡い光が滲んでいました。
大地としての身が、ディグラードの魔力を受け止め、内側から軋んでいました。
それでも蒼月は、ディグラードを見ていました。
「もう、私のせいで誰にも傷ついてほしくない」
その言葉に、六人の眷属が息を呑みます。
蒼月は、黒い気の向こうにいるかつての眷属を見つめました。
「ヴァイド」
ディグラードの眉が、ぴくりと動きました。
「その名で呼ぶなと言ったはずだ」
「お願いだ」
蒼月の声は、静かでした。
「もう、引いてくれ」
ディグラードの瞳が揺れました。
一瞬だけ、そこにかつてのヴァイドが戻ったように見えました。
蒼月を大地と仰ぎ、その背に従い、ソフィアの隣で旅をした眷属の面影が、黒い気の奥に浮かびました。
けれど、それはすぐに消えました。
「……遅い」
ディグラードの声が、低く沈みました。
「遅すぎる、アルヴァン」
黒い魔力が、さらに膨れ上がりました。
「私はもう、戻れない」
ディグラードは、蒼月へ向かって踏み出しました。
六人の眷属が動こうとしました。
けれど、蒼月が片手で制しました。
「来るな」
ディグラードの攻撃が、再び蒼月へ向かいました。
蒼月は、それも避けませんでした。
けれど、その瞬間。
蒼月の意思とは関係なく、彼の内側から光があふれました。
大地としての理が、傷つけられた神体を守るために動いたのです。
白銀の光が、蒼月の全身を包みました。
その光は、結界の内側を満たし、ディグラードの黒い魔力を押し返していきます。
「……っ!」
ディグラードが、初めて後退しました。
黒い気が、白銀の光に触れたところから焼けるように剥がれていきました。
ディグラードは腕で顔を庇いました。
「アルヴァン……!」
蒼月は、苦しげに目を見開きました。
「違う」
光は止まりませんでした。
「私は、こんなことを望んでいない」
けれど、大地の理は止まりませんでした。
――こんな、こんな仕掛けが……。
蒼月の意思とは関係なく、加護は発動し続けていました。
蒼月を傷つけた者。
大地の神に刃を向けた者。
理から外れ、世界を穢す者。
それを退けるために、蒼月の加護は、蒼月自身の願いを越えて働き始めていました。
白銀の光が、ディグラードへ迫りました。
ディグラードの黒い気が、激しく裂けました。
その奥で、ディグラードは笑いました。
「そうだ」
痛みに顔を歪めながらも、その笑みを消しませんでした。
「それでいい、アルヴァン」
蒼月は息を呑みました。
ディグラードは、焼かれていく黒い気の中で目を細めました。
「お前は、私の大地だ」
その声には、ひどく懐かしい響きがありました。
――このままでは、ヴァイドだけではない、リリアのいる地上を私自身が壊してしまう。
眷属たちはそれぞれ、自身の周囲に強力な結界を張りました。
さらに、空の女神が全員を覆う結界を重ねました。
――これでも耐えられるか。
その時でした。
「蒼月」
結界の外から、リリアの声が届きました。
蒼月の白銀の光が、ほんの一瞬だけ弱まります。
結界の外に、ラシードとリリアが立っていました。
その隣には、二人を案内してきた闇がいました。
リリアは、結界の内側にいる蒼月を見つめていました。
その姿を見た瞬間、蒼月の内側で荒れ狂っていた加護が、揺らぎました。
その一瞬を、シェザールは逃しませんでした。
黒い気の裂け目から、シェザールは焼け焦げたディグラードの体を抱きかかえると、こちらを振り返ることなく闇の中へ沈んでいきました。
「待て!」
眷属の一人が叫びました。
けれど、闇はすぐに閉じました。
結界の内側には、焼けた黒い気の名残だけが漂っていました。
蒼月は膝をついたまま動けませんでした。
ぶつける相手を失った白銀の光は、少しずつ収まっていきました。
三か月もの時をかけても、何ひとつ終わっていませんでした。
六人の眷属は傷つき、ディグラードはシェザールに連れ去られ、沙良だけが結界の内側でなお暴れ続けていました。
倒すこともできず。
鎮めることもできず。
ただ、閉じ込めておくことしかできませんでした。
蒼月は、ゆっくりと目を伏せました。
「……一度、退く」
その声に、誰も異を唱えませんでした。
リリアだけが、震える声で呼びました。
「蒼月」
蒼月は、その声に答えられませんでした。
吹き荒れていた風が、焼けた黒い気の名残をさらい、傷ついた眷属たちの髪を揺らしていきます。




