第十話 借りたもの、託されたもの
会議室での話し合いが終わると、蒼月は誰よりも先に席を立ちました。
「少し外す」
それだけ告げて、返事を待たずに扉へ向かいます。
蒼月は王宮の廊下を抜け、人の気配が途切れる場所まで歩きました。
夜の庭へ続く回廊には、月の光が薄く差し込んでいました。
石の床に、蒼月の影だけが長く伸びています。
蒼月はそこで足を止めました。
「闇の」
低く呼ぶと、月明かりの届かない柱の陰が、深くなりました。
「大地の。何用だ」
闇の声が、影の奥から返りました。
蒼月は、闇を見て言いました。
「あれを貸してくれ」
「あれ、では分からぬ」
「ソフィアの写しだ」
その名を口にした瞬間、回廊の空気が冷えました。
闇はしばらく黙っていました。
やがて、低い声が落ちます。
「ラシードに出していただろう」
「見ていたぞ」
影の奥で、舌打ちのような気配がしました。
「チッ」
蒼月は、続けました。
「八割でも、ソフィアはソフィアだ」
闇はすぐには答えませんでした。
夜の底だけが、ゆっくりと息をしているようでした。
「……あいつを倒すのか」
「ああ」
「光のには伝えたのか」
「これからだ」
短い沈黙が落ちました。
千年前から続いていたものを、本当に終わらせるための沈黙でした。
やがて、闇の声が響きました。
「分かった」
足元の影が、音もなく広がります。
「壊すなよ」
蒼月は、目を伏せました。
「ああ」
影の中心に、淡い輪郭が浮かび上がりました。
人ではない。
けれど、人ではないと言い切るには、あまりにも懐かしい姿でした。
それから、蒼月は夜の庭へ出ました。
月明かりの下、白い石畳が光を返していました。
闇の気配はもうありません。
けれど、足元の影の奥には、借り受けたものの重さが、まだ残っているようでした。
蒼月は、空を見上げました。
「光の」
その声は、先ほどよりも少しだけ低く、静かでした。
「お願いだ。降りてきてくれ。直接、話したい」
夜気が、ふっとやわらぎました。
月明かりとは違う、白く澄んだ光が、庭の中央へ降りてきます。
眩しさはありませんでした。
ただ、朝が来る前の一番清らかな光だけを、誰かが置いたようでした。
その光の中に、ひとりの姿が立ちました。
「大地の。なんでしょう」
光の声は、穏やかでした。
けれど、その奥には、すでに答えを知っている者の静けさがありました。
蒼月は、まっすぐに光を見ました。
「もう気づいていると思うが、おまえの眷属だったものを逝かせる」
光は、すぐには返答できませんでした。
白い光が、揺れました。
蒼月は続けました。
「もう、あの子はだめだ。長い年月で憎しみだけに囚われている。あのままでは、戻れない」
「……分かっています」
光の声が、落ちました。
「私も、何度も手をかざしました。光を与えました。でも、あの子は受け入れてくれませんでした」
光は、遠いものを見るように目を伏せました。
「地上になど、行かせるべきではありませんでした。あの純粋な沙良を」
その言葉には、後悔がありました。
人よりも長く在るものだからこそ、消えることのない悔いがありました。
「あの子の存在を感じなくなってから、ほかの眷属にも探させました。けれど、見つかりませんでした」
光は、細く息を吐くように続けました。
「どこかに閉じ込められていたのだと思います。次に現れた時には、もう堕ちていました」
庭の白い花が、夜風に揺れました。
その小さな音だけが、二人の間に落ちます。
蒼月は、目を伏せました。
「すまない」
光は首を横に振りました。
「あなたが謝ることではありません」
けれど、その声は少しだけ震えていました。
「大地の」
蒼月は顔を上げました。
光は、白い光の中で、痛みをこらえるように微笑みました。
「なるべく、苦しまずにお願いします」
蒼月は、しばらく光を見つめていました。
それから、深く頷きました。
「分かった」
その約束だけが、夜の庭に残りました。
光は、しばらく蒼月を見つめていました。
白い光の中で、その瞳が揺れます。
「大地の」
「なんだ」
「私からも、眷属を出しましょう」
蒼月は、目を細めました。
「三人、地上に下ろします」
光の声は穏やかでした。
自分の眷属だったものを終わらせるために、光自身も痛みを引き受ける声でした。
「あの子を逝かせるのなら、私も無関係ではいられません」
蒼月は、何も言いませんでした。
光は、頭を下げました。
「よろしくお願いします」
蒼月は、短く息を吐きました。
「ああ」
その返事だけで、約束は交わされました。
光の気配が消えたあと、庭には再び夜の静けさが戻りました。
蒼月は、しばらくその場に立っていました。
白い光の名残が消え、月明かりだけが石畳を淡く照らしています。
その時、どこからともなく声がしました。
「おい。あんなに世話したのに、私には何もなしか」
姿はありませんでした。
けれど、その声が誰のものか、蒼月にはすぐに分かりました。
「命の」
「そうだ。命のだ」
蒼月は、少しだけ息を吐きました。
「命のには、感謝している」
「なら、私にも何か頼めばいいだろう」
「これ以上、理に咎められるようなことを頼みたくないだけだ」
しばらく沈黙が落ちました。
やがて、命の声が小さく笑いました。
「そうか」
呆れたようでいて、どこか満足そうな声でした。
「頑張れよ」
蒼月は、夜空を見上げました。
「分かっている」
「あれは強いぞ」
命の声が、少しだけ低くなりました。
「純粋な憎しみしかない。人の感情も、悪の心も吸い上げている」
蒼月は黙って聞いていました。
「怒りと憎しみの感情しかないから、躊躇いもない。ただただ人を憎み、人の滅亡を望んでいるだけだ」
夜風が、庭の草花を揺らしました。
「くれぐれも、お前の加護での消滅は避けよ」
命の声は、最後に告げました。
「世界が欠けるぞ」
蒼月は、すぐには答えられませんでした。
やがて、低く返します。
「分かっている」
柱の力の源である加護や言霊を使い、かつて眷属であった者を消滅させれば、その瞬間に生じる衝撃は世界そのものを破壊するほどのものとなります。
そのため蒼月に残された手段は、自ら白銀月華剣を取り、物理的に討ち倒すか、眷属の手によって倒してもらうか。そのどちらかでした。
その声は、月明かりの下に落ちました。
そうして、蒼月は踵を返しました。
月明かりの下、長く伸びた影だけが、しばらくそこに残っていました。




