第八話 堕ちた眷属
薄暗い部屋の中に、ディグラードとシェザールがいました。
部屋の中央には、水鏡が置かれています。
澄んだ水面は淡く光り、闇に沈んだ部屋の中で、そこだけが揺れていました。
ディグラードとシェザールは、その水鏡の前に立っていました。
その中には、結界に閉じ込められた魔王の姿が映っています。
魔王は、ひたすら瘴気と魔力を放ち続けていました。
結界にぶつかった黒い力は、何度も弾け、黒い火花のように散っていきます。
シェザールは、水鏡を見つめたまま、口を開きました。
「ディグラード様、あの魔王は使えるのですか?」
シェザールは、続けました。
「ただ、憎しみに染まってやみくもに、暴れているだけに見えました」
ディグラードは、水鏡の中の魔王を見据えています。
「千年前に戦った時は、知性や意思はあった」
低い声でした。
「千年という長い封印で、変わってしまったのかもしれない」
水鏡の中で、魔王がまた瘴気を放ちました。
黒い力が結界に叩きつけられ、光の壁が大きく揺れます。
「ただ、瘴気を吸い、周りも瘴気で侵すだけの存在」
ディグラードは、淡く揺れる水面を見つめたまま、続けました。
「私には、堕ちた後、おまえがいた。いなかったら、私もああなっていたのかもしれないな」
その横顔に、ふと寂しげな色が差しました。
「ディグラード様……」
シェザールが、ディグラードに抱き着きました。
ディグラードはシェザールを抱きかかえたまま、映る魔王へ視線を落としました。
もともとは同じ眷属。
なぜ、こんなにも憎しみが彼女に湧いてしまったのだろう。
「少し様子を見る」
「はい」
シェザールが、ディグラードの腕の中で頷きました。
「シェザール。おまえは魔物の軍団を作っておくれ」
ディグラードが、水鏡の上で手を滑らせました。
水面に映る景色が変わります。
封印の地ではなく、街の姿が映りました。
その周辺には、いくつもの村が見えています。
「この街と周辺の村に黒い結晶を放り込めば、数万はできよう」
シェザールは、水鏡に映った街を見つめました。
「はい、ディグラード様。がんばります」
それから、シェザールは少しだけ顔を上げました。
「前褒美がほしいです……」
ディグラードは、目を細めました。
「しかたないな」
水鏡の光が、ふっと弱まっていきました。
薄暗い部屋に、二人の影だけが残りました。
その夜、蒼月は王宮の外れにある高い露台へ出ていました。
夜風が、白銀の髪を揺らします。
地上には王都の灯りが広がり、遠い空には、雲の切れ間から星が瞬いていました。
蒼月は、空を見上げました。
「空の、いるか」
返事は、すぐに降ってきました。
「なんだ」
姿は見えません。
けれど、その声は確かに空の向こうから届いていました。
「大地の、まだいるのか、地上に」
空の声には、呆れたような響きがありました。
「もう、あの娘は生き返ったではないか」
蒼月の瞳に、王都の灯りが小さく映りました。
「大地のが、つらいだけだぞ」
夜風が、露台の石を撫でていきます。
「だいたい、五柱がこんなに地上にぽんぽん降りていいわけがない」
空の声が、少し低くなりました。
「理に怒られるぞ」
「でも、悪神が……」
「地上に堕ちたものは、地上で処理されるべきだ」
「でも、もと眷属なのだぞ」
「そんなことは、私たちが気にすることではない」
空の言葉は冷たく聞こえました。
けれど、その奥にあるものを、蒼月は知っていました。
冷たいのではない。
理に近い者ほど、地上の一つ一つへ手を伸ばせないだけなのだ。
「主である光のが、一番つらかろう。気に入っていたからな」
蒼月は、目を伏せました。
「あのままでは、地上は瘴気に侵される。大地を司る者としては看過できない」
「では、おまえ自身ではなく、眷属を作れ」
蒼月の瞳が、揺れました。
「ちょうど、おまえの傍に天零が二人もいるじゃないか」
「だめだ……」
その声は、すぐに落ちました。
「眷属になったら、人としての幸せは送れぬ。感情も理寄りになり、何も感じなくなってしまうかもしれぬ」
雲が流れ、月の光が露台に差しました。
蒼月の横顔が、白く照らされます。
「眷属とはそういう者だ。それに、おまえが、それを言うのか……」
空の声に、わずかな苦さが混じりました。
「まったく」
蒼月は、空を見上げました。
「また、呪われてしまうぞ」
「空の」
「なんだ」
「私が呪われたら、次は助けてくれ」
風が、露台を渡りました。
遠くの雲が、ゆっくりと形を変えていきます。
「地上のことをするのは、理に反する」
空の声は、いつもより少し低く聞こえました。
「おまえの頼みだからといって、今すぐ承諾はできぬ」
蒼月は、悲しそうな顔をして、空を見上げました。
「空と対をなす大地の頼みでもか……」
遠い空の奥で、風の流れが変わりました。
「あーーーーーーもう、やってやるから」
空の声が、とうとう折れました。
「そんな人みたいな感情の顔をするな」
蒼月は、月明かりの中で、少しだけ目を細めました。
「それと、空の」
「まだあるのか」
「眷属を貸してくれないか」
空の気配が、鋭くなりました。
蒼月は、夜の向こうを見つめました。
封印の地で見た、黒い女の姿が脳裏をよぎります。
瘴気に包まれ、ただ憎しみを撒き散らしていた、かつての眷属。
「あの悪神は、もうだめだ」
蒼月の声は、静かでした。
「早く逝かせてあげるしかない」
空の声も、静かになりました。
「そうだな」
夜空は、何も変わらず広がっていました。
けれどその奥で、ひとつの理が、動き始めていました。




