第六話 封印の地
リリアの回復が、目に見えて進み始めた頃。
蒼月、ラシード、アステル、数名の星術師、そしてエレナを含む三十人ほどの騎士が、王都を発つことになりました。
目的は、かつて黒い力が封じられた地――ソフィアとアルヴァンが、あの戦いの果てに封印を成した場所へ向かい、再び封印を施すことでした。
黒い結晶によって、封じられていたものが力を取り戻しつつあるのなら、完全に復活する前に、もう一度封じなければなりません。
会議室で、蒼月は告げました。
「封印の地へ向かう。ラシードの術で、もう一度封じる」
アレクシス王は、深く頷きました。
「そうだな」
出立の朝、王宮の前庭には、重い空気が満ちていました。
三十人ほどの騎士団が、隊列を組んでいます。
蒼月たちも、すでに出立の支度を終えていました。
その様子を、リリアは離宮の窓から見つめていました。
体はまだ本調子には遠いものの、椅子に座って外を見られるくらいには回復していました。
騎士団が出立の準備を進める中、ラシードと蒼月は、リリアの部屋へ最後の挨拶に訪れました。
「無理はしないでくださいね」
ラシードはリリアの前に膝をつき、その手を取りました。
「すぐ戻る」
「はい。待っています」
リリアは、握られた手を握り返しました。
ラシードが立ち上がると、蒼月がリリアの前へ進みました。
「リリア、行ってくる」
「行ってらっしゃい、蒼月」
その言葉に、蒼月の表情が緩みました。
失われたと思っていたリリアの声が、今はこうして自分を送り出している。
そのことを胸に刻み、蒼月はリリアを見つめました。
蒼月の案内で転送機を使い、封印の地に最も近い祠へ順次移動しました。
そこから先は、徒歩で進むことになります。
荒野を進むにつれ、空気が変わっていくのが分かりました。
乾いた風の中に、かすかな瘴気の匂いが混じり始めます。
「近いな」
蒼月が、低く呟きました。
やがて、荒野の向こうに、朽ちかけた城の輪郭が見えてきました。
千年の時を経て、なお崩れきらずに立ち続けるその城は、かつてソフィアが結界で覆った場所でした。
「あれが……」
ラシードが、思わず呟きました。
蒼月は、その城を見据えたまま、足を止めました。
「気をつけろ」
その声には、これまでにない硬さがありました。
「何かが、おかしい」
城の中心へたどり着いた一行は、息を呑んで動きを止めた。
封印の陣の中心には、繭のような黒い塊があり、その前に二人の男が立っている。
周囲を巡る陣の光が、いくつも消えかかっていた。
「ヴァイド……?」
蒼月が、掠れた声で呼びかけた。
「ふっ」
ディグラードが、低く笑った。
「その名は、捨てた」
蒼月が、叫んだ。
「封印が、解かれるぞ!」
その言葉が終わるより早く、魔法陣の最後の円が、音もなく消えた。
次の瞬間、凄まじい風が巻き起こる。
雷鳴が轟き、厚い雲が空を覆い、あたりは昼だというのに、夜のように暗くなっていく。
繭が、黒い炎のように揺らめき始めた。
燃え上がるようなその輪郭の中から、やがて人の姿が現れる。
漆黒の髪。
赤い瞳。
その女の周りには、絶えず瘴気が舞い、黒いオーラが揺らめいていた。
「ここにいると、巻き込まれるな」
ディグラードが、シェザールへ短く言った。
「行くぞ」
二人の姿は、そのまま闇の中へ溶けるように消えていった。
残された女は、ゆらりと体を揺らし、あたりかまわず瘴気を放ち始めた。
「蒼月、どうするんだよ!」
ラシードの声が、緊迫した空気を裂いた。
かつて白かったヴァイドが真っ黒な姿へ変わり果てた光景は、蒼月の胸に重い衝撃を残していました。
けれど、立ち尽くしている時間はありません。
蒼月は、黒い女を見据えたまま、低く告げた。
「私とあれがぶつかれば、衝撃で周辺のすべてが消え去る。瘴気が濃くなれば、この場にいる人間たちも、無事では済まない」
蒼月は、眉を寄せた。
「いったん、下がれ」
低く、鋭い声だった。
「このままでは、駄目だ。ひとまず、結界に閉じ込める」
ラシードが頷いた。
「分かった。その間に皆を撤退させる」
ラシードは後方へ振り返り、鋭く声を張った。
「騎士団、星術師を先に下げろ! 撤退だ!」
騎士たちが隊列を組み直し、後方へ下がり始める。
蒼月が、両腕を大きく広げた。
淡い光が、蒼月を中心に、大きく円を描いて広がっていく。
その光は、朽ちた城とその周辺一帯を、まるごと包み込むように、大きな結界を張り巡らせた。
女が投げつける魔力と瘴気が、次々と結界にぶつかる。
そのたびに、結界の表面が、稲妻のように激しく光った。
「持ちこたえている……」
アステルが、震える声で呟いた。
けれど、その安堵も、長くは続かなかった。
「蒼月様、結界に、亀裂が……!」
星術師の一人が、声を上げた。
結界の一部が、女の攻撃を受けるたびに、細かく軋み始めている。
蒼月の指先で、結界の光が震えた。
「結界の強度を上げる。早く下がれ」
蒼月は最初の結界を覆うように、もう一重の結界を張りなおした。
やがて、騎士団と星術師たちの撤退が完了する。
「蒼月様、皆、下がりました!」
エレナの声が、遠くから届いた。
その声を聞いた蒼月は、二重の結界へさらに力を注いだ。
「よし……私たちも、退くぞ」
蒼月は、女の姿を、もう一度だけ見つめた。
赤い瞳が、こちらを見返していた。
蒼月とラシードは、荒野を戻り始めました。
一行が、転送機がある祠へ辿り着いたのは、日が完全に沈んだ後のことでした。
すぐさま転送機が起動され、順次王都へと帰還しました。
「……全員、無事か」
蒼月が、低く尋ねました。
エレナが、頷きます。
「はい。負傷者もいません」
その言葉に、蒼月は、小さく息を吐きました。
「そうか」
けれど、その表情には、安堵よりも、深い疲労と、まだ晴れない緊張が残っていました。
封じられていた女は、すでに解き放たれていました。
今はただ、蒼月の結界によって、あの地に留められているだけでした。
そして、ヴァイドだったあの男も、今もどこかで動いていました。
あの男が、今、何と名乗っているのかは、蒼月には知る由もありませんでした。
蒼月は、夜の空を見上げました。
千年前と、同じ夜だった。
そう思わずにはいられませんでした。




