第五話 闇とラシード
夜明け前の王宮は、まだ静かでした。
薄い青を含んだ空の下、中庭の石畳には、夜露が淡く残っていました。
風が草木の葉先を揺らすたび、濡れた緑の匂いが、ひんやりとした空気の中に広がります。
その静けさの中で、ラシードは一人、封印の術の練習を続けていました。
足元には、何度も描き直した魔法陣の跡が残っています。
封印の術は、長い詠唱の中で魔力の流れを整えながら、一つずつ陣を丁寧に築き上げ、最後にその力を閉じ込めるものでした。
光は形になりかけてはほどけ、糸のように伸びかけては、指先で散っていきました。
「……違うな」
ラシードは低く息を吐き、もう一度、手のひらへ魔力を集めます。
押し切れば済むものではない。
力を込めれば込めるほど、封印の術は乱れ、形を失っていきます。
細く、静かに。
縛るのではなく、閉じ込める。
壊すのではなく、流れを止める。
頭では分かっていても、ラシードの魔力は、どうしても荒く走りました。
幾度目かの失敗で、淡い光が弾けるように消えた時でした。
ふ、と。
中庭の空気が、変わりました。
朝の冷たさとは違う、底のない夜のような気配が、足元から滲み上がってきます。
ラシードが顔を上げると、石畳の影がひとところだけ濃くなっていました。
その影の中から、闇の者が、音もなく姿を現します。
「おぬし、名はなんといったかの」
「ラシードだ」
「ラシードか。良い名じゃな」
闇は、ラシードが何かを言いかける前に、片手を胸のあたりまで上げました。
それは、拒むような仕草でした。
「闇と呼んでくれ。名やあだ名はつけるな。ろくなことにならん」
「……分かった」
闇は、じっとラシードを見ます。
「ラシード。私はおまえを気に入った。眷属にならんか」
「ならん」
「早いの」
闇は、くつくつと喉の奥で笑いました。
「おまえ、魔法系の封印はまるで向いておらんぞ。眷属になれば、その程度の術など簡単に扱えるようになる」
「眷属になったら、どうなるんだ」
「強くなれる」
「でも、おまえについていかなきゃならないなら嫌だ」
「めったに断られぬのだがな」
闇は、少しだけ面白そうに目を細めました。
「では、どうだ。この姿なら」
その姿が、揺らぎます。
黒い気配をまとっていた輪郭がほどけ、次の瞬間、そこには息を呑むほど美しい女が立っていました。
夜の闇をそのまま絹にしたような髪。
人の心を惑わせるような瞳。
微笑むだけで、空気の温度まで変えてしまいそうな美しさでした。
「おまえが望むなら、この姿でいてもよいぞ」
「どうせ姿は仮初だ」
闇は笑みを深め、ラシードの首へ腕を回そうとしました。
「やめろ」
ラシードは一歩下がり、その手を避けます。
「つれないの」
闇は、少しも傷ついた様子もなく笑いました。
「俺は、リリアにしか興味ない」
「人は正妃がいても、側室を迎えるものではないか」
その言葉は、廊下の向こうにまで届きます。
少しだけ外の空気を吸いたいと言って、セシリアに付き添われていたリリアが、足を止めていました。
――側室……。
胸の奥が、ほんの少しだけ冷たくなりました。
――そうよね。ラシードは、ずっと我慢しているのかしら……。
「俺は、側室は取らん!」
ラシードの声が、きっぱりと響きます。
廊下の方を見もせずに、けれど、届かせるように。
リリアは、思わず顔を上げました。
闇は、面白がるように笑います。
「そうか、それで、どうする?」
「だが、そのままでは封印術はものにならんぞ」
「ソフィアの封印術は、人が人の神に祈って封印するものだと聞いた。だから、ソフィアは眷属にならなかったと……」
「闇は、また別でな。大地とは違うのだ」
「でもならん」
ラシードは、深く息を吐きます。
闇は懐から、小さな人形を取り出しました。
「なんだ。呪いの類か」
「いや、違う。見ていろ」
闇が手を離すと、人形はふわりと宙に浮かびます。
小さな手足が伸び、布のようだった輪郭が、少しずつ人の形を取り始めました。
やがてそこに現れた姿を見て、ラシードは目を見開きます。
「……ソフィアの写しじゃ」
闇が、あっさりと言いました。
「めちゃくちゃだな」
ラシードは、思わずそうこぼします。
闇は、どこか得意げに笑いました。
「ソフィアも誘ったのだが、あれにも断られての」
「当然だろうな」
「だが、これほどの天零の器を、そのまま失うのは惜しいじゃろ」
ラシードは、人の形を得たそれを見つめました。
――実際に見ると、すごいな。柱にここまで目をつけられるのも、分かる。
闇は、形を得た人形を指先で示します。
「実際の本人の八割程度の力はある」
「封印術を見てから決めるのじゃな」
闇が指を鳴らすと、目の前に魔法陣が現れます。
その上には、大きな魔物が縛り上げられていました。
ソフィアの写しが、封印術の詠唱を始めます。
「光を紡ぐ星の瞬きよ。大地の底に眠りし古き理よ。我が声に応じ、今ここに千の祈りを糸と成さん。天より降る光を縒り、地を巡る命の脈へ結び、絶えざる輪の内にひとつの陣を描け」
言葉が重なるたび、魔法陣の光が細く編まれ、幾重もの紋様となって中庭へ広がっていく。
「交わりて結び目となり、重なりて白銀の網目となれ。千の祈りはひとつの楔となり、万の願いは揺るがぬ檻となれ。天を覆い、地を包み、逃れ得ぬ光の境をここに築け」
中庭の空気が低く震え、眩い光の糸が幾重にも空間を交差する。
魔法陣の縁から立ち上った白銀の光が、ゆるやかに閉じながら、魔物を包み込んでいった。
「闇に沈みし深淵の王よ。悲哀に満ちた荒ぶる力よ。憎しみに焼かれ、嘆きに囚われしその魂よ。光の揺り籠にその身を委ね、怒りを解き、痛みを忘れ、深き静寂の底へ還りたまえ」
光の糸は鎖となり、幾重にも絡みながら、その巨躯と魂を魔法陣の中心へ縛りつけた。
「大地の女神の御名において、魂を縛る鎖をここに繋がん。時の流れより切り離し、陽の光より遠ざけ、月の満ち欠けさえ届かぬ深奥へ、その力を封じ込めん。目覚めの時は来ず、呼ぶ声は届かず、その名も、その怒りも、永き眠りの底へ沈みゆけ」
ソフィアは両手を組み、最後の言葉を告げます。
「千の祈りを楔とし、白銀の光を封印と成す。――永劫の眠りをもって、此処に封ず」
やがて詠唱が終わると、編み上げられた光の糸が魔物の体へ一斉に絡みつき、深く、確かな力で封じ込めていきました。
闇は、ラシードを見ます。
「おまえに、この繊細な封印の制御ができるのか」
その声には、はっきりとした侮りがありました。
ラシードは、封じられていく魔物と、その術を紡いだ「写し」を見比べます。
繊細で、静かで、一分の狂いもない詠唱。
自分の荒々しい魔力とは、まるで質が違うものでした。
それでも、ラシードは短く答えました。
「やる」
「無理じゃと言っておるのだがな」
「やってみなきゃ分からんだろ」
闇は、くつくつと笑います。
「まあいい。せいぜい、無様なところを見せてくれ」
写しが、ラシードの方を向きました。
ソフィアそのものの顔立ちで、けれど、その瞳には、本人にあった生気の代わりに、静かな機械のような正確さだけが宿っています。
「では、始めましょう」
写しの声も、ソフィアのものでした。
けれど、その響きには、温度がありませんでした。
ラシードは、渡された詠唱の型を、見よう見まねでなぞります。
「駄目です。魔力が乱れています」
写しは、淡々と告げました。
「もう一度」
ラシードは、もう一度、同じ型を辿ります。
「まだ乱れています。力を込めすぎです」
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
「加減を、覚えてください」
「それができりゃ苦労しない」
ラシードは、額の汗を拭いました。
闇は、少し離れた場所で、退屈そうにそれを眺めています。
「言ったであろう。おまえには向いておらんと」
「うるさい」
ラシードは、もう一度、集中し直しました。
蒼月が言っていたことを、思い出します。
押し出すのではない。
流れを、整える。
ラシードは、詠唱を一から辿り直しました。
一度目は、崩れました。
二度目も、乱れます。
三度目、糸のような光が、指先から伸びました。
「……今のは」
写しが、初めて、眉を動かします。
「悪くありません」
「それだけか」
「悪くない、で十分です。あなたの魔力は、本来、繊細な術には向いていません」
写しは、続けました。
「けれど、力業で押し通す、その粗さの奥に、確かな筋があります」
ラシードは、写しの言葉を、黙って聞いていました。
「その筋を、崩さず、太くしていけば。いずれ、この術も、あなたの形で使えるようになるでしょう」
「俺の、形で?」
「ええ」
写しは、小さく頷きました。
「私と同じ型にはなりません。あなたは、あなたのやり方で、これを習得すべきです」
その言葉は、どこか、本物のソフィアが言いそうな響きを持っていました。
闇が、面白そうに目を細めます。
「おや。写しのくせに、生意気を言うようになったの」
「そう作られているのでしょう」
写しは、涼しく答えました。
それから、幾度となく、失敗が繰り返されました。
崩れる詠唱。
乱れる魔力。
汗だくになりながら、それでもラシードは、術を投げ出しませんでした。
日が傾き、夜になっても、中庭の一角には、淡い光が瞬いていました。
「……できた」
ある時、ラシードの手のひらから伸びた光の糸が、目の前の的へ、正確に絡みつきました。
繊細さでは、写しの術には遠く及びません。
けれど、確かに、術は形を成していました。
「ほう」
闇が、初めて、感心したように声を上げます。
「本当に、力業で持っていったか」
写しは、ラシードの手元を、じっと見つめていました。
「まだ荒い。ですが」
写しは、言いました。
「これは、あなたの術です」
ラシードは、荒い息を吐きながら、それでも小さく笑います。
「向いてないんじゃなかったのかよ」
「向いていません」
写しは、あっさりと答えました。
「それでも、覚えました。それが、あなたです」
闇は、腕を組んだまま、ラシードを見ています。
「眷属にはならんのだったな」
「ならん」
「つれない男じゃ」
闇はそう言いながらも、どこか楽しげでした。
「まあいい。その意地、嫌いではないぞ」
そう言って、闇はしばらくラシードを眺めています。
「ついでだ。少し、剣技も見てやろう」
「今からか」
ラシードは息を吐き、部屋の方を指しました。
「待ってくれ、ソフィアの剣を持ってくる」
闇の姿が、一瞬、揺らぎます。
そして、次の瞬間には、一振りの剣を手にしていました。
「写しの方は、木剣でよい」
「では、俺も抜かない」
ラシードがそう言うと、写しはラシードを見ました。
「それでも、私の七割程度の力で十分です」
その一言に、ラシードは黙って鞘から剣を抜いた。
写しと、ラシードが、向き合う。
夜の中庭に、張り詰めた空気が満ちた。
先に動いたのは、どちらからともなくだった。
二つの影が同時に踏み込み、凄まじい一撃が、正面からぶつかり合う。
金属の音が、幾度も夜気を裂いた。
攻防は、何度も繰り返された。
写しの剣筋は、最初から最後まで淀みなく走る。
ラシードの息が上がり始めても、写しの太刀筋は、最初と変わらぬ速さと正確さを保っていた。
そして、その隙を、写しは捉えた。
一瞬の踏み込みから放たれた一撃が、ラシードの横腹を捉える。
「が……っ」
ラシードの体が、大きく吹き飛ばされた。
地面に崩れ落ちたラシードは、そのまま意識を失った。
写しは、木剣を下ろし、ラシードを見下ろす。
闇は、小さく笑いました。
「まあ、こんなものか」
写しが、闇の方を振り返ります。
「闇様、帰りましょう」
「そうだな」
そう言い残すと、闇の姿は、夜の中へ溶けるように消えていきます。
写しもまた、役目を終えたように、崩れ、元の人形へと戻っていきました。
中庭に残されたのは、気を失ったまま倒れているラシードだけでした。
――どれくらいの時間が経っただろうか。
夜明けの冷たい風に吹かれ、ラシードはゆっくりと目を開けました。
酷い痛みのある横腹を押さえながら身を起こすと、しばらくその場に座り込んだまま、荒い息を整えます。
その後、痛みを堪えながら自力でアステルの元へ向かい、治療を頼みました。
傷自体は魔法ですぐに治ったものの、あの写しが放った完璧な一撃の感触だけは、体に深く焼き付いていました。
「……疲れた」
呟いた声は、けれど、どこか満ち足りていました。
その夜、部屋へ戻ったラシードを、リリアが出迎えました。
「お帰りなさい」
「ああ」
「今日も、遅かったのですね」
リリアの声には、隠しきれない、わずかな不安が滲んでいました。
ラシードは、その揺れに気づき、彼女を見ます。
「リリア」
「はい」
「側室なんぞ、取らん」
リリアは、目を丸くしました。
「聞いていたのを知っている」
「……」
リリアは、恥ずかしそうに視線を落とします。
ラシードは、彼女を引き寄せました。
「俺が欲しいのは、リリアだけだ」
その一言に、リリアの頬が、やわらかく染まりました。
「……はい」
小さな返事が、静かな部屋に落ちます。
窓の外では、修行を終えたばかりの疲れも忘れさせるほど、穏やかな夜が更けていました。




