↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお
第二部 第一章 柱

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

118/223

第五話 闇とラシード

挿絵(By みてみん)


夜明け前の王宮は、まだ静かでした。


薄い青を含んだ空の下、中庭の石畳には、夜露が淡く残っていました。

風が草木の葉先を揺らすたび、濡れた緑の匂いが、ひんやりとした空気の中に広がります。


その静けさの中で、ラシードは一人、封印の術の練習を続けていました。


足元には、何度も描き直した魔法陣の跡が残っています。

封印の術は、長い詠唱の中で魔力の流れを整えながら、一つずつ陣を丁寧に築き上げ、最後にその力を閉じ込めるものでした。

光は形になりかけてはほどけ、糸のように伸びかけては、指先で散っていきました。


「……違うな」


ラシードは低く息を吐き、もう一度、手のひらへ魔力を集めます。


押し切れば済むものではない。

力を込めれば込めるほど、封印の術は乱れ、形を失っていきます。


細く、静かに。

縛るのではなく、閉じ込める。

壊すのではなく、流れを止める。


頭では分かっていても、ラシードの魔力は、どうしても荒く走りました。


幾度目かの失敗で、淡い光が弾けるように消えた時でした。


ふ、と。


中庭の空気が、変わりました。


朝の冷たさとは違う、底のない夜のような気配が、足元から滲み上がってきます。

ラシードが顔を上げると、石畳の影がひとところだけ濃くなっていました。


その影の中から、闇の者が、音もなく姿を現します。


「おぬし、名はなんといったかの」


「ラシードだ」


「ラシードか。良い名じゃな」


闇は、ラシードが何かを言いかける前に、片手を胸のあたりまで上げました。

それは、拒むような仕草でした。


「闇と呼んでくれ。名やあだ名はつけるな。ろくなことにならん」


「……分かった」


闇は、じっとラシードを見ます。


「ラシード。私はおまえを気に入った。眷属にならんか」


「ならん」


「早いの」


闇は、くつくつと喉の奥で笑いました。


「おまえ、魔法系の封印はまるで向いておらんぞ。眷属になれば、その程度の術など簡単に扱えるようになる」


「眷属になったら、どうなるんだ」


「強くなれる」


「でも、おまえについていかなきゃならないなら嫌だ」


「めったに断られぬのだがな」


闇は、少しだけ面白そうに目を細めました。


「では、どうだ。この姿なら」


その姿が、揺らぎます。


黒い気配をまとっていた輪郭がほどけ、次の瞬間、そこには息を呑むほど美しい女が立っていました。

夜の闇をそのまま絹にしたような髪。

人の心を惑わせるような瞳。

微笑むだけで、空気の温度まで変えてしまいそうな美しさでした。


「おまえが望むなら、この姿でいてもよいぞ」


「どうせ姿は仮初だ」


闇は笑みを深め、ラシードの首へ腕を回そうとしました。


「やめろ」


ラシードは一歩下がり、その手を避けます。


「つれないの」


闇は、少しも傷ついた様子もなく笑いました。


「俺は、リリアにしか興味ない」


「人は正妃がいても、側室を迎えるものではないか」


その言葉は、廊下の向こうにまで届きます。


少しだけ外の空気を吸いたいと言って、セシリアに付き添われていたリリアが、足を止めていました。


――側室……。


胸の奥が、ほんの少しだけ冷たくなりました。


――そうよね。ラシードは、ずっと我慢しているのかしら……。


「俺は、側室は取らん!」


ラシードの声が、きっぱりと響きます。

廊下の方を見もせずに、けれど、届かせるように。

リリアは、思わず顔を上げました。

闇は、面白がるように笑います。


「そうか、それで、どうする?」


「だが、そのままでは封印術はものにならんぞ」


「ソフィアの封印術は、人が人の神に祈って封印するものだと聞いた。だから、ソフィアは眷属にならなかったと……」


「闇は、また別でな。大地とは違うのだ」


「でもならん」


ラシードは、深く息を吐きます。

闇は懐から、小さな人形を取り出しました。


「なんだ。呪いの類か」


「いや、違う。見ていろ」


闇が手を離すと、人形はふわりと宙に浮かびます。


小さな手足が伸び、布のようだった輪郭が、少しずつ人の形を取り始めました。

やがてそこに現れた姿を見て、ラシードは目を見開きます。


「……ソフィアの写しじゃ」


闇が、あっさりと言いました。


「めちゃくちゃだな」


ラシードは、思わずそうこぼします。


闇は、どこか得意げに笑いました。


「ソフィアも誘ったのだが、あれにも断られての」


「当然だろうな」


「だが、これほどの天零(てんれい)の器(うつわ)を、そのまま失うのは惜しいじゃろ」


ラシードは、人の形を得たそれを見つめました。


――実際に見ると、すごいな。柱にここまで目をつけられるのも、分かる。


闇は、形を得た人形を指先で示します。


「実際の本人の八割程度の力はある」


「封印術を見てから決めるのじゃな」


闇が指を鳴らすと、目の前に魔法陣が現れます。

その上には、大きな魔物が縛り上げられていました。


ソフィアの写しが、封印術の詠唱を始めます。


「光を紡ぐ星の瞬きよ。大地の底に眠りし古き理(ことわり)よ。我が声に応じ、今ここに千の祈りを糸と成さん。天より降る光を縒り、地を巡る命の脈へ結び、絶えざる輪の内にひとつの陣を描け」


言葉が重なるたび、魔法陣の光が細く編まれ、幾重もの紋様となって中庭へ広がっていく。


「交わりて結び目となり、重なりて白銀の網目となれ。千の祈りはひとつの楔となり、万の願いは揺るがぬ檻となれ。天を覆い、地を包み、逃れ得ぬ光の境をここに築け」


中庭の空気が低く震え、眩い光の糸が幾重にも空間を交差する。

魔法陣の縁から立ち上った白銀の光が、ゆるやかに閉じながら、魔物を包み込んでいった。


「闇に沈みし深淵の王よ。悲哀に満ちた荒ぶる力よ。憎しみに焼かれ、嘆きに囚われしその魂よ。光の揺り籠にその身を委ね、怒りを解き、痛みを忘れ、深き静寂の底へ還りたまえ」


光の糸は鎖となり、幾重にも絡みながら、その巨躯と魂を魔法陣の中心へ縛りつけた。


「大地の女神の御名において、魂を縛る鎖をここに繋がん。時の流れより切り離し、陽の光より遠ざけ、月の満ち欠けさえ届かぬ深奥へ、その力を封じ込めん。目覚めの時は来ず、呼ぶ声は届かず、その名も、その怒りも、永き眠りの底へ沈みゆけ」


ソフィアは両手を組み、最後の言葉を告げます。


「千の祈りを楔とし、白銀の光を封印と成す。――永劫の眠りをもって、此処に封ず」


やがて詠唱が終わると、編み上げられた光の糸が魔物の体へ一斉に絡みつき、深く、確かな力で封じ込めていきました。


闇は、ラシードを見ます。


「おまえに、この繊細な封印の制御ができるのか」


その声には、はっきりとした侮りがありました。


ラシードは、封じられていく魔物と、その術を紡いだ「写し」を見比べます。


繊細で、静かで、一分の狂いもない詠唱。

自分の荒々しい魔力とは、まるで質が違うものでした。


それでも、ラシードは短く答えました。


「やる」


「無理じゃと言っておるのだがな」


「やってみなきゃ分からんだろ」


闇は、くつくつと笑います。


「まあいい。せいぜい、無様なところを見せてくれ」


写しが、ラシードの方を向きました。

ソフィアそのものの顔立ちで、けれど、その瞳には、本人にあった生気の代わりに、静かな機械のような正確さだけが宿っています。


「では、始めましょう」


写しの声も、ソフィアのものでした。

けれど、その響きには、温度がありませんでした。


ラシードは、渡された詠唱の型を、見よう見まねでなぞります。


「駄目です。魔力が乱れています」


写しは、淡々と告げました。


「もう一度」


ラシードは、もう一度、同じ型を辿ります。


「まだ乱れています。力を込めすぎです」


「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」


「加減を、覚えてください」


「それができりゃ苦労しない」


ラシードは、額の汗を拭いました。


闇は、少し離れた場所で、退屈そうにそれを眺めています。


「言ったであろう。おまえには向いておらんと」


「うるさい」


ラシードは、もう一度、集中し直しました。


蒼月が言っていたことを、思い出します。


押し出すのではない。

流れを、整える。


ラシードは、詠唱を一から辿り直しました。


一度目は、崩れました。

二度目も、乱れます。


三度目、糸のような光が、指先から伸びました。


「……今のは」


写しが、初めて、眉を動かします。


「悪くありません」


「それだけか」


「悪くない、で十分です。あなたの魔力は、本来、繊細な術には向いていません」


写しは、続けました。


「けれど、力業で押し通す、その粗さの奥に、確かな筋があります」


ラシードは、写しの言葉を、黙って聞いていました。


「その筋を、崩さず、太くしていけば。いずれ、この術も、あなたの形で使えるようになるでしょう」


「俺の、形で?」


「ええ」


写しは、小さく頷きました。


「私と同じ型(かた)にはなりません。あなたは、あなたのやり方で、これを習得すべきです」


その言葉は、どこか、本物のソフィアが言いそうな響きを持っていました。


闇が、面白そうに目を細めます。


「おや。写しのくせに、生意気を言うようになったの」


「そう作られているのでしょう」


写しは、涼しく答えました。


それから、幾度となく、失敗が繰り返されました。


崩れる詠唱。

乱れる魔力。

汗だくになりながら、それでもラシードは、術を投げ出しませんでした。


日が傾き、夜になっても、中庭の一角には、淡い光が瞬いていました。


「……できた」


ある時、ラシードの手のひらから伸びた光の糸が、目の前の的へ、正確に絡みつきました。


繊細さでは、写しの術には遠く及びません。

けれど、確かに、術は形を成していました。


「ほう」


闇が、初めて、感心したように声を上げます。


「本当に、力業で持っていったか」


写しは、ラシードの手元を、じっと見つめていました。


「まだ荒い。ですが」


写しは、言いました。


「これは、あなたの術です」


ラシードは、荒い息を吐きながら、それでも小さく笑います。


「向いてないんじゃなかったのかよ」


「向いていません」


写しは、あっさりと答えました。


「それでも、覚えました。それが、あなたです」


闇は、腕を組んだまま、ラシードを見ています。


「眷属にはならんのだったな」


「ならん」


「つれない男じゃ」


闇はそう言いながらも、どこか楽しげでした。


「まあいい。その意地、嫌いではないぞ」


そう言って、闇はしばらくラシードを眺めています。


「ついでだ。少し、剣技も見てやろう」


「今からか」


ラシードは息を吐き、部屋の方を指しました。


「待ってくれ、ソフィアの剣を持ってくる」


闇の姿が、一瞬、揺らぎます。

そして、次の瞬間には、一振りの剣を手にしていました。


「写しの方は、木剣でよい」


「では、俺も抜かない」


ラシードがそう言うと、写しはラシードを見ました。


「それでも、私の七割程度の力で十分です」


その一言に、ラシードは黙って鞘から剣を抜いた。


写しと、ラシードが、向き合う。

夜の中庭に、張り詰めた空気が満ちた。


先に動いたのは、どちらからともなくだった。

二つの影が同時に踏み込み、凄まじい一撃が、正面からぶつかり合う。


金属の音が、幾度も夜気を裂いた。


攻防は、何度も繰り返された。

写しの剣筋は、最初から最後まで淀みなく走る。

ラシードの息が上がり始めても、写しの太刀筋は、最初と変わらぬ速さと正確さを保っていた。


そして、その隙を、写しは捉えた。


一瞬の踏み込みから放たれた一撃が、ラシードの横腹を捉える。


「が……っ」


ラシードの体が、大きく吹き飛ばされた。


地面に崩れ落ちたラシードは、そのまま意識を失った。

写しは、木剣を下ろし、ラシードを見下ろす。


闇は、小さく笑いました。


「まあ、こんなものか」


写しが、闇の方を振り返ります。


「闇様、帰りましょう」


「そうだな」


そう言い残すと、闇の姿は、夜の中へ溶けるように消えていきます。

写しもまた、役目を終えたように、崩れ、元の人形へと戻っていきました。


中庭に残されたのは、気を失ったまま倒れているラシードだけでした。


――どれくらいの時間が経っただろうか。


夜明けの冷たい風に吹かれ、ラシードはゆっくりと目を開けました。

酷い痛みのある横腹を押さえながら身を起こすと、しばらくその場に座り込んだまま、荒い息を整えます。

その後、痛みを堪えながら自力でアステルの元へ向かい、治療を頼みました。

傷自体は魔法ですぐに治ったものの、あの写しが放った完璧な一撃の感触だけは、体に深く焼き付いていました。


「……疲れた」


呟いた声は、けれど、どこか満ち足りていました。


その夜、部屋へ戻ったラシードを、リリアが出迎えました。


「お帰りなさい」


「ああ」


「今日も、遅かったのですね」


リリアの声には、隠しきれない、わずかな不安が滲んでいました。

ラシードは、その揺れに気づき、彼女を見ます。


「リリア」


「はい」


「側室なんぞ、取らん」


リリアは、目を丸くしました。


「聞いていたのを知っている」


「……」


リリアは、恥ずかしそうに視線を落とします。

ラシードは、彼女を引き寄せました。


「俺が欲しいのは、リリアだけだ」


その一言に、リリアの頬が、やわらかく染まりました。


「……はい」


小さな返事が、静かな部屋に落ちます。

窓の外では、修行を終えたばかりの疲れも忘れさせるほど、穏やかな夜が更けていました。


挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。