第四話 リリアの目覚め
窓から差し込む柔らかな朝の光の中で、リリアは目を覚ましました。
瞼の裏に、淡い光が滲んでいます。
遠くから届くその光は、白い薄布を通したようにやわらかく、部屋の静けさの中でゆっくりと揺れていました。
最初に感じたのは、胸の奥まで届く呼吸でした。
息が、苦しくありませんでした。
吸い込んだ空気が、喉を通り、胸の奥へ落ちていきます。
それはあまりにも当たり前のことのはずなのに、リリアには、長い夜の果てに初めて触れた朝のように感じられました。
体の奥に沈んでいた鉛のような重さも、嘘のように薄れていました。
リリアは、何度か瞬きをしました。
私は……。
まだ夢の続きを見ているのかもしれない。
そう思うほど、世界は静かで、穏やかでした。
すぐそばに、ラシードがいます。
リリアを抱きかかえるようにして、横で眠っていました。
頬の近くにある彼の呼吸は、少しだけ乱れています。
眠っているはずなのに、その腕には、離すまいとする力が残っていました。
起こしてはいけないと思い、リリアは少しだけ身じろぎした。
けれど、その気配で、ラシードの瞼が震えました。
「……リリア」
掠れた声でした。
ラシードは、信じられないものを見るようにリリアを見つめました。
そして、もう一度、その名を呼びます。
「リリア……良かった……」
リリアは、まだ夢の中にいるような心地で、ラシードを見上げました。
「私……どうなったのでしょう」
ラシードは、震える腕でリリアを抱き寄せました。
壊れものに触れるような、痛いほど静かで、慈しみに満ちた抱擁でした。
「その話は、あとだ」
耳元で落ちた声は、低く、深く震えていました。
「今は……こうしていさせてくれ」
リリアは、その腕の中で目を閉じました。
ラシードの手は、何度もリリアの背を確かめるように撫でます。
そこにある温もりを、呼吸を、鼓動を、一つずつ確かめるようでした。
リリアは、生き返りました。
けれど、痩せ細った体は、まだひどく弱っていました。
ラシードもそれを分かっているのか、強く抱きしめたい衝動を押し殺すように、ただ大切に、大切に腕の中へ閉じ込めていました。
そのときでした。
きゅう、と小さな音がしました。
リリアのお腹が鳴ったのです。
リリアは、はっとして顔を赤くしました。
ラシードは一瞬だけ目を見開きました。
それから、泣きそうな顔のまま、小さく笑います。
「……そうか」
その声は、先ほどよりも少しだけ柔らかくなっていました。
「良かった」
リリアは恥ずかしそうに視線を落としました。
ラシードは、リリアを腕に抱いたまま、扉のほうへ声を向けます。
「朝食を持ってこさせよう。消化にいいものを、少しずつだ」
リリアは、小さく頷きました。
その日から、リリアの回復の日々が始まりました。
起き上がること。
水を飲むこと。
匙を持つこと。
部屋の中を数歩歩くこと。
失われていた日常を、リリアは一つずつ取り戻していくことになりました。
リリアが目を覚ましたその朝、王宮の一室では、黒い結晶についての打ち合わせが行われていました。
リリアの命は戻りましたが、世界にはまだ問題が残されていました。
黒い結晶は、今もどこかに残っているはずですが、巧妙に隠されているのか、捜索は空振りが続いていました。
魔物の気配も、いつの間にか消えて、一見、平穏が戻ったようにも見えました。
けれど、誰もが、問題はまだ残っていると感じていました。
そして何より、魔王をどう再び封じるのかという課題が、まだ残されていました。
リリアが命を取り戻した今だからこそ、今度はその命を守り続けるために、動かなければならなかったのです。
蒼月は、打ち合わせを終えて中庭で空を眺めていました。
そのとき、中庭へセシリアが駆け込んできました。
「蒼月様……!」
息を弾ませたまま、セシリアは蒼月を見ました。
「リリア様が……目を覚まされました」
知っていました。
リリアの魂が、揺れたことを。
細く消えかけていた灯が、もう一度、確かな光を宿したことを。
魂は、まだ繋がっていました。
だから蒼月には、誰よりも先に分かっていたのです。
本当なら、すぐにでも駆け出したかった。
リリアのそばへ行き、その瞳を見て、声を聞いて、確かめたかった。
けれど、蒼月は我慢しました。
今、あの部屋にはラシードがいる。
長い夜の果てに、ようやく取り戻した時間がある。
そこへ、自分が真っ先に踏み込むべきではない。
そう思ったからでした。
蒼月は、胸の奥に込み上げたものを、長く息を吐いてのみ込みました。
すぐにでも駆け出したい思いを抑え、セシリアへ頷きます。
「……そうか」
リリアの笑顔が脳裏に浮かび、蒼月の胸の奥が熱くなりました。
「良かった」
中庭を渡る風が、蒼月の白銀の髪を揺らしました。
蒼月は、リリアのいる部屋へ顔を向けます。
長い夜の果てに、失われたはずの朝が、ようやく戻ってきたのでした。
しばらくして、蒼月はリリアとラシードのもとを訪れました。
「……リリア、おはよう。おかえり」
「蒼月、おはよう。ただいま」
蒼月は、寝台の傍らへ腰を下ろしました。
蒼月はリリアの手を両手で包みます。
重ねた手の上に、蒼月の涙が落ちました。
「蒼月……」
「リリア、本当によかった」
そうしてしばらく蒼月はリリアの手を包んでいました。
「リリア、横になって。体力の助けになる言霊を唱えよう」
戻ったばかりの魂が体に馴染んだのを確認すると、蒼月は片方の手でリリアの手を包んだまま、もう片方をリリアの胸に当て、言霊を唱えました。
「大地の理よ。細き命脈をたどり、失われた温もりを巡らせよ。この身に今ひとときの力を返せ」
蒼月の手から淡い光が広がり、リリアの胸へ吸い込まれていきました。
光が全身を巡るにつれ、失われていた体力が少しずつ戻っていきます。
「あとは、よく食べて、よく寝れば大丈夫」
蒼月は、その後もリリアの手を握り続けました。
戻ってきた命の温もりを、その手で確かめているようでした。




