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銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお
第二部 第一章 柱

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第三話 ディグラードの記憶

挿絵(By みてみん)


――蒼月が、闇へ堕ちかけていたころ。


その瞬間、世界のどこかで、大気が震えました。


ディグラードとシェザールは、何もかもが消え去った震源地から、少し離れた場所に降り立っていました。

足元には、焼け焦げた大地が、どこまでも広がっています。


地上から、浄化の娘の魂が消えた気配がしました。

その異変を感じ取り、二人は何が起きたのかを確かめに来ていたのです。


ディグラードは、シェザールを守るように、結界を張りました。


「……なんだ、この惨状は」


呟いた声が、乾いた風にかき消されていきます。

ディグラードは、荒れ果てた景色を見渡しました。


私と、似ている。


そう思った瞬間、視界の奥に、揺らめく銀の光を見た気がしました。


あの者は、なんだ。


蒼月の姿を見た瞬間、ディグラードの記憶の奥深くで、何かが軋みました。


見たことがある。


その感覚が、頭の奥を鋭く刺しました。

ディグラードは、思わず頭を抱え、その場に膝をつきます。


「魔王様……!」


シェザールが、慌てて駆け寄りました。


「思い出しては、駄目です」


けれど、その声は届きませんでした。


ディグラードの奥底で、堰き止められていた記憶が、次々と溢れ出していきます。


――理、大地。

――世界。

――アルヴァン。

――ソフィア。

――旅した日々。

――失った、すべて。


やがて、ディグラードがゆっくりと顔を上げた時、その頬には、涙が伝っていました。


「……全て、思い出した」


震える声で、ディグラードはそう言いました。


「そうか。私は、堕ちてしまったのか」


その言葉に、シェザールの表情が、悲しげに歪みました。


「では……行ってしまわれるのですか」


シェザールの声は、かすかに震えていました。

かつてこの人が、すべてを失って堕ちたように。

今度は、記憶を取り戻したことで、自分の前からいなくなってしまうのではないか。

その恐れが、声ににじんでいました。


ディグラードは、怯えるシェザールを安心させるように、ふと優しく笑いました。


「お前を、置いていくわけがないだろう」


そう言って、シェザールを抱き寄せました。

確かに、ソフィアを愛していた。

けれど、何もかもを失った自分を支えてくれたのは、シェザールでした。

シェザールの肩が、かすかに震えます。

それは、安堵の震えでした。


ディグラードは、シェザールを抱いたまま、遠くに見える光景へ、視線を向けました。


五柱が揃い、何かを行っている。

その気配だけが、遠くから伝わってきます。


一柱が完全に堕ちれば、この世界は多くを失い、理の根幹までも崩れることになる。

眷属から抜け、独立した悪神となっても、アルヴァンの神堕ちの衝撃に耐えられるかは分からない。


闇に堕ちた眷属は、主との繋がりを失い、闇の力を吸い上げることで、独立した悪神となる。

それが、この身に起きたことだった。


「私は、悪神となってしまったのだな」


呟くように、ディグラードは言いました。

そのまま、自分の内側に戻った記憶を確かめるように、低く続けます。


「……魔王も、そうだった。もともとは、光の柱の眷属だったのだ」


シェザールが、顔を上げました。


「そう、なのですね」


シェザールは、目を伏せました。


「知りませんでした。だから、あなたと元魔王様は、あれほどまでに桁違いの魔力を持っていたのですね」


「まあ、魔王という名は、人や魔物が勝手に決めた呼び名だがな」


ディグラードは、続けました。


「闇に染まり、地上を侵そうと考えたのだろう。闇が深ければ深いほど、憎しみは増していく」


その言葉には、他人事とは思えない響きがありました。


ディグラードは、五柱の様子を見つめていました。


――恐らく、あの柱達は浄化の娘を助けたのだろう。アルヴァンが、堕ちてしまわぬように。


その真実に触れたシェザールは、ディグラードの横顔を見つめ、胸の奥で決めました。


もう、この人を「魔王」とは呼ばない。


失われた名でも、かつて眷属であった頃の名でもない。

俺がつけた名で、この人を呼ぶのだと。


「ディグラード様」


シェザールが、尋ねました。


「では、これから、どうなさるのですか」


ディグラードは、シェザールを抱く腕に力を込めました。


「自ら闇に堕ちた身だ。あの悪意に染まりきった魔王でも――復活させてみせよう」


その声には、迷いがありませんでした。

シェザールは、小さく息を吐きました。


「記憶が戻っても、お考えは、変わらないのですね」


「ああ」


ディグラードは、頷きました。


「あの柱達が揃っている限り、世界をどうこうすることはできぬだろうが」


その口元に、薄く、昏い笑みが浮かびました。


「嫌がらせくらいは、できるだろうさ」


それから、二人は魔王が封じられている城へたどり着きました。


人の住む地から遠く離れた荒野に沈むその城は、千年の時を経てもなお、ソフィアの結界に包まれていました。

白銀の光は衰えることなく城を覆い、中心に刻まれた封印の陣も、煌々と輝き続けていました。


ディグラードは、その光の前に立ちました。

そして、結界に手を触れました。


「ソフィア、すまぬな」


淡い光が、指先に触れて震えました。

それは拒絶ではなく、千年前の願いを、今も守り続ける祈りのようでした。


「お前の努力を、私が無にしようとするとはな……」


その声には、わずかな悔恨が滲んでいました。

けれど次の瞬間、ディグラードの身体を、黒い気が包み込みました。

闇は煙のように立ちのぼり、肩を、背を、腕を這うように覆っていきます。

シェザールが息を呑みました。

そこにいたのは、先ほどまで記憶を取り戻し、涙を流していたディグラードではありませんでした。

深い闇に心を侵され、憎しみを剥き出しにした悪神でした。


「ソフィア」


ディグラードの声が、低く沈みました。


「私がお前を好いていたことも、知っていたのだろう」


黒い気が、さらに濃くなっていきます。

シェザールは、何も言えませんでした。

ディグラードの中で、封じ込められていた悲しみが、闇に呑まれて怒りへ変わっていくのが分かりました。


「ソフィア。大地と私に、名を与えた女」


その声に、黒い熱が滲みました。


「アルヴァンと愛し合っていたのは、まだ許せた」


ディグラードの指先が、白銀の結界に食い込みました。


「私の大地だから、アルヴァンなら許せた」


結界が、きし、と細い音を立てました。


「だが、お前はアルヴァンがいなくなるとすぐに、私ではなく人を選び、子を成す人生を選んだ」


ディグラードの瞳が、深い闇を帯びました。


「お前が死んだと分かった時の、私の絶望を思い知るがいい」


その声は、もはや嘆きではありませんでした。

千年を越えて腐らず残り続けた悲しみが、黒い憎しみに変わった声でした。


「許さぬ」


その言葉が落ちた瞬間、ソフィアの結界が、ぱりん、と澄んだ音を立てて砕け散りました。

千年もの間、魔王を封じ続けていた白銀の光が、細かな破片となって宙へ舞います。

シェザールは、その光景をただ見つめていました。

ソフィアの祈りが、ディグラードの闇に食い破られていく。

けれど、封印の陣だけは、なお強く輝いていました。

城の奥から、低く重い鼓動のような魔力が響いてきます。


「封印は強力だな」


ディグラードは、砕けた結界の向こうを見据えながら、言いました。


「少々、時間がかかりそうだ」


その声は、また落ち着きを取り戻していました。

けれど、まとわりつく闇は消えていません。

むしろ、結界の光を砕いたことで、さらに濃く、深くなっていました。

ディグラードは、ゆっくりと振り返りました。

黒い瞳が、シェザールを捉えます。


「シェザール、来い」


シェザールは、一瞬だけ息を止めました。

それでも、逆らうことなく、ディグラードのもとへ歩み寄ります。


ディグラードは、その身体を強く抱き寄せました。

逃がさぬように、そこにいることを確かめるように、闇ごと縋りつく力が腕にこもっていました。


「……ディグラード様」


名を呼ぶ声が、結界の残光の中でかすかに震えました。


ディグラードは、シェザールの頬に触れました。

その指先は冷たく、けれど奥には、失ったものを取り戻そうとする熱がありました。

シェザールはその手に自分の手を重ね、目を伏せます。


次の瞬間、ディグラードはシェザールへ唇を重ねました。

荒々しく、それでいて失うことを恐れるような口づけでした。


シェザールは震える腕をその背へ回し、深い闇ごと受け止めるように身を寄せました。

失った柱でも、魔王と呼ばれた闇でもない。

今ここにいるディグラードが、自分を求めていることだけは分かりました。


その夜、シェザールは、いつもの優しさとは違う彼の激しさを受け止めました。

何度もその名を呼びながら、胸の奥で一つだけ強く願います。


今度こそ、この人をひとりで堕とさない。


やがて、ディグラードはゆっくりとシェザールから身を離しました。


黒い瞳に、冷えた理性が戻っていきます。


シェザールは乱れた白髪を指先で払いながら、その横顔を見つめました。


先ほどまで自分を求めていたディグラードは、もう悪神として封印の前に立とうとしていました。

甘さも、切なさも、すべて胸の奥へ沈めるように、城の奥へ視線を向けます。


ソフィアが千年守り続けた封印の陣は、まだ強く輝いていました。

白銀の陣は、魔王の眠る城の中心で、今なお祈りの光を放ち続けています。


「解けそうですか」


シェザールが尋ねます。


「時間はかかる。封印の陣そのものを崩す」


ディグラードは封印の陣へ向き直りました。


黒い気が、再びその身体を包みます。


ディグラードは封印の陣へ手を置き、黒い魔力を流し込みました。

低い軋みとともに、陣を満たしていた白銀の光が大きく揺らぎます。


ソフィアが千年もの間、守り続けてきた祈りは、今も封印の中に息づいていました。

その白銀の光へ食い込むように、ディグラードの闇が外側から封印を削り始めます。


「さすが、ソフィアだな」


ディグラードは、笑いました。


「だが、必ず封印を解く」


その言葉とともに、ディグラードの姿は封印の奥へ呑み込まれていきました。


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