第二話 なかったこと
それから、リリアが息を吹き返したという報せは、王宮中へささやきのように、けれど瞬く間に広がっていきました。
誰もが、奇跡だと喜びました。
涙をこぼす者。
胸の前で手を組み、神へ祈りを捧げる者。
リリアの名を呼びながら、その命が戻ったことを震える声で讃える者もいました。
その中で、誰かが言いました。
蒼月様が、なさったのでしょう、と。
「違う」
蒼月は、はっきりとそう言った。
声は低く抑えられていました。
けれど、喜びに浮き立っていた空気を一瞬で鎮めるほど、揺るぎない響きを持っていました。
「私ではない」
その場にいた者たちは口を閉ざしました。
もしも蒼月がリリアを蘇らせたのだと広まれば、命を失った者を抱える人々が、必ず彼のもとへ殺到するでしょう。
失った命を返してほしいと願う者たちが、奇跡に縋り、際限なく集まってくる。
やがてそれは、悲しみの奔流となって蒼月へ押し寄せるはずでした。
だから蒼月は、自分が起こした奇跡だという噂を、ここで断ち切りました。
その後、アレクシス王とラシード、アステルだけが、静かな一室へ集められました。
扉は固く閉ざされ、外の歓喜は厚い壁の向こうへ遠ざかります。
王宮は今も、リリアの生還を喜ぶ人々の声に満ちているはずでした。
その一室には、重い緊張だけが満ちていました。
沈黙が、床へ沈むように広がっています。
蒼月は、三人を見ました。
「これは、人に言うものではない」
低い声でした。
「ただ、おまえたちには言わなければならない」
アレクシス王も、ラシードも、アステルも、黙って蒼月の言葉を待った。
蒼月の瞳には、先ほどまでの出来事の影が、まだ色濃く残っていました。
怒りも、悲しみも、悔恨も、その奥で一つに沈んでいるようでした。
すべてを越えた場所から戻ってきた者だけが持つ、静かな疲弊がありました。
「まず、理の話からだ。理は世界だ。この世界を作る根幹といっていい」
蒼月は、ゆっくりと言葉を継ぎます。
「そして、私たちは、理から生まれた者だ。世界そのものが形を与えた存在、と言えばいい」
三人は、黙って聞いていました。
「五柱。光、闇、命、空、大地。そのうち、私は大地を司っている」
部屋の空気が、冷えました。
人が口にする神の名とは、違うもの。
祈り、祭り、信仰の中にある神よりも、さらに世界の根に近い存在。
その言葉の重みを、三人は息を殺して受け止めていました。
「五柱の下には、眷属がいる。眷属は、五柱それぞれが選び、力を与えた配下だ」
蒼月の声は、淡々としていました。
「さらにその下には、人々が信仰する神がいる。……人の神については、私はよく知らんがな」
最後の一言にだけ、蒼月らしい軽さが混じります。
すぐに、その表情は再び静かなものへ戻りました。
「五柱は、普段は宮にいる。世界に何か問題が起これば、眷属が対応していた」
「眷属は、柱に代わって地上で活動する。その中で、人々から神と崇められ、神話に名を残している者もいる」
蒼月は、一度、目を伏せました。
「だから眷属は、まれに闇に堕ちる」
その言葉に、アステルの指先が動いた。
やがて、その手を静かに握りしめます。
「柱や眷属も、私のように人と関わりすぎて感情を持ってしまい、その悲しみに呑まれると、堕ちる」
蒼月の声が、そこで少しだけ低くなりました。
「柱や眷属が闇に堕ちる時、その力の大きさによって、破壊が生まれる」
アレクシス王が、息を呑んだ。
ラシードは、先ほどの光景を思い出していました。
世界から音が消えた瞬間。
光も、熱も、空気さえも遠ざかり、すべてが崩れていくような感覚。
リリアの命が消えた瞬間、蒼月の中で何かが壊れたことを、ラシードは確かに見ていました。
「私は、リリアが死んで、この世界など意味が無いと思ってしまった。そして、闇へ堕ちる寸前まで至った」
その一言は、あまりにも静かでした。
静かすぎて、かえって胸を裂きました。
「私は五柱の一柱だ。私が完全に堕ちていれば、世界は五分の一と、その理を失うことになっていた」
三人は、その言葉の重さを受け止めるまで、蒼月を見つめ続けました。
目の前にいる蒼月は、ただリリアを守ろうとした銀狼でありながら、世界の根に繋がる存在でもある。
そして、その蒼月が壊れかけた時、世界そのものもまた、壊れかけた。
「あの瞬間、まず私の周りから――この地を中心に、周辺の国々までが、消えた」
部屋の空気が、さらに重く沈みました。
小さな衣擦れの音が響く。
それさえ、その場にいた全員の耳に届くほど、沈黙は深かったのです。
「では、今いる私たちは……」
アステルが、かすれる声で尋ねました。
ラシードは、拳を握りしめています。
「それを見かねた柱たちが、下りてきた」
蒼月は言いました。
「リリアの命を助け、私が完全に堕ちる、その一歩手前で、止めてくれた」
感謝の奥に、悔しさにも似た苦しさが滲んでいました。
自らを見失い、四柱の力によって引き戻された。
その事実を、蒼月は誰よりも深く受け止めていました。
「そのあと、時間を戻した」
三人は、息をすることさえ忘れたように、蒼月を見つめました。
「何もなかったことにした」
蒼月の声は、淡々としていました。
けれど、その静けさの奥には、押し殺した重さがありました。
起きたことは、理に刻まれている。
世界は一度壊れかけた。
リリアは、一度死んだ。
そして私は、一度、堕ちる寸前まで行った。
それを、戻した。
理を犯してまで。
蒼月は、自分の言葉を、自分の中で、もう一度確かめるように反芻していました。
窓の外では、王宮の灯が温かく揺れています。
人々はリリアの生還を奇跡と呼び、涙を流し、抱き合い、安堵している。
その喜びは本物でした。
救われた命も、戻った時間も、確かにここにあります。
その裏側には、蒼月だけが知る代償がありました。
理を犯した代償は、いずれ自分たち五柱へ返ってくる。
それがどんな形で降りかかるのか。
その形は、まだ霧の向こうにありました。
ただ一つ、確かなことがあります。
これは、無償で許されたわけではないということ。
命の者が、渋々ながらも力を貸してくれたのは、罰を覚悟の上でのことでした。
そして、その罰の重さの一端は、蒼月自身にも及ぶでしょう。
それでも、蒼月の答えは決まっていました。
たとえ、この先どんな代償を払うことになっても。
リリアが、今こうして息をしていることの方が、蒼月にとっては、何よりも重かったのです。
蒼月は、リリアの命を思っていました。
世界を失いかけてなお、守り抜きたいと願った、その命を。
このぬくもりを守るためなら、と蒼月は思いました。
自分は、何度でも、同じ選択をするだろう。
その夜、蒼月はリリアの寝室にいました。
寝台の上で、リリアは眠っています。
細い呼吸が、確かに繰り返されていました。
その手首では、小さな星の貝殻が、灯りを受けて揺れています。
蒼月は、その呼吸をしばらく見つめていました。
それから、銀狼の姿に戻り、寝台のそばへ身を横たえます。
初めて出会った、あの森の夜と同じように。
リリアの呼吸に、自分の呼吸を重ねながら、蒼月は目を閉じました。
朝は、もうすぐそこまで来ていました。




