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銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお
第二部 第一章 柱

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第一話 五柱揃う

挿絵(By みてみん)


天空の霊廟は、王城のもっとも高い場所にありました。


高貴な者が亡くなった時、葬儀の日まで、その身を安置するための場所です。


白い石で造られた霊廟の中は、音がありませんでした。

祈りのために灯された青白い火だけが、壁際で揺れています。

窓は細く高く、差し込む光は冷たく、祭壇の上だけを淡く照らしていました。


その祭壇に、リリアが横たわっていました。


命も、魂の光も、すべて使い果たしたように。


金の髪は白い布の上に広がり、瞼は閉じられ、唇には、もう血の色がありませんでした。


蒼月は、祭壇のそばに立っていました。


銀の髪も、蒼い瞳も、何もかもが凍りついたように動きませんでした。

ただ、その指先だけが、ゆっくりとリリアの頬へ伸びました。


冷たい。


触れた瞬間、その冷たさが、蒼月の胸の奥まで染み込んできました。


何度も名前を呼んだ唇。

自分を蒼月と呼んだ声。

笑うたびに、世界の色を変えてしまうほどやわらかかったリリアの面影。


そのすべてが、今は閉ざされていました。


覚悟はしていたはずでした。

何度も自らに言い聞かせました。

すべては自ら招いてしまったことなのだと……。


蒼月は、リリアの冷たい唇に指を触れました。


「リリアのいない世界など、意味がない」


声は、霊廟の中に低く落ちました。


その瞬間、蒼月の中で、何かが音を立てて切れました。


世界の理。

命の流れ。

魂の重さ。

死という、誰にも抗えないはずのもの。


そんなものに、何の意味があるのか。


リリアを奪う理など、守る価値があるのか。


リリアがいない世界を続けるために、自分は何を守ってきたのか。


胸の奥で、「どくんっ」、と破裂するような音がしました。


蒼月の体が、大きく震えました。


「……っ」


心臓を鷲掴みにされたような痛みが、胸の奥から全身へ走りました。

呼吸が潰れ、膝が崩れます。

前かがみに倒れ込んだ蒼月の喉から、獣の呻きとも、神の慟哭ともつかない声が漏れました。


「ぐ、あ……っ」


銀の髪が揺れました。

その下から、銀色の耳が現れます。

背の奥が裂けるように熱を持ち、銀の尾がゆっくりと形を取り戻していきました。


人の形が、保てなくなっていました。


霊廟の空気が震えます。


突風が起こりました。

祭壇を囲んでいた白い布が激しく舞い上がり、青白い火が横へなびきます。

蒼月を中心に、魔力が渦を巻きました。


床に走った光が、稲妻のように砕けます。

壁が軋み、天井に細い亀裂が入りました。


あふれ出した魔力は、銀色ではありませんでした。


赤黒く、冷たく、触れたものをすべて拒絶するような、絶望の色を帯びていました。


その異変に気づいたラシードが、霊廟へ駆け込んできました。


「蒼月」


その声が、遠くから聞こえました。


蒼月の視界の端に、ラシードの姿が映りました。


ラシードは一瞬、動きを止めました。

けれどすぐに、祭壇の上のリリアへ視線を向けます。


リリアを傷つけてはいけない。


その思いだけが、蒼月の中に残っていました。


胸を押さえ、息もできないほどの痛みに耐えながら、蒼月は最後の白銀の力を振り絞りました。


「……リリア……」


震える手を、祭壇へ向けます。


薄い光が、リリアの体を包みました。

それは、荒れ狂う魔力の中でかろうじて形を保つ、小さな結界でした。


蒼月は、苦しげにラシードを見ました。


「ラ、ラシード……すまぬ」


「何を……」


ラシードは言いかけて、歯を食いしばりました。


今は問う時ではありませんでした。


ラシードは祭壇へ駆け寄り、リリアのそばに膝をつきました。

その体を守るように抱き寄せ、結界の内側へ身を寄せます。


次の瞬間、すべてが消えました。


霊廟も。

塔も。

王城も。

街も。


音も、光も、空も、すべてが失われました。


残ったのは、燃える地面だけでした。


「なっ……」


ラシードの声が、かすれて落ちました。


足元では、黒い大地が赤く焼けています。

空はなく、ただ濁った闇が頭上に広がっていました。

遠くも近くも分からない場所で、炎だけが揺れています。


その中心に、蒼月がいました。


銀色だった耳も、尾も、髪も、少しずつ黒く染まっていきます。

銀の毛並みはまず灰色へ沈み、それからゆっくりと黒へ侵されていきました。

白銀の神聖な気配は、赤黒い絶望に侵され、体の輪郭さえ歪み始めていました。


このままでは。


ラシードは、リリアを抱く腕に力を込めました。


その時でした。


炎の揺らぎが止まりました。


舞い上がっていた塵も、砕けた光の欠片も、空中で動きを止めます。

音が消えました。

熱ささえ、途中で切り取られたように薄れていきます。


結界の内側と蒼月だけを残し、周囲のすべてが時を止めていました。


その静止した世界に、四つの影が現れました。


ひとつは、どこまでも澄んだ空のように透き通った光を。

ひとつは、すべてを照らす眩い白光を。

ひとつは、星一つない深い闇を衣のように纏い。

ひとつは、脈打つような、あたたかく紅い命の光を掌に宿していました。


ラシードには、それが何者なのか分かりませんでした。


声が聞こえます。

けれど、その言葉はラシードの知るどの国の言葉でもありませんでした。

古代語に似ているようで、もっと古く、もっと遠いもののように聞こえました。


意味は分かりません。


けれど、蒼月には届いていました。


「……あー、だから言わんこっちゃない」


空をまとった者が、頭を掻くような仕草をしました。


「三千年ぶりですね。皆がそろうのは」


光をまとった者が、言いました。


「そうだな」


闇をまとった者が、低く応じます。


「できれば、こんなことで揃いたくは無かったがな」


空をまとった者は、燃える大地へ視線を落としました。


「このまますべて黒く染まれば、世界と理が大きく欠けてしまう」


光をまとった者が、困ったようにため息をつきました。


「理に私たちまで咎められてしまいます」


闇をまとった者が、低く問いかけます。


「どうするのじゃ」


命の気配を宿した者が、蒼月を見下ろしました。


「どうするもこうするも、このままではこいつは堕ちてしまう」


空の者が、止まった空を見上げました。


「理は現れないか?」


闇の者が、鼻で笑いました。


「今は別の世界にかまけているのかもしれぬな」


光の者が、小さく首を傾げました。


「ばれないうちに収めれば、怒られないでしょうか」


「絶対気づかれるだろう」


空の者が即座に言いました。


「でも、何もしなかったらもっと怒られそうだ」


命の者は、蒼月の前に立ちました。


黒く染まりかけた蒼月は、膝をついたまま、リリアだけを見ていました。

半分以上が黒に侵されても、その蒼い瞳だけは、涙に濡れていました。


命の者が、口を開きました。


「おい、大地の」


蒼月の耳が、動きました。


「おまえは、この娘が寿命を全うできればいいのか」


蒼月は、答えられませんでした。


ただ、涙が一筋、黒く染まりかけた頬を伝いました。


命の者は、続けました。


「それ以上は無理だぞ」


蒼月の喉が、かすかに震えました。


声にならない声でした。


それでも、答えは明らかでした。


リリアが生きるなら。

リリアが、本来歩むはずだった時間を生きられるなら。


それだけでいい。


命の者は、深く息を吐きました。


「仕方ないの」


闇の者が、眉を上げました。


「やるのか」


「本来、これは無しだぞ」


命の者は不満げに言いました。


「私が怒られる」


光の者が、少しだけ目を逸らしました。


「理に知られたら、間違いなく怒られますね」


「理にばれたら、大地のおまえが罰を受けろ」


命の者は、蒼月を指さしました。


「それに、いいものを持っているではないか」


蒼月は、反応できませんでした。


命の者は、蒼月の胸元へ手を伸ばしました。


「その胸の魔石をよこせ」


蒼月が拒むより早く、命の者は強引に魔石を取り上げました。


それは、ソフィアが残した意思と魔力を宿す魔石でした。


命の者がそれを掌にのせると、魔石が炎のように燃え上がりました。


あたたかな金と白の光が重なり、炎の中で、小さな魂の形をかたどっていきます。


ラシードは、何が起きているのか分からないまま、リリアを抱きしめていました。


けれど、その光がリリアへ向かっていることだけは分かりました。


命の者は、ラシードの腕の中にいるリリアへ近づきました。

そして、燃える魔石を、リリアの胸の上に置きました。


光が、リリアの胸へ沈んでいきます。


一瞬、世界のすべてが静まりました。


次の瞬間。


リリアの胸が、かすかに上下しました。


ラシードの目が、大きく見開かれました。


「リリア……?」


もう一度。


細く、弱く、それでも確かに、リリアは息をしました。


「ほら、戻ったぞ」


命の者が、軽く言いました。


「あとは、大地の。自分でなんとかしろ」


蒼月の体は、ほとんど黒く染まっていました。


けれど、リリアの胸が動いたのを見た瞬間、蒼月の瞳に、強い光が戻りました。


「……リリア」


かすれた声が、落ちました。


その声は、涙に濡れていました。


「リリア……っ」


蒼月は、呻くように叫びました。


黒く染まった体の奥で、残っていた白銀の光が震えます。

それは消えかけの火のように小さなものでした。

けれど、リリアの息に応えるように、少しずつ広がっていきました。


黒に覆われていた耳が、白銀を取り戻します。

尾の先に、淡い光が戻ります。

頬を伝う涙の跡から、闇が剥がれるように薄れていきました。


蒼月は、リリアを見つめたまま、何度も息を震わせました。


「ありがとう……」


声にならないほど小さな声でした。


「ありがとう……ありがとう……」


命の者は、そっぽを向きました。


「理に罰を受けないためだ」


空の者が、ぼそりと言いました。


「罰は受けるんじゃないか?」


命の者は、少し黙りました。


「……罰の程度を軽くするためだ」


光の者が苦笑し、闇の者が小さく肩を揺らしました。


四柱は、それ以上何も言いませんでした。


ただ、全員が手を上げました。


光が、止まった世界を満たしました。


燃える地面も。

黒い空も。

止まった炎も。

舞ったままの塵も。


すべてが白くほどけていきます。


ラシードは、リリアを抱きしめたまま、その光の中で目を閉じました。


次に目を開けた時、そこは元の霊廟でした。


白い石の壁。

青白い火。

冷たい祭壇。

高い窓から差し込む、薄い光。


すべてが戻っていました。


けれど、ひとつだけ違っていました。


ラシードの腕の中で、リリアが息をしていました。


弱く、かすかに。

けれど、確かに。


蒼月は祭壇のそばで、膝をついていました。


銀色の耳も、尾も、髪も、まだ震えています。

黒に染まりかけた名残は、薄い影のように体の端に残っていました。

けれどその蒼い瞳には、もう絶望だけはありませんでした。


蒼月は、リリアを見つめました。


震える手を伸ばし、結界の内側で眠るリリアの指先に、触れました。


温かい。


ほんのわずかに。

けれど、確かに。


リリアの指先には、温もりが戻っていました。


蒼月の目から、涙が落ちました。


ラシードは、リリアを抱いたまま、蒼月を見ました。


霊廟の中には、戻ってきた呼吸の音だけがありました。


ひとつ。


また、ひとつ。


失われたはずの時間が、再び、動き始めていました。


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