外伝:ソフィア編 第四話
ソフィアは、何の気なしに、その者へ尋ねました。
「名は、何とお呼びすれば……」
「大地と」
「大地? 呼びにくいですね。では、勝手ながら」
ソフィアは、以前に読んだ物語を思い出しました。
その物語には、アルヴァンという名の美しい青年が登場していました。
目の前の者を見上げると、その名が不思議なほど似合うように思えました。
「アルヴァン様と、お呼びしてもよろしいですか」
その呼び名を受け入れたのか、アルヴァンの表情からは読み取れませんでした。
けれど、呼び方を改めるようには言われませんでした。
それからソフィアは、その者をアルヴァンと呼ぶようになりました。
「それで、瘴気というのは何だ。話せ」
ソフィアは小さく息を吸い、姿勢を正しました。
「私のいる国で、瘴気の痕跡を見つけました。とてもかすかなものです。けれど、巧みに隠されていました」
「悪い予感がしたのです。だから、人に助けを求めました。けれど、誰も信じてくれませんでした」
「瘴気が発生している原因を、一緒に調べていただけませんか」
アルヴァンはソフィアを見下ろしました。
「そうだな。それは、私の管轄だ」
「お前は、その場所を案内できるのか」
「はい」
ソフィアはまっすぐに頷きました。
けれど、そのあとで眉を寄せました。
「それと、私はお前ではありません」
アルヴァンがソフィアへ目を向けます。
「ソフィア・アークライトという名前があります」
「ソフィアとお呼びください」
アルヴァンは、目の前の娘を見つめました。
「分かった。ソフィア」
初めて名前を呼ばれ、ソフィアの顔に笑みが浮かびました。
翌朝、ソフィアとアルヴァンは山を下りることになりました。
瘴気の気配がある場所を、ソフィアの案内で巡るためです。
宮の門を出ると、一人の武人らしき男が待っていました。
その男も整った容貌をしており、人ではない気配をまとっていました。
けれど、狼の耳と尾を持つアルヴァンよりは、人に近い姿をしています。
「大地様。大地様自らが行く必要はございません。私にお任せください」
「直接確かめたい。お前は留守を守れ」
「お心のままに」
ソフィアは二人のやり取りを見ながら、アルヴァンがこの宮を治める者なのだと理解しました。
最初に訪れたのは、ソフィアの故郷の森でした。
はじめて瘴気に気づいた、あの泉のある場所です。
一見すれば、何の変哲もない森でした。
木々は青々と茂り、鳥の声も絶えません。
アルヴァンは森を見渡しました。
「本当に、ここに瘴気があるのか」
ソフィアは迷わず、森の奥を指しました。
「はい。あの泉の底に」
「私が、いちばん最初に見つけた場所です」
アルヴァンは、ソフィアが示した泉へ視線を向けました。
理を統べるアルヴァンには、大地に生じたあらゆる歪みが見えるはずでした。
けれど、その泉からは何の異常も感じられませんでした。
「何もないように見えるが」
「隠されているのです」
ソフィアは確信を持って答えました。
「巧妙に、気づかれないように」
アルヴァンは泉のそばに膝をつき、水面へ指先を触れました。
そこから理の流れをたどっていきます。
表層には、何の異常もありません。
さらに深く、地脈の奥へ意識を向けました。
泉の底に、ごく小さな瘴気の種が埋め込まれていました。
理を統べる者の目からも逃れるほど、慎重に隠されています。
アルヴァンの目が、瘴気の種へ向けられました。
「……本当だったのか」
「信じて、いただけましたか」
ソフィアの声には、安堵が滲んでいました。
何年も、誰にも信じてもらえませんでした。
それでも諦めずに訴え続け、ようやく自分の言葉を信じてもらえたのです。
アルヴァンは泉の底へ意識を向け続けました。
これは、理の均衡が自然に正すような、単純な歪みではありません。
何者かの意志によって、意図的に埋め込まれたものでした。
「これを、誰が」
「分かりません。ですが、こうした種が、各地に隠されているように思います」
アルヴァンはソフィアを見ました。
ソフィアの目には、諦めの色はありませんでした。
「調べる」
その言葉を聞き、ソフィアの表情が緩みました。
「ありがとうございます」
「礼はいらない。これは、私の役目でもある」
大地を司る者として、この歪みを見逃していたことを、アルヴァンは看過できませんでした。
それから二人は、各地を巡りました。
ソフィアが感じ取る違和感を頼りに、山を越え、国境を渡り、遠い島国まで足を延ばしました。
そのたびに、同じような瘴気の種が見つかりました。
どれもごく小さく、理の流れへ紛れ込むように隠されていました。
ある夜、二人は森の中で野営をしていました。
焚き火の炎が揺れる向こうで、アルヴァンは地図に記された印を見つめていました。
「これは、いずれ何かの形を取る」
「形、とは」
「分からない。だが、これほど周到に隠すからには、いずれ意味を持つはずだ」
ソフィアは、焚き火の向こうに座るアルヴァンを見ました。
「アルヴァン様は、恐ろしいとは思わないのですか」
「理を統べる者に、恐れという感覚はない」
「そうですか」
ソフィアは笑いました。
旅を続けるうちに、ソフィアの浄化の力が、瘴気の種に反応することが分かりました。
彼女が手をかざすと、巧妙に隠された種が、その輪郭を現します。
アルヴァン一人では見つけられなかったものが、ソフィアと共にいることで、見えるようになっていきました。
「ソフィアがいなければ、これらを見つけることはできなかっただろう」
アルヴァンが告げると、ソフィアは目を見開きました。
「アルヴァン様に、そう言っていただけるとは思いませんでした」
「事実を言ったまでだ」
「それでも、嬉しいです」
ソフィアは笑みを浮かべました。
アルヴァンは、その表情の意味をまだ知りませんでした。
ただ、理の外側にあるはずの感情を、なぜか見過ごすことができませんでした。
瘴気の種を追い続け、幾つもの季節が過ぎました。
二人は確信していました。
各地へ埋め込まれた種は、遠くない未来に大きな災厄を引き起こします。
「これを止めるには、根を絶たなければならない」
アルヴァンが告げると、ソフィアは頷きました。
「はい。どこにあるとしても、私は最後まで、あなたと共に参ります」
その声に迷いはありませんでした。
アルヴァンは、理の流れだけを見てきました。
けれど、ソフィアは自らの意志で、この歪みに立ち向かおうとしていました。




