第百二話 失っていく時間
太陽の国での日々は、穏やかに過ぎていきました。
朝になると、薄い白布が海風を受けて揺れ、窓の向こうには、透き通った青い海が広がっていました。
リリアはラシードに手を引かれて砂浜を歩き、蒼月は少し離れた場所から、波の気配を聞くように海を見つめていました。
アステルは日差しと風の強さを確かめ、セシリアは羽織りや飲み物を用意し、リリアが無理をしないよう、いつもそばで見守っていました。
白い砂浜。
青い海。
夜の焚き火。
星の貝殻の腕輪。
胸元で揺れる、ラシードが贈ってくれた青い宝石。
それらは、リリアの中に、ひとつずつ大切な記憶として積もっていきました。
けれど、ひと月ほどが過ぎた頃から、リリアの体調に、少しずつ変化が現れました。
最初は、朝起きる時間が少し遅くなっただけでした。
昼過ぎに少し休めば、また笑って浜辺へ出ることができました。
だからリリア自身も、周りの者たちも、旅の疲れが出たのだと思おうとしました。
けれど、次の日には、起きていられる時間が少し短くなりました。
その次の日には、椅子に座っているだけでも息が浅くなりました。
さらにその次の日には、ベッドから起き上がることさえ、ひどく時間がかかるようになりました。
窓の外では、変わらず海が輝いていました。
白い布は風を受けて揺れ、波の音は昨日と同じように、穏やかに聞こえてきます。
それなのに、リリアの世界だけが、少しずつ小さくなっていきました。
砂浜まで歩いていた距離が、別荘の扉までになりました。
扉まで行けていた時間が、窓辺の椅子までになりました。
窓辺で海を眺めていた時間が、やがて、ベッドの上から白い布の揺れを見るだけの時間へと変わっていきました。
誰も、はっきりとは言いませんでした。
けれど、アステルの表情は日ごとに厳しくなり、セシリアが薬を用意する手は、以前よりも少しだけ早くなりました。
ラシードは何度もリリアの額に触れ、何もないような顔で笑おうとして、そのたびに目の奥だけが曇りました。
蒼月は、海辺に立つ時間が減りました。
代わりに、リリアの眠る部屋の近くにいることが増えました。
そして、ある朝。
リリアは目を覚ましても、すぐには体を起こすことができませんでした。
胸の奥が重く、指先に力が入りません。
息を吸うだけで、体のどこか深いところから、細い糸がほどけていくような感覚がありました。
ラシードは、リリアの手を握ったまま、しばらく何も言えませんでした。
アステルは診察を終えると、窓の外に広がる海へ一度だけ視線を向けました。
それから、低い声で告げました。
「王都へ戻りましょう」
その言葉に、部屋の空気が沈みました。
リリアは、薄い白布の向こうに見える海を見つめました。
ひと月前、初めて見た時には、どこまでも広く、どこまでも遠くへ続いているように見えた海です。
けれど今は、その青さが少しだけ遠く感じられました。
ラシードの手が、リリアの手を強く包みました。
蒼月はリリアから目を離さず、その姿を見つめていました。
その日のうちに、荷はまとめられました。
白い砂浜も、青い海も、夜に焚き火をした石囲いも、風に揺れる薄い布も、すべてがそのままそこにありました。
けれど、リリアたちは太陽の国を離れることになりました。
そうして、王都へ戻りました。
リリアは、徐々に起きていられる時間が短くなっていきました。
朝、目を開けても、すぐにまた眠りに落ちてしまう日が増えました。
起きていても、言葉を交わすだけで疲れてしまう日もありました。
それから、食事の量も少しずつ減っていきました。
スプーン一杯の粥さえ、飲み込むだけで疲れてしまう日があります。
水を含むことさえ、時には難しくなっていきました。
セシリアが差し出す匙を、リリアは何度も、申し訳なさそうに見つめました。
「ごめんなさい……せっかく、作ってくれたのに」
「謝らないでください、リリア様」
セシリアは、首を振りました。
「無理をなさらないでください。少しだけでも、大丈夫ですから」
けれど、日を追うごとに、リリアの体は、確かに小さくなっていきました。
もともと細かった手首は、いっそう頼りなくなり、頬にも、以前のような血色はありませんでした。
ドレスの袖からのぞく腕は、骨の輪郭がうっすらと分かるほど、痩せていきました。
それでも、目を覚ました時には、必ずラシードと蒼月、どちらかがそばにいました。
「今日は、少し調子がいいです」
そう言って微笑む日もあれば、
「ごめんなさい、少し、眠くて……」
そのまま、瞼を閉じてしまう日もありました。
ラシードは、そのたびにリリアの手を握りました。
細くなった指先を包むように握り、眠りに落ちるまで、ずっとそばにいました。
蒼月は、ベッドの近くに立ったまま、リリアの魂の灯を感じ続けていました。
その光は、まだそこにあります。
けれど以前よりも細く、薄く、風の届かない場所でかろうじて揺れている小さな灯のようでした。
「……分かっていたはずだ」
ある日、リリアが眠ったあと、ラシードが絞り出すように言いました。
「分かっていたのに、こんなに早く来るとは、思わなかった」
蒼月は、リリアの寝顔を見つめていました。
ラシードは口を閉ざし、目を伏せました。
言葉にすれば、目の前の現実が、さらに確かな形を持ってしまうような気がしたのです。
蒼月は離宮の中庭へ出ました。
「命の」
「なんだ」
姿は見えません。
声だけが、どこからともなく中庭へ響きました。
「リリアを助けてはくれないか」
「無理だ。理に反する。それがどういうことなのか、分かって言っているのか」
「お願いだ」
風が木々の葉を揺らしました。
蒼月はその場に立ち、声の主が再び言葉を発するのを待ち続けました。
けれど、返事はありませんでした。
蒼月の瞳から、涙がこぼれました。
セシリアは、リリアの髪を毎日丁寧に梳きながら、その顔色の変化を、誰よりも近くで見つめていました。
櫛を通すたび、指先に触れる髪の軽さが、胸に痛いほど伝わってきます。
「リリア様は、いつも綺麗です」
セシリアは、震える声を抑えながら、いつもと同じように言いました。
「今日も、とても」
リリアは、うっすらと目を開けて、微笑みました。
「ありがとう、セシリア」
その声はかすかでした。
けれどセシリアには、何よりも大切な声でした。
窓の外では、季節が、移ろい始めていました。
太陽の国で浴びた眩しい光は、もう遠い記憶のようでした。
白い砂浜も、透き通った海も、夜の波音も、確かにリリアの中に残っています。
けれど今、リリアの時間は、少しずつ、短くなっていました。
リリアは、ラシードの手を握っていました。
リリアの手は、以前よりもずっと細くなっていました。
けれど、指先だけは、最後までラシードの温もりを探すように、かすかに動いていました。
「ラシード……」
「ここにいる」
ラシードは、すぐに答えました。
「俺は、ここにいる」
リリアは、ゆっくりと瞼を開けました。
視線は少し霞んでいました。
それでも、ラシードの顔だけは、ちゃんと見えているようでした。
「あなたと一緒に、未来を歩けなくて、ごめんなさい」
ラシードの喉が、かすかに震えました。
「子供を産んであげられなくて、ごめんなさい」
「やめろ」
ラシードの声が、低く掠れました。
「あなたを、一人残してしまって、ごめんなさい」
「謝るな」
ラシードは、リリアの手を強く握りました。
「謝るな、リリア」
リリアは、泣きそうな顔で、それでも微笑もうとしました。
「私がいなくなったら……」
「言うな」
「お嫁さんをもらって、幸せになってね」
「駄目だ」
ラシードの声が震えました。
「リリア、そんなことはできない」
「だめよ」
リリアは、弱く首を振りました。
「ラシードには、生きてほしいの」
「リリア」
「ラシードの子は、きっと、美しくて、かわいいわ」
ラシードの瞳が、大きく揺れました。
「リリアだって、そうだ」
その声は、祈りのようでした。
「リリアだって、そうなるはずだった」
リリアは、ほんの少しだけ眉を下げました。
「無理を言わないで」
その言葉は、とてもやさしくて、とても残酷でした。
ラシードの唇が震えましたが、声にはなりませんでした。
リリアの指先から、少しずつ力が抜けていきます。
ラシードはそれを逃がさないように、両手で包み込みました。
「リリア」
呼びかけても、リリアの瞼はゆっくりと落ちていきました。
「リリア」
ラシードの声が、震えました。
けれど、リリアの瞼は閉じたままでした。
その意識は、遠のいていきました。
部屋には、リリアの浅い呼吸だけが残りました。
蒼月は寝台のそばに立ち、リリアの魂の灯を感じ続けていました。
細く、薄く、それでもまだ消えてはいない光。
しばらくして、リリアの睫毛がかすかに震えました。
ラシードが息を呑みます。
リリアは、ゆっくりと目を開けました。
今度は、蒼月の方を見ていました。
「蒼月……」
蒼月の瞳が、揺れました。
「ここにいる」
声は、ひどく低く掠れていました。
「私は、ここにいる」
リリアは、安心したように微笑みました。
「あなたに会えて、よかったわ」
蒼月は、言葉を失いました。
「私、あなたに会えなかったら、こんな人生はなかったわ」
その声は、とても小さなものでした。
けれど、蒼月には、はっきりと届いていました。
「短かったけれど、充実していました」
リリアは、蒼月を見つめました。
「本当に、ありがとう」
蒼月の顔が、苦しげに歪みました。
「リリア……すまぬ」
声が震えました。
「私のせいで」
「それは、もう言ったでしょう」
リリアは、かすかに首を振りました。
「後悔はしていないし、蒼月のせいではないわ」
蒼月は、何も返せませんでした。
リリアは、動かしにくそうな指先を、ほんの少しだけ伸ばしました。
蒼月はすぐに膝をつき、その手に自分の指を添えました。
冷たくなりかけた指先が、蒼月の指に触れます。
「蒼月」
「なんだ」
「私を、見つけてくれて、ありがとう。自由に生きて」
蒼月の喉が、震えました。
「リリア、私に名前をくれてありがとう」
リリアは、かすかに微笑みました。
「あなたがいたから、私は、最後まで一人ではありませんでした」
その言葉に、蒼月の瞳から、涙が落ちました。
リリアは、それを見て、少しだけ困ったように微笑みました。
「泣かないで」
「無理を言うな」
蒼月の声は、ほとんど声になっていませんでした。
リリアは、ゆっくりと瞬きをしました。
その瞳の光が、少しずつ遠くなっていきます。
「ラシード……」
ラシードは、すぐに身を乗り出しました。
「ここにいる」
「蒼月……」
「ここにいる」
二人の声を聞いて、リリアは、安堵したように息を吐きました。
「よかった……」
その言葉が、部屋へ落ちました。
リリアの瞼が、ゆっくりと閉じていきます。
ラシードは、その手を握ったまま、何度も名前を呼びました。
蒼月は、リリアの魂の灯を感じ続けていました。
消えないでくれ。
まだ、ここにいてくれ。
願いは、声になりませんでした。
ただ、二人の手の中で、リリアの温もりが、少しずつ遠ざかっていきました。




