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銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお
第一部 第五章 千年前の真実

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第百三話 喪失

リリアの胸が、最後に一度だけ上下しました。


ラシードも蒼月も、声を上げずに涙を流していました。


窓の外では、鳥が鳴いています。

廊下では、誰かの足音が通り過ぎていきました。


リリアがいなくなったのに、世界だけが続いていました。


「リリア、リリア」


ラシードは、リリアの傍らで手を握り続けていました。

指先には、まだ温もりが残っています。

胸元を見つめても、次の呼吸は訪れませんでした。


「目を開けてくれ」


リリアの瞼は閉じたままでした。

ラシードはリリアの手を両手で包み、冷えていく指先を何度も擦りました。


最後までそばにいると決めていました。

残された時間が長くないことも知っていました。

それでも、覚悟していた別れは、この瞬間を受け入れる助けにはなりませんでした。


夫婦になったばかりでした。

リリアが自分の望みを口にし、自分のために生きようとした時間は、始まったばかりだったのです。


海も、星も、あの日に交わした約束も、これから続いていくものだと思っていました。

見せたい景色も、共に歩きたい場所も、まだいくつも残っています。


「まだ、これからだっただろう」


ラシードはリリアの手を額へ押し当てました。


戦う相手がいるのなら、剣を取れました。

傷つける者がいるのなら、命を懸けて退けられました。


けれど今は、何を斬ることも、何から守ることもできません。

愛する者の命が失われていくのを、ただ見届けることしかできませんでした。


「すまない」


涙が、リリアの指へ落ちました。


「もっと早く、攫っておけばよかった」


誰かのためではなく、自分のために笑う時間を与えたかった。

役目も、力も、何も背負わずに生きる日々を、もっと長く歩ませたかった。


ラシードは何度も名を呼びました。

呼ぶたびに、その声は掠れていきました。


蒼月は、部屋を出ました。

そのまま、離宮の中庭へ向かいました。


魂に、穴が開いていました。

最後まで、リリアと魂が繋がったまま、蒼月の魂は欠けてしまったように感じます。


どれほど意識を伸ばしても、リリアの魂に触れられません。

森で出会った日から、どれほど離れていても感じられたものが、どこにもありませんでした。


風が木々を揺らしていました。

陽の光も、花の色も、何ひとつ変わっていません。


――こんなことが、私は……。


――全ては私の力が無かったせいで。


――愛する者も守れず、何が人に神と言われている存在だ……。


一人の人生を、全うさせてやることさえできませんでした。


蒼月は胸元を掴みました。

リリアの魂と繋がっていた場所には、失われたものの形だけが残っていました。


銀狼だったころの私を恐れず、何度も森へ会いに来た娘でした。


人の姿に戻った蒼月を見て、リリアは泣きながら笑いました。


――これで、自由になれるね。


あの言葉を思い出すたび、胸に開いた穴が広がっていきました。


リリアを失って得た自由に、何の意味があるのでしょう。

抱き上げる腕があっても、そこにリリアはいません。

名を呼ぶ声を取り戻しても、その声を聞く者はもういませんでした。


蒼月は石卓へ手をつきました。

石の表面に亀裂が走りました。


手首で、星の貝殻が揺れました。


それでも、胸の内からあふれるものは収まりませんでした。


人から神と呼ばれながら、リリアを救えませんでした。

理を統べる力を持ちながら、一人の命を守れませんでした。


祈る相手も、救いを求める相手もいません。

蒼月自身が、祈りを向けられる側の存在だったからです。


それなのに今は、涙を流すことしかできませんでした。


部屋では、ラシードが同じ姿勢のままリリアの手を握っていました。

日が傾き、窓から差し込む光が寝台の端へ移っても、そこを離れませんでした。


やがて、扉が開きました。


清めの支度を整えたセシリアとミラが入ってきました。

二人は寝台のそばにいるラシードを見て、足を止めました。


ラシードがリリアの手を離すまで、二人はその場で待ち続けました。


時間が過ぎるほど、手の中の温もりが失われていきます。

ラシードは最後にリリアの指を握り直し、その額へ口づけました。


「また来る」


リリアの手を寝台へ戻したとき、指先が細い金の輪に触れました。

手首には、星の形をした貝殻の腕輪が、そのままありました。


白い街の店先で、リリアが選んだものでした。

同じものを三つ、包んでもらっていました。


ラシードは、自分の手首へ目を落としました。

同じ星が、そこにありました。


「これは」


ラシードの声が、落ちました。


「外さないでくれ」


セシリアは、頭を下げました。


「……はい」


ラシードは立ち上がりました。

足が扉へ向かっても、何度も振り返りました。


廊下へ出ると、侍従が一人、向こうから歩いてきました。

弔いの支度について、指示を仰ぐためでした。


ラシードは、その顔を見ました。

言葉が出てきませんでした。


ミラが部屋から出てきて、代わりに応じました。

侍従は頭を下げ、来た道を戻っていきました。


ラシードは、壁へ背を預けました。


部屋では、セシリアがリリアの髪を梳いていました。


金の髪の中に、銀のひと房がありました。


はじめにそれへ気づいたのも、セシリアでした。

蒼月とおそろいだと、リリアは笑っていました。


セシリアの手が、そこで止まりました。


それから、また動き始めました。


その時、王城の鐘が鳴りました。


ゴーン……。


低く重い音が、離宮の壁を震わせました。


高貴な者が亡くなったことを告げる、弔いの鐘でした。


ゴーン……。


二度目の音が城壁を越え、王都へ広がっていきます。

道を行く者たちは足を止め、商人は手を止め、窓辺にいた者たちは王城を見上げました。


ゴーン……。


長く尾を引く鐘の音が、街の隅々までリリアの死を伝えていきました。

その音は、離宮の中庭にも届きました。


蒼月は顔を上げませんでした。

胸元を掴んだまま、鳴り続ける鐘を聞いていました。


ゴーン……。


森で出会った娘が、もうこの世界のどこにもいない。


ゴーン……。


蒼月と名を呼んだ声も。

ラシードの隣で笑った顔も。

二度と戻らないのだと、鐘が打ち鳴らすたびに突きつけられました。


ゴーン……。


リリアがいなくなっても続いていた世界が、ようやくその死を知りました。


鐘は、何度も響きました。


リリアが生きた世界のすべてへ、その命が失われたことを告げるように。


第一部・完



銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~


第一部・完


ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。


森でリリアが一頭の銀狼と出会ったところから始まったこの物語も、蒼月の正体、千年前の聖女ソフィアとアルヴァンの旅、そしてリリアとラシード、蒼月、三人の絆を経て、ひとつの大きな山場を迎えました。


第一部は、ここで一区切りとなります。


けれど、物語はまだ終わりではありません。


第一部で語りきれなかったものが、第二部へと続いていきます。


次回からは、外伝ソフィア編をはさみ、第二部へと入ります。


外伝では、本編で蒼月が語った、千年前のソフィアとアルヴァンの出会いを、ソフィア自身の目を通して三日間お届けします。


そして第二部では、その千年前から続く因縁――封じられし魔王との戦いが、蒼月とラシードを待ち受けています。


第二部について少しだけお話すると、二部は人と魔物の争いから離れ人ならならなず者同士の争いが中心となります。


第二部でも、また皆様にお会いできますように。

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